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第七章

夜明け4 マは魔法のマ 〜 M is for Magic.

♪魔法使いのマニア 〜 Non-Equational Power

 

惑星地球は、地熱であれ光であれエネルギーを投入して水を解離して水素と酸素をつくり、投入したエネルギーを水素と酸素の化学ポテンシャルに変換して、それらを小出し≠ノすることで、つねにエネルギーが流れるようにしている。条件さえそろえば、このエネルギー流のなかで、プリゴジンの六角形≠竍渦≠フような秩序だったパターンができる。そのひとつが「生命の渦」である。熱水噴出孔下のパイライトが生まれたのも、進化を重ね、人類が宇宙へ旅立つまでにいたったのも、すべてはうたかたの渦なのである。

長沼毅(たけし) 『生命の星・エウロパ』より

 

「もう、限界なのかな」

憂鬱な心と疲れ切った体に鞭打って森の上空を飛び続け、ようやく我が家が見えた時、私はそんなことを呟いていた。湿った雪に濡れた服がずっと重い。箒を握る手にも力がない。夕暮れが近いのか、ぼんやりとしかし暗さが迫っている。

原生林に囲まれた家の屋根に雪がこれでもかと積もっている。雪降ろしのことが頭をよぎり、追い打ちをかけられた気分になった。玄関前に着地しようとすると、遊び相手が来たと思ったのか、森に住む妖精たちが一斉に弾幕を飛ばして来た。だが、私がミニ八卦炉を帽子から取り出すと、妖精の群は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。雪の上に着地して、しばらく私は正八角形の金属製の炉をじっと眺めた。体の温もりから離れた炉はみるみる冷たくなっていった。

舞い落ちた一つの雪片が☲()の卦に乗った。

「やっぱり離か。……当たりすぎる占いは凹むだけだぜ」

離の卦は「火」を表す一方で、一爻と三爻の陽に挟まれて陰がある。外から見ると陽気に見えるが、中は陰気だと示されているのだ。私は炉を自分の服に擦りつけて雪片を拭うと、店舗兼住居になっている洋風家屋の扉を開けた。

私の家は、いつも通り物置のようにごちゃごちゃと道具や材で溢れながら私を出迎えた。しかし火の気がなく寒々しい。

私は、毎年冬になると使用していた魔暖房、つまり温泉脈を召喚して作った床暖房のような器具を、この日は消しておいたことを思い出した。いつもは暖かいはずの魔法室も冷え切っている。地底で暑くて死ぬ思いをしたため、地底から帰ってくると魔暖房や魔法室の暖を全て落としてしまったのだ。それが全て裏目に出てしまい、私は苦々しく思った。しかし、代わりに豆炭を熾(おこ)しておいたはずだ。その暖炉の燠(おき)まで消えてしまったのか、と冷たくなった暖炉を火箸でかき回した。懸命に探すと、かろうじて灰の奥にわずかな火があった。私は嬉しくて、思わず泣きそうになった。

私はミニ八卦炉も使わず、忍耐強く新しい炭に火を移した。そして暖炉が赤々とすると、脱いだ上着を暖炉の前に渡した竿へ乱暴に放り掛け、ベッドに深く潜り込んだ。

 

部屋はなかなか暖かくならず、私は頭まですっぽり毛布を被ると、膝を抱えてじっと耐えた。寒い日の布団の中は、さながら一つの宇宙だ。私は、足の指先や肘の先の「辺境」にまだ残る布の冷たさを感じつつ、まんじりともせず色々なイメージを頭の中に浮かべた。そして最後に、消えずに残っていた暖炉の火のイメージが浮かび、先刻山の神社で戦った相手の弾幕を連想した。

「おお、そうか。恋の埋火か」

私の独り言が毛布の中の宇宙に木霊した。

「くたびれすら儲からなかったが、火は消えていないぜ」

私、霧雨魔理沙は、そっと自分に言い聞かせた。

 

なぜこんなにもくたくたになったのか。それは、間欠泉とともに怨霊が湧いてその異変に巻き込まれて妖怪の依頼を受けて地底に行って戦って黒幕を見つけようと山の神社にも行って……なぜか地底から来た参拝客の妖怪と戦うはめになったからだった。

そして、ボロボロになった。勝ったはずだが、今では負けたような気分だ。あのヤブ蚊のコロニーのような弾幕なんか、夢に出てきそうだ。通信を取っていた依頼主の妖怪には虚勢を張っていたが、ひたすら疲れて気を失いそうだった。

そういえば依頼主は誰だったっけ? 人形遣いだったような気もするし、紅魔館の魔女だったような気もするし、山の河童だったような気もする。

すべてがどうでもよくなってきた。

腕に力を込めてぐっと脚を抱えた。布団の大宇宙の中で、膝頭に額がついた。なぜこんな気分なのか。古明地こいしと戦っている最中は、まだ陽気な気分だった。だが、戦いが終って帰路につくと、とたんに疲れがどっと押し寄せてきた。そういえば、固く閉じているように見えたこいしの第三の瞼が、戦い終わった後に少し動いた気がした。あの時、自分の心の深い部分が揺さぶられたのかもしれない。

通信機をサポート役に返却した時には、これで虚勢を張らなくて済むと少しほっとしたものだ。あの妖怪たちは、安全なところから私のサポート役をこなしたつもりだったかもしれない。いや違うか、暖かい家の中で午後の紅茶を楽しんでいたような気も……。だから私はこんなにボロボロになったのだ。サポートが上手くいかなかったせいだ。でも、本当は、ボロボロなのにひねくれてサポートなんか要らない素振りで通した自分のせいなのかもしれない。

手を少し伸ばして、布団宇宙の中に浮かぶ霧雨銀河の、辺境に位置する両足の指を、両手で包んだ。手に冷えが、足に温もりが伝わっていく。心までボロボロになった理由は、それだけのせいじゃない。戦いが終わって通信機を返した時に、気付いたからなのだ。……一番サポートして貰いたかった人がそこにいなかったことに。

そこまで思いが至った時、私はがばっと跳ね起き、いそいそと服を着始めた。ネイビーブルーの服や帽子、靴は湿って濃紺になったまま全然乾いていないし、菫色のショールは無惨に汚れてしまっている。やっぱり汚れが気にならない黒い服にするべきだったかとちょっと思ったが、気にしていられない。夜になる前に森の奥にある祠を目指すのだ。

 

瘴気に満ちた魔法の森の奥深くに、小さなお社がある。建てられてまだ新しく一年ちょっとしか経っていない。何を隠そう、私が建てた祠だ。

昨年の秋、山に新しい神様が湖ごと引っ越して来たことがあって、自分も神社を建ててみようと思ったのだ。

「信仰の意味は信仰してない者には判らない……か。だったら信仰してみるか。自分でちっちゃな神社を造ってみてな」

当時はそんな軽い気持ちで、石を運んできて礎を作り、鋸とトンカチで木材を加工して、それらしい社を造ったのだった。だが、神社の中身がどうなっているのかは知らなかった。ひとまずちっちゃな座布団を入れることにした。

「とりあえず、中に入れる神様はこの間の神様で良いや」

そう言って八坂神社と命名するか、と思ったとたん、背後から声がした。

「こら!」

「うわ!」 

この間の神様、つまり山で戦った八坂神奈子が現れたのだ。

神奈子の名を冠した分社を造れば、いつでもその神社に行くことが出来るらしい。神奈子は、汚い座布団を入れるな、と偉そうなことを言って私の頭をぐりぐりした。この神は、私の分社を造ろうとすることは構わない、と言いつつ、その後も造っているはしから私のところへやって来ていちゃもんをつけた。そのせいで結局、神社を造るのは途中で投げ出してしまった。私は諦めたあと、神奈子に訊いた。

「信仰の意味が判らない」

すると、神奈子はこう言った。

「貴方が魔法に対して感じている思いですよ」

その言葉で、信仰の意味が判った。

 

そして今、昼なお暗い森の中を、雪を踏み固めながら祠へ向かって歩いている。かんじきを履いて来れば良かったかな、と思ったが、空気を清浄にする機能もあるミニ八卦炉を気休めに振り回しつつ、なんとか瘴気を除けて社の前まで辿り着くと、私は何かの予感に駆られて、社の中を覗き込んだ。しかし、私の予感は外れた。社の中には、創建当時と同じように座布団が一枚敷かれてある。そしてその上にお供え物の桃が一つ載っているのを見た。

「おかしいな。どうして食べてくれないんだろ」

 

この桃は、月へ行ったとき捥いで持って帰ったものだ。

桃を座布団ごと持ち上げてみた。座布団の下には小さな紙が敷かれていて、『へ』と大きく書かれてある。私が桃をお社に供える時、魔法に対して感じている思いを込めて紙に言葉を書いたら、『へ』という字が自然に出てきたのだ。その時は、は勿論、Magicだと思った。しかし、それだけではないことは、おそらく無意識のうちにわかっていた。私は記憶を必死に絞り、文字通り頭を抱えてある人物のことを思い出そうとし、一つだけ記憶を取り出すことが出来た。

「あの方は、神になりたがっていたからな」

私は、桃を祠に供え、神社と名付けた。

だが、桃には変化がなかった。春になり、梅雨になり、秋が過ぎて冬になっても、誰も手を出さず、桃の方は腐りもしなければ乾きもしなかった。小さな小さな神社の中で時間が止まっているかのようだ。桃を供えてからとうとう一年が経とうとするのに、桃は供えたその時と同じ姿でそこにあった。私はうなだれてとぼとぼと帰った。

「やっぱり私は限界なのかな」

 

森の中の帰り路は驚くほど静かだった。

冬なお葉で溢れる木立の間にうっすら見える空は、迫る闇に侵されて丼鼠(どぶねずみ)色になりつつある。

そういえば、ぼろぼろになって帰ったことが過去にもある、と思った。紅霧異変の時、パチュリーに会って、負けて本を盗んで退散した時だ。あの時、自分は沢山カードを持っていたのに使う暇もなく被弾して悔しかったのを憶えている。

月明かりでぼんやり明るい湖の上を、紅い霧の中家へ向って飛んでいる帰りに、金髪で黒服の自分と良く似たなりの妖怪に会った。行きに戦ったルーミアだった。襲われたら闘う気力があるだろうかと思っていると、ルーミアは攻撃する素振りも見せず、両腕を後ろに回した格好のまま、私の顔を上から覗き込んで私と平行に飛び始めた。ルーミアの頭上に、ぼやけて数倍にも膨れた満月が見えた。

「さっきの魔法使い、逃げ帰る最中?」

「家の裏にキノコが生えているのを思い出して、採り込みに戻るんだよ」

「洗濯物じゃあるまいし。どうして負けたの?」

「まだこいつに慣れてないのか、相手の弾を喰らう瞬間にマスタースパークを撃っても、出る時と出ない時があるんだ」

私が、香霖によって「ひひいろかね」を添加されたばかりの新しいミニ八卦炉に視線を落とすと、その脇でルーミアはうっすら微笑し、全然違うことを訊いてきた。

「あんた、さっき人類が十進法を採用しました、と言ったね。それは本当なの?」

妖怪と真面目に話しても無駄だと、私は投げやりに答えた。

「人間の指の数は十本なんだよ。だから……」

「だから、あんたは弾幕ごっこに負けるのよ。もう一回訊くわ。本当に十進法を採用したと思う?」

「ああ本当だぜ。お前はいつからロイヤルミントが十進法で動いているか知っているか?」

「知ってるわよ。幻想郷の第八十六季、外の世界のグレゴリオ暦で一九七一年二月十五日」

「ほう」

私は、ルーミアが即答したことにびっくりした。英吉利で使われている通貨、ポンド・スターリングとその補助貨幣は、長い間伝統的なレートで取引されていた。一ポンド=二〇シリング=二四〇ペンスだったのだ。ロイヤルミント、つまり王立造幣局で作られる各種コインもそれに基づいて打ち出されていた。それが、グレゴリオ暦の一九七一年二月十五日に、一ポンド=一〇〇ペンスになり、シリングは幻想に消えた。英吉利ではその日を十進法の日としているらしい。

昔、私は親父の蔵書を漁り、英吉利語の本を読み耽ったことがある。マザー・グースの詩などとともに魔法使いの乳母、メアリー・ポピンズの物語に耽溺したが、その中にミントと英吉利のコインが出てきた。私はミントが日々魔術的にコインを打ち出す様を夢想し、そしてあの魔法のように美しいクラウン銀貨が、すでに流通していないのを知って残念に思ったものだ。そんなポンドの歴史をどうしてルーミアが知っているのか不思議だった。私の様子を窺って、ルーミアはパッと笑った。ルーミアの感情の表れか、黄色と緑色の二粒の弾が金色の髪から飛び出た。

「あんたは、時間の単位が何進法か知らないの?」

「午の刻とか、子の四つとかのあれか?」

「それならそれでいいけど、でもあんたたちは、あの紅い館の攻略に二時間かかっていたわ」

「確かに時間は六十進法の体系だったか。一時間の六十分の一は分、つまりミニッツ、一分の六十分の一が秒、つまりセカンドだな」

「その認識があんたの陥った罠ね。ミニッツとセカンドは本来正しい言い方ではない」

「そうなのか?」

「一時間を六十で分割したのが、第一の分割(プライムミニッツ)で、第一の分割(プライムミニッツ)をさらに六十で分割したのが第二の分割(セカンドミニッツ)よ。ミニッツとセカンドはその略語でしかない」 

私は飛行速度を緩めた。

「そして、この幻想郷には、さらに第二の分割(セカンドミニッツ)を六十で割った……第三の分割(サードミニッツ)という時間の単位があるの」

「なんだと? サードミニッツだと?」

私はびっくりした。

「そう。1時間=60′、1′=60″、1″=60‴」

「サードミニッツ、つまり六十分の一秒の単位があるだと……にわかに信じがたいな」

「幻想郷の弾幕ごっこでは、このサードミニッツが時間の基本単位になってるの。相手の弾幕に被弾したとき、同時に自分がスペルカードを発動しようとして間に合う時と間に合わない時があるのは、サードミニッツのカウントが大きく影響しているからよ」

「そうなのか……」

ルーミアの賢さに私は驚いた。

「お前は、賢かったのか?」

ルーミアは両手を延ばして、少し私から離れると、また両腕を後ろに回した。お互いの黒い服と金色の髪が、紅い霧の中にはためいた。

「妖怪とは人間の望む姿が投影されるものだから、軽くあしらいたいときは、馬鹿にすればこちらも馬鹿なフリをするし、何かを得ようと思うのなら、居住まいを正して向かい合えば、こちらも相応の賢さをもって対応するのよ」

なんとなく、私はルーミアが闇を操っていることを理解した気がした。ルーミアは、ほとんど微風のような速さでゆっくり飛んでいる私に向けて言葉を発した。

「ついでに人類に訊いてみようか」

ルーミアが、以前戦った時と同じように、右手を下に、左手を上に向けた。釈迦牟尼が生まれた時に「天上天下唯我独尊」を宣言した恰好をちょうど左右逆にしたようなポーズだ。

「旧約聖書において、神が創造出来なかったものが少なくとも二つある。それは何か?」

なぞなぞである。私は、親父の蔵書の中にあった旧約の天地創造の場面を思い起こしていた。そして気づいた。

「紅茶と珈琲だろ?」

「それもあるけど、もっともっと濃いものよ」

「……闇だ」

「正解」

ルーミアは微笑んだ。

「もう一つはなんだ?」

「自分自身でよく考えなさい」

ルーミアはそこで両腕を水平に伸ばしたポーズを取って、ふふふ、と笑った。ルーミアはそのまま闇へ消えて行きながら、こう言った。

「もし、ヤハウェを超える魔法の力を手に入れたいと願うのなら、卵を見つけなさい。宇宙を孵すことの出来る卵、宇宙卵を」

私には、紅い霧の中、闇に消えて行く少女が、確かに、聖者が十字架に磔られました、と言っているように見えた。

そんな昔の記憶を、冬の森の中で不思議と思い出した。

私は今年開発したばかりの魔法、恋符「マスタースパークのような懐中電灯」を詠唱して雪行の助けにした。

ルーミアとあの話をして、私はスペルカード戦の腕が少し上達した気がする。最終手段として、相手の弾幕に被弾した後の数サードミニッツの間にスペルカードを使い、被弾を無効にすることを覚えたのだ。そして、その力を最大限に発揮できる異変、永夜異変が訪れるのだが……。

そこまで思いを巡らせた時、私は再び玄関前に着いていた。

 

玄関をくぐると、魔暖房が威力を発揮したのか、室内は暖かくて快適だった。だが、地底であの強烈な力に中()てられた私は、自分の部屋にも人工太陽が欲しいと思った。

もし人工太陽があれば、水分が、髪から、顔から、胸から、腕から、足から、乾いていくのが感じられただろう。そうしたら、私は、部屋の中央に進みがてらに、着ているものを破り捨て、ふかふかの厚いベッドにむきだしの裸で横になって光線を浴びただろう。

さっき帰って来た時よりもさらに濡れて重くなった青黒い帽子や服を乱雑に脱ぎながら、少しそんな空想をした。ついで、湯に入ったら夕食にしよう、と思った。厨房には、水にさらした黍があるし、大根や蕪もある。地底で戦った地獄鴉に「今夜は鳥で一杯だ!」と言った手前、鳥肉が欲しいところだが、あいにく肉はない。

床に回していた温泉を浴槽の方に付け替え、私はとりもなおさず湯に入ることに決めた。長い時間かかってようやく満ちた湯船に身体を沈めると、ひときわ盛大な溜息が吐いて出た。そして湯気が天井に揺らめきながら昇っていく様を見上げると、自分の「限界」について取り留めもない考えが再び繰り返し湧いてきたのだった。

限界を感じる理由は明白だ。永夜異変に原因があった。

永夜異変は複数の歴史が交錯してよくわからない事件だと言われるが、私は永遠亭に住む八意永琳と確かに戦っている。それは事実だ。何より私が書き留めている書物『The Grimoire of Marisa』に、永琳のスペルカード、神符「天人の系譜」と、蘇活「生命遊戯―ライフゲーム―」の項で、「永夜異変の時に」とただし書きがある。――同じように、紅霧異変の際に、ルーミア、紅美鈴と戦ったことや、永夜異変の際にリグル・ナイトバグ、博麗霊夢と戦ったのも、自分の本に書いたのだから事実だし、また、私自身の歴史でもある。とにかく、永夜異変の時に、私は八意永琳と戦ったのだ。

事件は、永琳が最後に放ったスペルカード、秘術「天文密葬法」の最中に起こった。

 

あの時、私は、自分の弾幕のパワーに酔っていた。少し前に永遠亭に住んでいた妖怪兎と戦った後、一緒に戦っていたアリス・マーガトロイドに「弾幕はパワー」だと言ったところ、アリスから「弾幕はブレイン。常識よ」と言われてカチンと来ていたのだ。

アリスの人形のレーザーより自分のイリュージョンレーザーの方がよっぽどパワフルで使い勝手が良いのは明らかだった。永琳と戦う前に、ついに私はアリスに言った。

「さっきから、魔理沙魔理沙うるさいなぁ。結局人が居なきゃ何も出来ないのかよ」

私はアリスに「弾幕はパワー」だということを見せつけようと思った。

「あいにく、私は薬学の心得があるから、多少の怪我なら大丈夫だけど」

こんなことを永琳がのたまったので、全力を出せるだろうとも思っていたのだ。弾幕戦は予想通り私が圧倒し、ちょうど永琳が神脳「オモイカネブレイン」なる私に対する当てつけのような弾幕を放ってきたので、魔砲「ファイナルスパーク」でオモイカネブレインを吹き飛ばした。気持ち良かった。弾幕はブレイン、なんて常識のはずがない。たとえ常識だったとしても、それは外の世界の常識だ。私は、自分のレーザーに敵うものは存在しないと思っていたのだ。なにしろ、あの霊夢を竹林で圧倒したのだから。私は、その昔失った自分の誇りを、紅霧異変以降着実に取り戻しつつあると思っていたのだ。

私は、数年前以前、正確には紅霧異変が起きた夏以前の、記憶の大部分を失っている。明確に思い出せるのは、神社に外の世界からやって来た、サボテンという植物のエネルギーで動く機械のメイド「VIVIT」と戦ってからだ。あの時、私は酷い目に遭った。それから一人で修行を重ねた成果が出て、ようやく霊夢すら圧倒できるところまで来た、と思えたのが永夜異変だった。そんな風に私が自信に酔っていた時、永琳が秘術「天文密葬法」を放ってきた。

技の名前と弾幕から、これこそが満月を隠した秘術なのだとわかった。そして私のスターダストミサイルでなすすべなく破壊されていく永琳の使い魔、つまり天蓋を模した宇宙観を砕きながら私は、なんと他愛のない、これで異変解決の手柄は私のものだ、とほくそ笑んでいたのだった。私は、永琳が使い魔で作りだした天蓋を全て破壊し終わると、永琳の目の前にまで近づいた。使い魔がなくなってしまった永琳は一人寂しく大弾を放っていた。私は、ここまで近づいたらさすがに私の弾幕を避け切るのは難しいだろう、と思う位置まで近づいたが、さらに一つの企みを持っていた。永琳がまさに被弾した瞬間、永琳の放った大弾にこちらもわざと被弾し、そしてさらに次の須臾の瞬間に、私は魔砲「ファイナルスパーク」を永琳から一寸と離れていない至近距離から放ったのだった。

撃った瞬間、私は人生最大の後悔をした。

 

ミニ八卦炉から、自分でも予想していなかったとんでもない威力のレーザーが飛び出て、私は相手を殺してしまうだろうことを直感し、同時に永琳は閃光に包まれていった。

私は人を殺めてしまった。その圧倒的な実感に襲われて、全てを失ったかのような喪失感に茫然自失となった。

 

「何遊んでいるのよ!」

 

虚ろになった私の心にどこからか声が響いた。

「永琳、私の力でもう一度だけチャンスをあげる。これで負けたらその時は……」

あの時は知る由もなかったが、永遠亭に住む姫、蓬莱山輝夜が駆けつけて来たのだった。

「そこの野良猫! 私の力で作られた薬と永琳の本当の力、一生忘れないものになるよ!」

その言葉の直後、焼き尽くされて死亡したはずの永琳の肉体が瞬時に復活したのを、私は見た。

∞の形に、あるいはメビウスの輪かクラインの壺のように光が無限の運動を始め、敵の二人は薬を生成しつつ、弾幕を飛ばして来た。永琳が何の薬か、宣言した気がするがその時はもう何も耳に入って来なかった。

アリスに袖を引っ張られてなんとかミニ八卦炉を構えた。そしてマスタースパークを撃とうとしたが、どんなに頑張っても撃つことが出来なかった。その時私は思った。人を殺めたことで、マスタースパークが撃てなくなってしまったのだと。私はそのまま被弾した。

 

私は、それでももう一度アリスと出て行かなければならなくなった。満月が戻ってはいないことがわかってしまったからだ。それをアリスに見せようと博麗神社の境内で待ち合わせ、アリスに面白いものを見せると言うと、アリスはこんなことを言った。

「何よ、面白いもん見せるって。どうせ、魔理沙の面白いもんって月の兎の目玉焼きとか、霊夢の串揚げかなんかでしょ?」

私は、霊夢の串揚げを自分が食べている光景を想像して身震いし、アリスが自分に妖怪になるよう誘ったのかと思った。

「そこまでは面白くないけどな」

そう答えつつ私とアリスはもう一度出かけたが、それ以来一緒に活動することはなかった。

 

あの永い夜から、私はどこか弾幕ごっこが怖くなり、恋符「マスタースパーク」を封印した。

六十年周期の大結界異変の時も、山の新しい神様と戦った時も、全てマスタースパークを使えるのにわざと使わない風を粧(よそお)って誤魔化してきた。

山へ登った時は、貫通装備のイリュージョンレーザーが予想を遥かに上回る超威力になることがあって冷やひやしつつ、これならマスタースパークがなくてもいけると思ったが、あれはその時だけだった。原因は今もわからない。

今年の春に、妖怪を倒して最強になると息巻いていたチルノと戦った時は、相手を殺さなくて済むよう念には念を入れて開発した新しい魔法を実戦投入した。当たっても死なない程度のレーザー弾幕、恋符「マスタースパークのような懐中電灯」だ。しかし、妖精相手に大苦戦をした。チルノはボロボロになっていたが、私の方が心中穏やかではなかったのだ。

当たっても絶対に死なない攻撃では、こちらが酷く苦戦するはめになる。だが、威力を高めれば……あの感触を二度と味わいたくなかった。そこで生み出されたのは、オーバーリアクションを詠唱に組み込み、絶対誰でも見てから余裕で避けることが出来る、邪恋「実りやすいマスタースパーク」だった。あの天人くずれが起こした異変では、邪恋「実りやすいマスタースパーク」はほとんど相手へのボーナスで、この霧雨魔理沙が今でもマスタースパークを撃てるのだ、と言外に示すための、魅せ弾幕でしかなかった。他に用意した二つのカード、北極星をモチーフにした星符「ポラリスユニーク」と、昔から愛着があって使っているオーレリーズ系統の弾幕、天儀「オーレリーズユニバース」で勝てなかったら、負けてもいいとすら思っていた。そんな気持ちでスキだらけで避けてくださいと言わんばかりに邪恋「実りやすいマスタースパーク」を放ったので、使用した相手のパチュリー・ノーレッジや八雲紫、射命丸文、比那名居天子の四人は、当たり前のことだが――あっさり避けて、あっさり私を倒したのだった。

妖怪たちに敗れて倒れながら私は、邪まなのは心の底で怯えながら周りには恰好つけようとする自分の気持ちだと思っていた。

 

「邪恋か」

私は風呂の湯の表面から立ち上る湯気の中に人差し指を差出し、その指に魔力を込めて湯気をぐるぐるとかき回した。小さかった湯気の渦は、次第に奥へ水平に伸びて行って、筒のような勢いのある渦になった。

こいしと戦う経験をした後、もう一度「邪恋」の意味を考えると、もっと違う心理があったことにも気付いた。

私は、妖怪に倒された自分を、誰かが叱咤しに来てくれると心のどこかで期待していた。「もっと修行しなさい、魔理沙」と言ってくれるのを無意識のうちに待ち望んでいたのだ。

自分でもそれに気付いてびっくりした。こいしと戦ったせいか、以前よりも自分の心をずっと真っ直ぐ感じることが出来ている。そう、だから天儀「オーレリーズユニバース」も使ったのだ。あの魔法は、私が最初に覚えた魔法だった。

私が腕を湯船に沈めても、湯気の渦は生命を宿しているかのように形を変えながらしばらく残っていた。

 

恋符「マスタースパーク」を封印した後、正式に使用したただ一つの例外があった。月での戦いだ。私はスペルカード戦を月の使者のリーダー、綿月依姫に提案し、まんまと相手をこちらの土俵に載せた。だが、当の私といえば、「スターダストレヴァリエ」を放ったもののまったく通用しなかった。星弾を注ぎ、全方位から依姫へ向かわせているはずなのに、なぜか星弾は依姫の近くで静止してしまった。その不思議な現象を見て、私は「イベントホライズン」を放った。事象の地平を造り出し、相手をある点より近づく事も、離れる事も出来なくする、私が編み出した結界だ。だが、依姫はやおら刀で星弾を切り捨て道を作ると、弾幕をほとんど裸にされた私に近づいてきた。その時、永琳の秘術「天文密葬法」に対し、使い魔を全て壊したことを思い出した。あの時とちょうど立場が逆転した状況だった。依姫に、ただ遊ばれているようにしか感じず、どうにもこうにも、勝てる気がしなかった。

依姫は私の至近距離まで近づくと、「天津甕星(あまつみかほし)」という神を降ろして、私を圧倒した。私は弾き飛ばされ気力が萎えかかったが、そばにいたレミリア・スカーレットに蹴りを入れられ――本人は喝を入れるつもりだったのかもしれないが吸血鬼に蹴られると非常に痛いのだ――ついでに「どうせ負けるんならやりたいことやってから負けなさい!」と言われ、ガッツが回復し、マスタースパークを撃つ覚悟を決めた。やりたいことかどうかはともかく、その場にいたプロジェクトスミヨシの乗組員、博麗霊夢、十六夜咲夜、レミリア・スカーレットと三人のメイド妖精は、私がマスタースパークを撃つのを期待していて、私もよくわかっていた。私は最大限の虚勢を張った。

「ま、言われなくても、本気を出すぜ」

依姫にはマスタースパークを撃ってもいいだろうと思ったのだ。私は、「ファイナルスパーク」を放った。だが、同じ月の民である八意永琳を一瞬にして葬り去るほどの威力だ。心の中の恐怖は技に如実に表れ、マスタースパークは兎が搗いた餅のような頼りない姿で出てきて、私は別の意味で衝撃を受けた。しかも安全に配慮して遠くから撃ったためか、依姫はなんと持っていた刀で閃光を切り裂いた。信じがたい現象だった。

しかし、これなら相手を殺すようなことはないだろうと、私は安心しきってしまったのだ。

私は続いて「ダブルスパーク」を放った。予想通り、再び極めて残念で不恰好な姿のレーザーが出てきた。私はそれを見ながら、歴史を喰うという白沢にこの酷いレーザーを修正してもらえないだろうかとちょっと思った。だが、依姫は意外な行動に出た。一本の閃光は刀で斬った上で、もう一つの閃光を大きな鏡で跳ね返したのだ。油断していた私に向かって、跳ね返ってきたマスタースパークが迫り、その刹那、私は自分の死を感じた。

私は咄嗟に左に避けたが、当たっていたらどうなっていただろうかと今思い出してもドキドキする。しかし、ほっとしたのも束の間、マスタースパークは地球に向かって行った。

「あちゃー」

  そんな風におどけながら、今度は、地上の誰かに当てて殺してしまったかもしれないと思い、内心で蒼褪めたような気持ちになった。私はもう戦う気も失って、依姫と二言、三言交わすと、降参した。もう十分だと思った。ところが、依姫は次の対戦相手のレミリアと戦う前にこちらにやってきて、私の耳元でこう言った。

「さきほどのレーザーは人間には当たっていないから安心しなさい」

完全に見透かされていると思った。

最終的に、紅魔館のロケット組は全て依姫に敗北した。私やレミリアは月の都に入ることすら叶わず、依姫の姉の豊姫の力で幻想郷へ強制送還された。私は、悔し紛れに桃を幾つか盗んだが、おそらくそれに気付いていたであろう豊姫は黙認してくれた。あのM神社に供えた桃は、その時捥いだものだ。私は、あの祠へ供えるのに月の桃が相応しいと思った。何故かはわからないが、月に関係するものが良いと思ったのだ。記憶の中に封じられ、なかなか思い出せないあの方が無意識の中で月と結びついていたからだろう。

月で負け、天人との戦いでくたびれ、そして今回の地底の妖怪との戦いでは、自分がいかにマスタースパークに頼り切っていたのかを思い知らされた。とにかくつらくてつらくて仕方がなかった。妖怪の装備なんて期待した私が馬鹿だったのかもしれない。しかも、アリスやパチュリーは、敵が出てきたら即座に相手の至近距離から霊撃を叩き込むような戦法をさせるのだ。何が、人形を敵に直接当てたら威力が上がる、だ。何が五つの輪を重ねたら威力が上がる、だ。明らかに私の、永琳殺しのトラウマを見透かした上でやらせているのだと思った。にとりの装備に至っては苦行でしかなかった。殺しに来る地底の妖怪相手に、マスタースパークを撃てればどれほど楽かと何度思ったことか。

地底行を思い出せば出すほど、魔法使いとしての、人間としての限界ばかりが感じられる。そうしてクタクタに疲れた精神にまで、暖かくて心地よい温泉が浸入し、私はいつの間にか湯船の中で船を漕ぎ始めていたようだ。その時だった。

 

ドン。

 

突然湯船の底から音がして、私は湯の中でひっくり返った。

「なんだ?」

ドン、ドン。

何者かが湯船を地の底から叩いているような音だ。垢ねぶりのように風呂に出てくる妖怪はいるから、これも妖怪だろうかと思っていると、今度は湯船ごとぐらぐらと揺れ出した。

「おい、やめろよ!」

 私は得体の知れない相手に叫ぶと、風呂から出ようと魔力で飛び上がった。今は装備がないので襲われると対処のしようがない。だが、空中に飛び上がったはずが、湯船が私と一緒についてきて、私は空中で湯の中へ転げ落ちるはめになった。何物かが、湯船を天井近くまで持ち上げたのだ。

「あれ? ここの家はひょっとして?」

最近聞いたような声が下の方からした。

「ぶはっ」

私は、浴槽の端に手をかけて必死に起き上がった。三つ編みを解いてあった左の髪が、頬にべったりと張り付いて口の中に入っている。それを左手で引き剥がし、空気を求めて何とか湯船の外に首を出すと、下から差し渡し二丈、つまり六メートルぐらいはありそうな巨大な蜘蛛が這い出てきた。湯船の下に大きな穴が開いており、茶色い身体に黄色い頭をした蜘蛛は二本の腕で器用に湯船を天井近くまで持ち上げている。化け物はそのまま浴室の湯船と反対の床に全身を現すと、持ち上げていた浴槽を私ごとそのまま下に降ろした。首だけ突き出した私はその蜘蛛を睨みつけていた。この蜘蛛には以前会ったことがあったが、今、その正体がわかったのだ。

「お前は、戦ったばかりの……」

浴室の中で蜘蛛は変化し、人の形をとった。金髪で、身体に黄色いベルトを巻き付けた、膨らんだ焦げ茶のスカート姿。

「黒谷ヤマメよ。久しぶりね」

地底で会ったばかりの土蜘蛛の妖怪だった。

「久しぶりって、戦ったばかりじゃないか」

「ここで会うのは久しぶりってこと。友好的な来訪者じゃないし、地底に迷い込んだ獲物にしては強いと思ったけど、あんただったんだね。声を聞いてひょっとして、と思ったんだ。でもそっちが気付かないから違うのかとも思った。で、温泉の水脈を辿ってみたら」

「辿るな! あの時は人の形を取らなかったじゃないか」

「あの時も随分寒かったね。確か四月二十四日だった」

「良い湯で良い気分だったのに、お前のせいで台無しだ。昔のことをよく覚えている暇があったら今をどうにかしろよ」

「それは失礼。ついさっき地底と地上の協定が変更されて、地底の妖怪も地上に出て良いことになったんだ。だけど遊びに行く当てなんて以前訪れたここしかなかったもんだから。で、お酒飲んだら帰ろうかと思ったんだけどねえ。霧雨魔理沙って名前だってね。悩みを抱えているような酷い顔をしているじゃないか。美味しそうだねえ」

浴室から出ようとしてヤマメと向き合った裸の私を、ヤマメは下から上までなぞるように見た。ぞぞっと寒気がした。

「お前に湯船を揺さぶられて酷い目にあったからこんな顔をしているんだよ! 酒なんか出さないぞ。早く地底へ帰れ」

「そうかい? 悩みがあるように見えるよ。まあいいよ、酒の肴も持ってきたんだから」

私は聞く耳も持たず、浴室の扉をぴしゃりと閉めた。

「いいから黙ってそこにいろ」

「じゃあ、せっかくだから湯を借りるよ」

ヤマメの近くにいると病に冒される可能性が高い。疲れている今、非常に危険だ。私はミニ八卦炉をいつでも使える場所に置いて、ヤマメが私の残り湯を楽しんでいる間に急いで身体を拭くと部屋着に着替えた。

 

この土蜘蛛、黒谷ヤマメと我が霧雨邸で会うのは、これが二度目だ。初めて会ったのは指折って数えるともう五年近く昔になる。春雪異変の起きる直前、温泉脈を魔法で召喚することに成功し、床暖房代わりにするため管を床下に通し、さらに風呂場の浴槽へ配管工事をし終わってさあ温泉に入ろうと思った時のことだ。浴室の床をぶち破って、こいつが躍り出てきたのである。その時はびっくり仰天して、慌ててそのまま家の外まで逃げたが、よくよく考えて、どうして家に入ってきた虫ごときに住人が逃げなければならないのかと思い直した。そこで、ありったけの装備を持って挑もうと恐るおそる浴室へ近づいたところ、浴室の方から陽気な鼻歌が聞こえてきたのだった。蜘蛛は私の湯を奪ってしまったのだ。

私は怒りのあまり浴室の中に突入し、濃い瘴気の塊にぶつかって思わず口元を袖で塞いだ。森の瘴気とも魔界の瘴気とも違う、ミアズマと呼ばれるおぞましい気体だった。

「ごめんよ。いつも入っている地底の温泉の湯量がちょっと減っていてねえ。温泉の水脈がいつの間にか分岐して地上のどこかに突然向かっているようだと気付いて、辿ってみたんだよ。そうしたらここに出た。だから、この湯は私が入るはずだった湯なのさ」

「そんな理屈は通らないぜ。温泉はみんなのものだ」

「ん? 別に私は、あんたが私と一緒にこの湯に入ってくることを拒みゃしないよ。一緒に楽しもう」

「いい加減にしろよ。私は忙しいんだ。お前は何者だ?」

「土蜘蛛」

「土蜘蛛だと? そんな妖怪はここらにいないはずだが」

「私ら地上に出ちゃいけないことになってるからね。人間たちにも嫌われているし。なにしろ、私に近づいた人間は、原因不明の病に倒れてしまうからねえ」

「なんだと? 私はどうなるんだ?」

「このままだと寝込むことになって、この風呂も瘴気に汚染されて使えなくなるかもね」

「なんてこった。汚物は消毒するしかないな」

私は、ミニ八卦炉を構えた。

「待った待った。そんなことをしなくても、綺麗に消毒する方法があるよ。おまけに一儲け出来る」

「一儲けだと?」

「そう。私ら土蜘蛛を漬けたお酒は、『土蜘蛛酒』といって亡霊も思わず生き返ると言われるほど美味しいお酒になるのよ」

「つまりどうすればいいんだ?」

「つまりこの湯船に焼酎を満たせば良いのよ。そうすれば浴槽は消毒されて、残り湯は土蜘蛛酒になるよ」

「その話乗った!」

「でも、あんたは忙しいんだったな」

「あー? 見ての通り、忙しくない時なんて無いぜ。――ま、今夜だけなら空いているけどな」

こうして私は温めた焼酎をなみなみと湯船に満たした。蜘蛛は焼酎風呂に入って陽気に歌を歌って満足すると、床に開いた穴を通って地底に帰っていった。蜘蛛が居なくなって湯船を覗くと、焼酎の半分は飲まれてしまったようだが、残った湯は飛び上がるくらい微妙な味だった。しかも、浴室にはミアズマが残っている気がした。そのミアズマを箒で掃いて清めるために生み出した魔法が「ミアズマスウィープ」で、ついでに地底へつながる穴にも封をしたはずだったのだ。

私はその土蜘蛛酒を、春雪異変が終わった後に白玉楼で催された花見に持ち込み、夜通しの宴会で亡霊からおおいに好評を博した。さらにその後の連日繰り返された宴会にも持って行ったのだが、知らないうちに全部飲まれてしまっていた。それは鬼の伊吹萃香が起こした異変だったのだが、きっと土蜘蛛酒を飲み尽くしたのは萃香の仕業だったに違いない。今思えば土蜘蛛酒こそ萃香が地上で異変を始めるきっかけだったのかもしれない。

そんな酒の話の元になった蜘蛛だが、あの時はただただ巨大な化け物で、よもや地底で戦った少女の妖怪と同一人物だとは思いもしなかったのだ。

 

私は着替え終わると、妖怪少女が不当に占領した浴室のドアを乱暴に叩いた。

「ヤマメ、いま私の家にはその風呂に注ぐほど酒がない。代わりに香霖のところから消毒剤代わりの除草剤を借りてくるから待ってろ。ついでにお前も永遠に消毒してやる」

「お酒がない? それは残念。でも消毒剤は要らないよ。私の能力があれば、瘴気を残さず拭い去れるから」

よほど瘴気が充満しているのだろう。扉の向こうからくぐもった声が反響して聞こえて来る。

「ええ? 以前、土蜘蛛酒がどうたら言っていたのは」

「半分は焼酎風呂のための方便。ごちそうさまでした」

そう言って、突然扉が開き、逆さになった裸体の妖怪少女と目が合った。わっ、と驚いて飛び退いた私の目の前に、ヤマメはすとんと両腕で着地すると、四肢をしなやかに曲げ、ぽーんと空中に跳んで半回転し、洗面所に裸体で出てきた。そして、背後の浴室に充満していたミアズマがワンテンポ遅れて浴室からもやもやと噴出すると、ヤマメの肌に纏わりついて収束し、おなじみのふっくら膨らんだ姿になった。

「いい湯だった」

「お前、そんなだから人間に嫌われるんだよ。もう一度退治してやろうか。疲れていて、明日は雪降ろしもせにゃならんのに、面倒事を増やしてくれるなよ」

ヤマメは、そうだ忘れていた、と言って浴室にとって返すと、大きな風呂敷の包みを持って再び出てきた。

「鳥の肉を持ってきたよ。一杯どうだい?」

一切他人の話を聞かないのは妖怪の常だ。ヤマメが大風呂敷を広げると烏の肉がどっさり入っていた。

 

私は、しぶしぶ陽気な押し入り妖怪と厨房で料理を作ることにした。私の方は、干し椎茸で出汁を取った鍋に黍を入れて炊き、おろした大根を加えて簡単な粥に仕立てる。

ヤマメは烏の肉を叩いてペーストにし、烏田楽、つまり蝋燭焼きを作ろうとしている。まさか地獄鴉かと思うも、この辺りで捕えた烏だと言われて安心した。

ペーストになった烏の肉へ、微塵切りにした葱と大蒜、味噌を加えてさらに叩き、芥子の実や蜜柑の皮、山椒、菜種などを加えてある自家製の七味を振ってから竹串に肉を巻いて竹輪にすれば、あとは焼くだけだ。傍から見ていても実に美味そうだ。蝋燭焼きは暖炉を使うので、私は台所の炉を使って蕪の風呂吹きも拵えることにした。焼き鮎で出汁を取って面取りした蕪を煮て、茹でた蕪の葉と手製の味噌を載せて出来上がりだ。

ヤマメが蝋燭焼きを焼き始めると部屋が香ばしくなった。

こうなっては仕方ないと二人分の酒を出して宴が始まった。黍の粥も蕪の風呂吹きもあっさりとした味わいだが、こいしとの戦いで疲れ切った心身を癒すにはちょうど良かった。ヤマメが持ち込んだ烏肉で作った蝋燭焼きを食べてみた。すると、山鳥と変わらない肉汁が出てきて美味しいと思った。烏はこんなに美味しかったのか、今まで食べなかったのは勿体なかったな、と思いながらもぐもぐと噛んでいると、口内に異変が発生した。奇妙な臭いが鼻を襲撃したのだ。

「お、臭みがやってきたようだね。それが烏肉の持ち味さ」

とんでもない臭いだ。まるで線香の煙を固めたような強烈な臭いである。とても耐えられない。

「うう……ちょっと待て、ヤマメ、さては謀ったな!」

「謀ってない謀ってない。この辺りで採れた烏の肉だと、人間はやっぱり慣れないか」

「この辺りってお前……」

「そう。この辺りの地底にうじゃうじゃいる地獄鴉の肉だよ。決まっているだろう?」

私は最初の一口を酒とともに強引に飲み下すと、残りを全部ヤマメにやった。ヤマメはほくほく顔で綺麗に平らげた。

「どうりで仏に供える線香のような臭いがすると思った」

「それが良いんじゃないの。わからないのかねえ」

「お供えものの香りなら桃の香りじゃないとな」

「桃? あれは清浄な果物だから、妖怪はちょっと苦手な者が多いかもね。地上と地底を分ける黄泉比良坂に桃が生えているという話もある。桃は境界の代わりなんだ」

「そうなのか。地底に行った時は、桃なんて生えてなくて代わりに橋がかかっていて、嫉妬に狂った妖怪と会ったぞ」

「水橋パルスィでしょ。ほら、桃を西の言葉でなんていう?」

「ピーチだろ。まさかパルスィの本名はピーチ姫なのか?」

「あながち間違ってないね。ピーチは『ペルシャ』という意味だからね。あいつは、橋姫であるとともに桃の役なんだ」

「ふうん。ああそうそう、桃といえば近くに私が建てた神社があって、月から持ち帰った桃を供えたんだが、一向に誰も食べず、腐りも乾きもしないんだ。なんでなんだろうな」

「そりゃあ月の桃だもの、放っておくだけじゃ妖精も土着神も食べないよ。私が精霊を召喚して食べられるように腐らせてやろうか」

「腐らせて横取りするつもりだな」

「桃は好かないから食べないよ。火と湯と酒を貰ったお礼」

ヤマメは、私が月へ行った時の話を興味深く聞いた。

「月か。懐かしいなあ。昔、妖怪のみんなで月へ攻め込んでね。魔理沙は、土蜘蛛座って星座があるのは知ってるかい?」

「土蜘蛛座? うーん、どこかで見たような?」

「碇星ってあるじゃないか。あれに八雲紫がつけた名前さ」

「カシオペア座のことか。確かに蜘蛛のように見えなくもないな。思い出した。香霖とこに置いてあった、渾天儀とかいうスカスカの器具に書いてあったんだ」

「まだ残ってたんだ。あの時の仲間は今じゃ何をしているのかなあ」

ヤマメは、昔を懐かしがった。そして、酔ったのか、自分が妖怪になった経緯を話し始めた。

「私は、そもそもは野に住むただの蜘蛛だったんだ。私の一族はね、好いた相手と結ばれた後、相手を食べるんだ。私はそれが哀しくてね。夫は必死に抵抗したけど、私は食欲を抑えられずに食べてしまった。泣きながら、好きだった夫を食べたんだ。そして私は子を産んだ」

「夫を食うのか。それは、凄まじいな」

ヤマメの目が潤んでいる。私は、ヤマメの杯に酒を注いでやった。

「子供が生まれたら、今度は私が子供に食べられる番だった」

「なんだと? 我が子に?」

「蜘蛛の世界じゃ珍しくないよ。魔理沙は、樺黄小町蜘蛛(かばきこまちぐも)って知らないかい? 子蜘蛛が母蜘蛛に、こんな風にわらわらと集まって来てね、むしゃむしゃと食べるんだ」

ヤマメは樺黄小町蜘蛛の生態を模した弾幕を、テーブルの上に展開した。もぞもぞと子蜘蛛が集まる様は、気味が悪いとしかいいようがない。

「恐ろしい世界だな。待てよ? ならお前はどうして生きているんだ?」

「そうなんだ。私は、自分を食べに寄って来る子蜘蛛を見て、なぜか自分の命が惜しくなった。蜘蛛にあるまじき罪だよね。自分は夫を食べたくせに、産んだ子には自分を捧げないなんてさ。でも、私は逃げ出してしまったんだ。きっとあの子たちはみな飢えて死んでしまっただろうな。あの時、私は蜘蛛を辞めて妖怪になった。長生きするだとか、人間を食べるというのは、全て最初の、歯車の狂いから生じた結果だったんだ……」

「蜘蛛の世界は大変だったんだな……」

ヤマメがしんみりとして、ちょっと泣き始めたので、私も貰い泣きをしそうになった。そんな会話をしていると、私はだんだん、ぼーっとしてきた。いつもより酔いが早い気がする。ハッと額に手を当てると、熱っぽい。

「ヤマメ、お前……」

「おや? 熱を出したのかい。健康な人間なら冒されない程度に能力を抑えていたつもりだったんだが」

さきほどのしんみりとした泣き顔はどこへやら、ヤマメは元の陽気な妖怪に戻っていた。

「やっぱり退治しておくべきだった。くそう、ミニ八卦炉はどこいった?」

「熱燗の下。ちょっと待って、今飲み干すから」

  そう言って、ヤマメは徳利を逆さにして二人分の熱燗を飲んでしまうと、ミニ八卦炉を私に差し出した。私はそれをひったくると迷惑千万な客を玄関へ追い立てた。ヤマメは、浴室から帰りたいと言ったが、私はコールドインフェルノを使って追っ払った。黒谷ヤマメは笑顔で手を振ってから、森の繁みの夜闇に消えた。

その夜、私は高熱に倒れた。

 

夜の間、こいし戦のせいか、疲れのせいか、高熱のせいか、それとも精神的に参っていたせいなのか、今まで思い出すこともなかったような昔のことが次々と思い出された。そんな昔の記憶と熱で思考が歪み、私は何度も禁じ手のことを考え続けた。それは人間を辞めて悪魔になってしまうことだ。

思い出せば、私が悪魔化したことは、三度あった。

靈魔殿で靈夢と初めて戦った時、可能性空間移動船の中で有象無象や自分の師匠と戦った時、そして幻想郷に侵入してきた機械のメイドのVIVITと戦った時。今までまったく思い出すことが出来なかった記憶が次々と蘇ってきて、知らずのうちにぐっしょりと枕が濡れていた。

まず鮮明に思い出したのは、VIVIT戦の後、博麗神社で博麗靈夢改め博麗霊夢と名を変えたばかりのあいつから、思い出すのも怖いほど徹底的にやられたことだ。

霊夢に呼び出された私は、VIVITと戦った時と同様に悪魔化しなさい、と言われて素直に羽根を生やした。こうなることはわかっていた。霊夢は魔を身に宿した私に猛然と襲いかかり、私は叩きのめされた。霊夢はVIVITと戦った時よりも遥かに強かった。本当に死ぬかと思った。

魔の羽根はとうに掻き消え、私は無惨な姿で地に塗れた。

「いい、魔理沙。悪魔になんかなったら、毎日こうなるんだからね」

私は泣きながら、もう悪魔になろうなんてしないと霊夢に誓った。私は霊夢と一緒にいたかった。でも、天から生まれつきの才能を与えられた奴には、私の選択は理解できないんだろう、とも思った。

熱に魘されながら、私は数年前より以前の記憶を失っているのだと改めて思い知った。特に、自分に魔法を教えてくれた師のことだ。自分の名前に魔の字を与えてくれたのは、かろうじて思い出せた。ずっと後になって、「魔」の字が仏教のマーラの音訳であり、その意味を知ってちょっと凹んだこともあったが、当時はなんてかっこいい名前なんだろうと嬉しくて仕方がなく、今でもやっぱりかっこいい名前だと思っている。靈夢の靈の字を霊の字に変えたのも、おそらく師だ。

その頃私は、霊より靈の方が絶対良いと主張していた。靈の字は、雨に向かって巫女の「巫」の字が弾幕を撃っている形だからと。霊夢は、霧雨に向かって弾幕を撃つ字を私が持っていると、いつまでも私には勝てないわよ。などと馬鹿にしたことを言ったので、私はますます怒った。とうとう、霊夢は、ある魔法を解くために名前を変えるのは仕方のないことなのだ、と本当のことを言った。幻想郷に攻めてきたアリスにかけられた「究極の魔法」を解くのに名前を変えないといけないというのだ。霊夢は、その代わりに私の弾幕に名前をつけて欲しいといった。それが夢想天生だった。

 

熱が少し引いて目が覚めると、ミシミシと家の屋根が鳴っている。このまま雪が積もり続けたら、屋根が潰れて死ぬかもしれないと恐怖を感じたが、身体を動かすことはできないし、こんな夜更けに雪おろしも出来ない。そう思っていると、今度はざくざくと雪の上を何者かが歩き廻るような音まで聴こえてきた。高熱が引き起こした幻聴だろうかと思っているとドカドカと頭痛のような鈍い音も重なった。私は毛布を被って耳を塞いだ。そのまま私はまどろみ始めた。

 

次に思い出したのは、靈魔殿で戦った後、空を飛べない靈夢に私が無理やり修行をつけていた頃のことだ。その頃はまだ靈夢は私にとっていじめがいのある子でしかなく、私は靈夢を超高空に連れて行ったり、火責めや泥責めにしたりして、それは楽しく靈夢に修行をつけたのだった。そんなある日、私は靈夢から、私が師に会う前に靈夢の方が師に会っていた話を聞かされた。靈夢が魔界や地獄に妖怪退治へ出かけた際、私の師と会ったというのだ。ついで、その時靈夢は悪夢にうなされることがあったと言っていたのも思い出した。神社で落ち葉を掃除していると、持っていた陰陽玉が突然光り出し……巨大な半島が吹き飛んだり、地球が木端微塵になったりする恐ろしく物騒な夢をみたのだそうだ。それをいつの間にか横で聞いていた師がこんなことを言ったはずだ。

「それは、夢違えだな。誰かがどこかの半島や地球そのものを破壊しようとしたんだろう。それが、靈夢の夢にされたんじゃないか」

難しくてよくわらなかったが、とにかく靈夢は世界の危機を夢違えで救ったらしい。

ついでに、私は靈魔殿における靈夢との戦いについて、師から酷く叱られた。悪魔化して靈夢と戦ったからだ。

さらに後、別の世界から科学者たちがやって来た時に師と戦ったことも思い出した。遺跡のような怪しげな建物に人間と妖怪が集まり、弾幕を撃ちあったのだ。建物に入れる者は一名だったので、必然的に私は師と対峙することになった。私は、師と戦うなら仕方ないと、またも悪魔化してしまい、ぎゅうっと絞られた。「もっと修行しなさい、魔理沙」と言われたのはその時だった。でも、私はそれが嬉しかった。私のことを何一つ理解しなかった親父が住むあの家に比べれば、師匠の家はいつでも居心地が良かった。

 

また目が覚めた。さきほど聞こえたミシミシ言う音が聞こえず、部屋はただただ静かだ。もしかして既に屋根は落ちて、私は死体になって雪に埋もれているのかも、と熱で呆けた頭がそんな仮説を導きだしたが、指を動かせることがわかって雪が止んだのだろうか、と思い直した。そして、屋根の向こうの、満天の冬空の幻想を見た。確かあの方向には、に並んだカシオペア座、いや土蜘蛛座が輝いているはずだった。

 

この夜の最後に脳裏を巡ったのは、流星祈願祭の時に、星の弾幕が撃てるように、と願をかけたことだ。香霖のやつは、あの時以来星の弾幕を撃つようになったと思っているが、もちろんその遥か昔から星の弾幕を使っていた。師がまず手始めに教えてくれたオーレリーズ系からして星の世界の魔法だ。今思えば、流星祈願祭の願は、どこかで自分を見てくれているに違いない師へ向けて言った願だったのである。

ふらふらした頭を横にして、部屋の隅を見た。そこには、スレイブという私が作った器物がある。私は星の力を秘めた、「星の器」と呼ぶアイテムの元型を作るところまで辿り着いたのだ。スレイブを使って発動させる、魔開「オープンユニバース」や、閉符「ビッグクランチ」はまだ本物の宇宙をいじるには至らないが、これを師に見せたら何と言ってくれるだろうか、と思った。

私は、もう一度師に会いたかった。

 

朝になった。雨戸の隙間から日の光が零(こぼ)れているのを見ても私には現実感が湧かず、じっとしていた。何か色々なことの記憶が蘇っていた気がしたが、一晩中感じていたものは朝になると何一つ思い出せなかった。気になることがあった。屋根の雪がミシミシ音を立てていたのは覚えているが、それがまったく聞こえないのだ。私は起き上がってみた。熱は綺麗に引いていた。昨日の全ての出来事が幻のようだ。

衣服はしっかり乾いていた。タオルで寝汗を拭き、下着を替えて新しくペチコートを履き、ネイビーブルーのコートを羽織って靴を履き、外へ出た。

振り返ると、屋根に雪がない。綺麗に軒下へ落とされている。すっきりした屋根に上ってみると、地面に投げ降ろされた雪の上に大きな文字が彫られていた。

「ユキオロシヲヘリ(雪降ろし終へり) ヤマメ」

私の家の納屋からスコップを出して、ヤマメが勝手にやってくれたのだろう。私は気分がとても良くなって、深呼吸した。自然と足が、森の祠の方へ向いた。

霜柱を踏みながら朝の森を軽快に進んでいくと、すぐにお社が見えた。見えた途端、今までとは何かが違うことに気付いた。足がどんどん速くなり、ザクザクという霜柱を踏む音がどんどんリズミカルになった。

祠の中から、何かが覗いていた。私は、その前で、一つ大きく息を吐いた。白い息がふわりと漂った。

中を見ると、桃が無い。代わりに、大きな布のようなものが入っていた。引き出してみると、黄色いエプロンだった。広げると、大きくの字の刺繍が金糸で施されている。そして、座布団の下に敷いていた紙が零れ落ちて森の中を舞い、私はそれを抓み捉まえて読んだ。「へ」という私の字の下にこうあった。

「美味しかったよ。 より親愛なるへ」

手紙を見たその瞬間、師の文字だとわかった。思わずエプロンを身に沿わせると私の身体にぴったりだった。日の光に翳(かざ)して良く見ると、エプロンの裏に文字が縫い込まれているのがわかった。魔法の術式だ。

「これは……」

もう一度紙を手に取り裏返すと、文章が綴られていた。

「エプロンの裏に縫い付けた魔法は、古代ペルシャ王に仕えた『銀の鷹』という名の魔法使いが好んだという『ウェーブ』という魔法だ。実戦で使えそうなところまで開発したので良かったどうぞ。他にも『バースト』という魔法もあるらしく、目下研究中。でも、貴方には、あのN.E.P.……恋符『マスタースパーク』が一番性に合っていると思う。もう少し自分の魔法を信じても良いと思うよ。では健康に気をつけて」

私は何遍も手紙を読むと、もう一度エプロンを広げた。そこにしっかりとの字があって、私は魔法への想いを新たにして、空へ向かって言った。

「次の異変は、私がきっちり解決してやるぜ」 

 

 

第四章に戻る 月々抄の入り口に帰る 十三

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