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第四章

第二夜 ヨクトブレード 〜 Imperceptible Night.

♪二河白道の昇交点 〜 Xiphoid Xenotransplant at Dragon‘s Head

 

心は水の中の月に似たり、形は鏡の上の影の如し。

わが心を月にたとへ、心を神妙剣の座にうつすべし。心がうつれば、身が神妙剣の座へうつる也。心がゆけば、身がゆくなり。心に身はしたがふ物也。又、鏡をば神妙剣の座にたとへ、わが身をかげのごとくに神妙剣の座へうつせと云ふ心に、此句を用ゐる也。 

柳生宗矩『兵法家伝書』より

 

海水が、狂気の力により上下している。波だ。 

月の海の面に立つこの波こそが、地上の妖怪たちを照らす波動の源なのだ。無限に尽きることのない運動は、かつて月に攻め込んだ時となんら変わっていなかった。私、西行寺幽々子はしばらく感慨にふけっていた。そして、後ろに控えていた西行寺家の庭師、魂魄妖夢を振り返った。

妖夢は、月に来られたことの嬉しさ、結果的に月にたどり着くことが出来たことで湧き上がってきた私への感謝、そして想像よりも美しくない月への失望、この三つが入り混じった顔でこちらを見返した。ついで、ふと上空を見上げると、頓狂な声を出した。

「あ、幽々子様! あれをごらん下さい、あの巨大な青い珠はなんでしょうか?」

妖夢は、わからないことがあるとすぐ私に尋ねるのが癖になっていた。

「月に、蝙蝠はいないわね」

「へ? 今ごろ吸血鬼がどこかにいるはずですが……それより、あの青い珠のことなんですが」

「でも、鴉なら見つけられるかもしれないわ」

「鴉ですか? それは太陽では? 月に兎がいるとは聞いていましたが……あ、そうか、あれが地球なんですね」

妖夢は私の眼差しに気づいて自分の考えた答えを出した。私が溜息をつくと妖夢が怪訝な顔をした。

「地球ではないんですか?」

「妖夢は何にも理解していないのね。今宵は望月なのよ。だから、月から地球を見るとちょうど新月のように翳っていて見えないの。私たちが住んでいる地球はあのあたり」

私は天頂近くにあろうかという太陽を、手にしていた八雲紫の日傘、いやグニャグニャに曲がっていて日傘と呼べないしろもので差し示した。

「で、ではあの青い珠はなんでしょうか?」

「あれは、偽の地球よ。行きと同じように考えて水面に映った偽の地球へ飛び込んだら最後、二度と本物の地球には戻れないわ」

「ではどうやって帰るのでしょう?」

「行きに来た通路を帰れば良いのよ」

妖夢が慌てて足元を見ると、その通路はだんだんと閉じようとしていた。

「大変です幽々子様、通ってきた道が閉じようとしています。どうしましょう?」

妖夢が質問しかしないので、私は日傘を持って上空へ飛んだ。

「通い路は吹き閉じるものよ。妖夢、月の都への行き方が判らないと言っていたわね。この宝の地図に従って跳びなさい。そうすれば入り口にはたどり着けるでしょう」

紫が置いていった曲がった日傘を見て、私はさっさと飛び始めた。妖夢は慌てて追いかけてきた。

「ところで幽々子様、月の都に行って何をするおつもりでしょうか?」

月に来る前に、妖夢は私の目的を吸血鬼の館を家捜しするか、湖の主の家を家捜しするか、と推測していた。その推測は悪い線ではなかったのに、妖夢は自分で考えようとしないのでかえって答えを逃してしまう。

「チャンチャンバラバラは好きでしょう?」

「剣術とチャンバラは違いますよ。まあ好きですけど」

「何かあったら私も加わろうかしら、これで」

「ええ?」

「この傘も振り回せば、炎の剣ぐらいにはなるかもしれないわね。こんなに歪んでいるし」

私は傘の尖端の矢尻のような奇妙な飾りをさすった。八雲紫の日傘の先についているこの飾りは、近年幻想郷に越してきた悪魔姉妹の妹、フランドール・スカーレットの得物レーヴァテインを模したものなのだ。紫はフランドールの部屋で、レーヴァテインに斬られそうになった経験があり、その意匠を自分の傘に取り入れてみようと思ったらしい。

「傘は剣にはなりませんよ」

「相変わらず想像力が足りないわね。まあ、この飾りは紛い物だから、剣にはならないかもしれないわね」

そして、かなり上空まで翔け上った私は、ふと止まった。この高さなら跳ぶには十分だろう。妖夢が私を追い越し、とっさに振り向こうとすると、私は妖夢の背中に被さった。

「疲れちゃった。妖夢におんぶして連れて行ってもらうわ」

妖夢は困惑した。妖夢の顔は振り向かなかったが、半霊が何か問いかけるようにこちらを向いた。私が、傘の通りに進めばよい、と紫の傘を妖夢の前方へ差し向けると、妖夢はゆっくりと飛び始めた。

「こんなにゆっくり飛んでいたら地球が沈んでしまうわ。水平線の向こうまで、二百由旬(ゆじゅん)を一っ跳びよ」

妖夢の顔がぱっと明るくなった。ようやく私の言うことを理解してくれたようだ。

妖夢は白楼剣と楼観剣の二振りをスラリと抜くと、魂魄家に伝わる剣技、獄界剣「二百由旬の一閃」を繰り出して跳んだ。妖夢の肩の筋肉が躍動し、その振動が私の体に伝わった。遠く彼方の水平線が見る見るうちに近づき、妖夢は水切り遊びのように海面を足で蹴り、空中で止まった。

「ねえ妖夢、今のどこが『二百由旬の一閃』なのかしら? 一由旬も達していないじゃない」

「本当に二百由旬も跳ぶのは無理ですよ。今この場所が、さっきの場所から見えた水平線です」

「もう一度やりなさい」

妖夢は再び獄界剣「二百由旬の一閃」を繰り出したが、今度は跳んだと同時に妖夢の足が海面にぶつかった。

「なんか変です。思うように跳べません」

妖夢の様子を見て私は失望した。こんな体たらくでは今夜中に目的地へ着くことは出来ない。やはりまだ早かったのではないか。

妖夢は私の失望した様子を察して狼狽し、二刀を構えなおして技を繰り出した。

 

地球と月の距離は考え方によっていかようにも伸び縮みするが、月に着いてしまえば月そのものは基本的に裏の月も表の月も物理的な大きさが変わるわけではない。だから神酒の海から決められたルートを通って月の裏側にある月の都の位置まで行くには、大雑把に見積もっても五千キロメートル、つまり七百由旬近くを移動しなければならないのだ。そして私も妖夢も、隙間から隙間へと高速移動しながら飛行する紫のような技が使えるわけではなかった。また紫の式、鴉の前鬼と後鬼のような高速移動もできない。

紫の式が月面を高速移動できたのは、紫のスキマの使い方にある。普段生活していると地球の表面は静止しているように感じるが、日本の位置は地球の中心に対して自転によって高速回転している。一方月の自転周期と公転周期は一致しているため自転速度は極めて遅い。そこで日本と月の表面を通路で繋いでやるとき、慣性エネルギーを保存する計算式を通路に組み込んでうまく方向を定めれば、地球の自転の慣性エネルギーを持ち込むことにより、月の表面へ出た瞬間に高速移動することが出来るのだ。紫の式が一晩で月を一周できたのはこんな理由があった。

しかし、慣性エネルギーによる飛行は急停止や軌道変更が難しい。もちろん、月の海に浮かんだ傘を拾うだろうから、私と妖夢が潜ったスキマでは慣性エネルギーが殺されていた。であれば、一晩で月の裏にある月の都まで行くために、別の手段がなくてはならない。

そして、その手段が獄界剣「二百由旬の一閃」だった。二百由旬の一閃は本来正しく「一足で二百由旬(約千五百キロメートル)移動する技」なのだ。この技は元々地獄の猛者たちを足で攪乱するために生み出された技だが、魂魄家の者が私をおぶって地上の各地へ運ぶための手段としても使われた。大日本帝国末期において、先代の庭師妖忌の足を借りアリューシャン列島からガダルカナル島、ミッドウェー諸島から満州まで、死者の魂に関する様々な「外交」のために移動したことを私は思い出していた。アメリカ合衆国の聖人達との取引、靖国神社との駆け引き、パプアニューギニアの膨大な数の神々との交渉、今の妖夢の力では何一つ為しえないだろう。

 

妖夢は何度も技を繰り返し、そのたびに海面に足を捕られたり弾かれたりして、泣きべそをかかんばかりの顔になっていた。妖夢の剣技や脚力が足りないというのではない。むしろ有り余るほどなのだ。戦闘のために生まれた魂魄妖夢は、純粋な挌闘戦では誰も勝てないであろう実力を持っている。妖夢が本気を出せば、幻想郷に住む連中など刀を振るまでもなく肘打ちで全てのしてしまうだろう。だから例えば、獄神剣「業風神閃斬」はスペルカードルールの反則ギリギリだと人間から酷評されたり、永夜異変において、永琳や輝夜から永遠亭に侵入してきた者で一番強い、むしろ主は邪魔なんじゃないか、と私が戦力外扱いされたりするほどだった。それほど強靭な挌闘能力を持つ妖夢に足りないものはなにか。

月の表面は丸い。その表面を直線で動いても水平線から水平線へごく微かな移動しか出来ず、水平線を越えれば今度は上空へ飛び出してしまう。二百由旬移動するためには、月の表面をなぞるように弧を描いて飛ばなくてはならず、そのためには水平線のずっと向こう側まで想像力を働かせなければならないのだ。妖夢はこの想像力の点でまだまだ未熟だという懸念があった。妖夢をこの戦争に連れて行くのはまだ早い、とは事が動き出す遥か前から、紫に何度も伝えていたことだ。そして懸念は現実になろうとしていた。一足で二百由旬も跳べないようでは、この戦争に向けて密かに習熟させた他の技も使い物にならないだろう。いや、そもそも使う機会さえ与えられないだろう。

私は、帰る決断を下すことも考えた。今なら先ほど通ってきた路も閉じ切ってはいないだろう。妖夢を帰してから吸血鬼たちと月の姫が戦う場に向かうのは、次善策として止むを得ない措置だと思えた。なんとしてでも月の都に入り、月の使者の住む家から私の望む物を盗み出さなければならない。最悪でも捕虜として都に連行されて機会を窺うという手もある。

そう思案していた時、妖夢が立ち止まったままおし黙った。もう無理だと妖夢自身が悟ったのだろうか。私は妖夢の半霊に手をかけ、背中越しに声をかけようとした。その時、眼下の海面全体が、水平線上の一点を中心に吸い込まれるかのような線を描いた。

瞬間的に、懐かしい感覚が全身の肌を撫でていった。妖夢が五十由旬ほど跳んだのだ。

先ほどまでいた「神酒の海」とはうって変わり、静寂が二人を包んだ。「静かの海」だ。

「こつがわかり始めてきました」

私が妖夢の肩の上にのしかかり、その眼を除きこむと妖夢の眼に朱が差し始めていた。ついに始まったかと思った。こつというより波長が合ってきたのよ、と言おうとして、止めた。なぜか、少し寂しさを感じていた。

「まだまだ全然足りないわよ」

「そうですね。ところで次の方向はどちらですか?」

私が、紫の性格を体現したかのような捻じ曲がった傘の節を指さすと、妖夢はさきほどとうって変わった自信に満ちた表情を見せ、剣を振るった。

今度は百由旬ほどだろうか。「晴れの海」を一瞬で横断し、月のコーカサス山脈とアペニン山脈の間まで来て止まった。二つの山脈に挟まれた海峡に巨大なスコールの壁と雨雲の列が見える。「雨の海」だ。

「あの雨雲が『雨の海』、その向こうが『嵐の大洋』ね。今のような半端な跳躍ではずぶ濡れになってしまうわ……」

私が言いかけた瞬間、妖夢の楼観剣が煌き、遠く水平線上に見えたスコールの壁が瞬時に目の前を覆い尽くすと、その音があっという間に背後に消えていった。風景が目まぐるしくかわった。ザー、ザザーという雨音が須臾の時間に耳を掠めた気がしたが、気づけば眼下の海が陸に変わっており、そして地平線の向こうに現れた境界、月の昼と夜を分かつ線が見る見る近づいたかと思うと、流れていた風景がピタリと止まった。表の月でいえばローレンツクレーターのあたりだろうか。思わず振り返ると太陽が没しようとしていた。ここから先は地球からは直接見ることができない裏側の領域だ。

 妖夢は私の言葉を待っていた。ついに二百由旬ぴったり跳んだのだ。私は、額を妖夢の首筋に押し付けたまま肩を震わせていた。自分も予想していなかった嬉しさと寂しさがない交ぜになっていた。

「幽々子様?」

私は一呼吸おくと、憤慨した風を装った。

「雨に嵐と立て続けに浴びて風邪を引いちゃうじゃない」

「花に嵐の例えもありますよ」

「こらこら妖夢、私みたいにわけのわからないことを言わないの」

「申し訳ありません、雨は全て私が受けるつもりでしたのに」

妖夢が私の顔を見ようとしたので、私は紫の傘で妖夢の二の腕を叩いた。

「傘を持っているのに濡れるなんて、淑女には紳士的すぎたわ。それより前を見なさい。ここからは今までとは違う世界なのよ」

月の夜、暗い大地に森が続いていた。その時、妖夢がふと視線を上げた。夜の奥の方、地平線の際にチカチカと何か光った。何者かが戦闘を行なっているのだ。私は妖夢に高度を下げるよう伝えた。

「あれは霊夢たちでしょうか? それとも紫様でしょうか?」

「どちらでもないわ」

「では私たち以外に月に攻め込んでいる者がいるのでしょうか?」

「その質問は正しくないわね。正しくは、月で戦っている者よ。もう何十年もね」

「まさか、大昔に幻想郷の妖怪が攻め込んだように、どこかの国の妖怪や土着神が月に入っているということですか?」

「確かに、世界中の土着神は定期的に月や太陽に攻め込んでいるわね。例えば、我が国では素戔嗚(すさのお)を筆頭にした月の都に反逆する神々が。その侵入が、『蝕』と呼ばれる現象なのよ。いまやお祭りのようなものだけどね。でも、あれは違う。あれは、『裏側の表の月』を進撃している地上の軍隊を守護するための、一神教の天使と聖人よ」

妖夢の背中に緊張が走った。

 

実は、アポロ計画によるアメリカ合衆国の「月の都侵略計画」が失敗に終わった後も、人間は大量の軍隊を月へ送り込み、戦争をしていたのだ。しかし戦う相手は月の都ではない。月の都に到底敵わないと判断した国家の首脳達は、月の裏側の有効な利用方法を思いついたのだった。

それは、地上の国家間の戦争を月の裏側で行なうことだった。冷戦の最中地球で全面戦争を行なえば、核の冬で人類は滅びてしまう可能性があった。思うように戦争を遂行する場がもう地球には残されていなかったのだ。そこで、地球上からは決して見えず、何万人が殺し合いをしようと地上の一般市民にばれることのない月の裏側が戦場として開発されることになった。そして、人間同士の殺戮の場として、月の都は喜んで月の裏側の「表の月」を人間たちに提供した。ただし、人間自身の基地を月面に作ることは禁止したのである。その上で裏側の北部に区画を作り、人間同士を争わせたのだった。人間を争いによって発展させるのは、月の民の責務だと自負する月の都は、大昔から地上で日々行なわれる凄惨な殺戮を「裏の月」から眺めて楽しんでいた。もともと、「平和を好み、穢れを嫌う」と嘯く月人は、都において月の民同士や神々同士の戦闘を厳禁としていた。その代わり神々を信仰する人間同士を争わせることを最高の知的な遊びとして楽しんでいたのだ。戦争に負けた人間は穢れを押し付けられて月の魔術により、悪魔や怪物になってしまう。一方勝った方は信仰する神々に勝利を捧げるので、その信仰が月の都に住む神へと流れ込む。こうして地上で起こる戦争は、月に住む神々の信仰をおおいに強化していったのである。それが二十世紀に入って、人間が地球から見えない月の裏側という領域を手に入れたことにより、ますます軍事行動はエスカレートしていったのであった。

 例えば、ソビエト連邦とアメリカ合衆国は地球上では一度も正面衝突したことはないが、裏側の月では毎年のように大規模な軍事衝突を起こしていたのである。そして冷戦が終わると、今度はキリスト教徒とムスリムが月面で極限的な闘争を繰り広げた。非公式の戦争であるため各国ともありとあらゆる兵器を投入し、裏側の月には死屍累々の山が築かれた。

 最近地上では、「イラク戦争」や「アフガニスタン戦争」における米軍の死者数が問題になっているが、人間がもてる最新の科学技術で武装したアメリカ合衆国軍がイラクやアフガニスタンの農民あがりのテロリストに苦戦するはずがない。全ては、熾烈を極める月面戦争の死者を、地上の小規模な紛争に無理やり転嫁した結果の数字だったのだ。数年前に幻想郷で起こった「六十年周期の大結界異変」において、緩んだ結界から幻想郷へと流入した莫大な数の死者の霊は、ほぼ全てが月面戦争の戦死者だったことは言うまでもない。

 だが、裏側の月での戦争は、各国の軍隊を支援する月の都の幹部たちの思想闘争が人間側へ投影されたことと同義だ。世界中の神々が住まう月の都は常に分裂の危機をはらんでいた。月人の中でも特に強硬的な派閥が「一神教派」なのだが、この派は数千年前から修復不可能な内部闘争を続けており、冷戦終結を好機到来とばかりに、ユダヤ教派、キリスト教派、イスラーム派の三派の月人がそれぞれ守護天使や守護聖人を大量に召喚し、「表の月」で人間の力を超えた紛争を引き起こしたのだった。直接、神霊同士が戦うことは厳禁であり、また月の民自身が「表の月」をいじることも「月の使者」以外は禁止されていたが、天使や聖人が間接的に人間に与える奇跡だけでも人間世界の理屈を超えた惨劇を生むには十分だった。そのピークが「六十年周期の大結界異変」の年だったのである。各国政府はあまりに行き過ぎた軍事衝突を反省し始め、一部の国家は裏側の月に探査衛星を送り込むという名目で、裏側の月という戦場を一端凍結させる方向に動き出した。その一つが、日本が月に打ち上げた探査衛星「かぐや」である。

 今まで野放図に戦争を行なえたのは月の裏側が地上から見えなかったからであり、それまで打ち上げられた月探査衛星は実は全て軍事衛星だった。しかしハイビジョンカメラでリアルタイムに監視を始めた「かぐや」の登場によって、大規模な戦争は急減した。だが、収まらないのは決着をつけられなかったキリスト教国家とイスラーム国家であり、双方の背後についている月の都の幹部達である。また、「かぐや」を打ち上げた日本政府の意図には、戦場の監視という名目で一神教徒の後退を狙い、さらに月への権益を拡大させる目的もあった。同様に中国が「嫦娥計画」、インドが「チャンドラヤーン計画」を展開したことにより、日本の「かぐや」を含む一連の探査計画は、多神教徒による一神教徒への間接攻撃なのではないか、という論が月の都の上層部の間で噴出した。元来、地上の人間同士の闘争を煽ることが人間自身のためになると考える月の民にとって、戦争の起こらない世界というのは忌むべき世界でしかなく、衛星「かぐや」が批判にさらされるのは当然の展開だった。さらに「嫦娥」と「かぐや」という一級罪人の名が衛星に冠された事実によって、本当は人類と結託する何者かによる月の都への侵入計画なのではないか、との憶測まで出始めたのだった。ここまでが、紫によって今回の「第二次月面戦争」が開始される直前の状況だった。 そして、「嫦娥」と「かぐや」への疑いの目が、幻想郷の竹林に隠れ住む八意永琳と結びつくまでに大した時間は要しなかったのである。

 

「天使と聖人ですか? まさか、一神教の信仰に組みしない私たちを迎撃するために出てきたのでしょうか?」

「違うわ、私たちなんてまるで相手にされていないもの。あいつらが落とそうとしているのは、空を飛ぶ箱よ」

監視衛星の目を盗んで衝突をしていた軍隊だが、もちろん監視衛星が無いに越したことはない。そこで、一神教各派の月の民は天使や聖人を密かに召喚し、「かぐや」や「嫦娥」、「チャンドラヤーン」が上空を通ったら撃墜しようとしていたのだ。ちょうどアポロ十三号が原因不明の事故を引き起こしたように。

「まさか、月の民同士の……?」

「あら、少しはわかって来たようね。そう、月の民同士の『穢れなき』争い、月面戦争が……」

「これから始まるのですか?」

「始まらないわ」

「えっ」

「だって、あそこで待っているあの天使たちの待ち人は来ないのだもの。待ち人は、約束をすっぽかして、今頃竹林でお餅だかお団子だかを食べているでしょう。羨ましいわ。私もすっぽかせば良かったかしら」

 

私は、気をつけて慎重にすり抜ければ大丈夫だ、と妖夢を諭し、次の目的地「賢者の海」までの方向と距離を伝えた。すると妖夢は、はい、とだけ答えて賢者の海の方を向いた。そしてしばらく目を閉じた後、身構えた。無茶はやめなさい、と言おうかと思ったがやめた。ここまで来たら妖夢に任せるしかないのだ。妖夢が裂帛の気合を込めて月面の彼方まで空間を切り裂いた。

上方三百六十度を満たす星座の群れがぐるりと回転した。細い線のように見えていた何かが近づいて来て足元に広がる海になった。「賢者の海」だろう。表側の月と違い月の裏側は海が極端に少ない。「賢者の海」「東の海」「モスクワの海」くらいだ。そして海面を埋め尽くす沸き立つ泡は一瞥しただけで「賢者の海」だと知れた。妖夢は、五百由旬ほども跳んだのだ。

「過ぎたるは及ばざるが如し。月の都の入り口を跳び越してしまったんじゃないかしら?」

「あ! すみません」

ばつが悪そうに振り返った妖夢の眼が闇夜に赤く浮かんだ。半霊もいつのまにか赤く染まり始めている。とうとう、魂に火が点いてしまったか。こうなることを期待して始めた作戦なのに、悔いる気持ちがだんだん胸に広がっていることを感じていた。

その時だった。目の前を一羽の鴉が飛んできた。とっさに構えた妖夢を制すると、鴉は私の頭上にやってきて紫の手袋に変わった。先を見ると空間に亀裂が走っており、紫のもう片方の手袋がかかっていた。

「ぴったりついたわね」

「本当ですか。良かったです。あとは紫様の示した通りに進めば良いのですね」

妖夢の肩から力が抜け、海に墜落せんばかりに脱力した。「神酒の海」から「賢者の海」への移動という大任を果たして安堵したのだろう。

「いやいや妖夢、ここからが大問題なのよ」

可哀想に思ったが私は妖夢の淡い期待を粉々に打ち砕いた。それでも、妖夢は妖忌ですら不可能だった五百由旬を跳んだのだ。既に私の方が妖夢に強い期待をかけていることは、内心認めざるをえなかった。

 

冥界をつかさどる西行寺家の庭師、魂魄の家はどのような敵の襲撃にあっても対抗できる剣術を身に着けている。大きく六つに分類することも出来る転生先の世界、人間、天上、畜生、地獄、修羅、餓鬼のどの世界にも通じている冥界は、逆に六つの世界からの襲撃を受ける可能性もあったからだ。妖夢も六つの世界の住人を倒す六種類の剣技を持っていたのである。しかし、月の民は六つのどの世界の住人とも違う者たちである。だからこそ、月へ行くために妖夢は新しく二つの剣技、それも秘技中の秘技を習得せねばならなかったのである。

一つは、月の民を斬るための人智剣「天女返し」である。天女返しは「つばめがえし」という広く知られた剣技でもあるが、「天女」とは月の民の形容であり、元々対月人用の技なのだ。この技は月の民の特殊な身体を真っ二つに斬ることができるという。そしてもう一つの技、これがもっとも重要な技であり、今回の事の成否を占う技であった。

 

私と妖夢は紫が用意した裂け目を潜った。中は真っ暗だ。

「紫はちゃんと、念には念を入れて裂け目を作ったようね」

月の都を侵入者から守る月の使者のリーダー、その一人の綿月豊姫(わたつきのとよひめ)は、海と山を同一視できる能力、つまり相反するものを含めあらゆる空間同士を強制的に接続する能力がある。紫の能力を持ってしても、月の都へ通じる路を開けたつもりが、全く別の場所へと付け替えられてしまう可能性があった。そこで紫は、内部を覗くための裂け目、自らが囮となって入るための裂け目、そして私たちのために残した第三の裂け目を次々とすばやく展開したに相違ない。

しばらく進むと暗闇を圧迫する気配が感じられた。

「いつまで続くのでしょう。それになんだか、先に進んでいるのに全然進んでいないおかしな感覚です」

「もうすぐ終わるわ。そして月の都へ入りましょう。ただし、貴方のその剣によってね」

「また私が何かするんですか。紫様が開けた裂け目を通っていくだけじゃ辿り着けないのでしょうか」

「また、じゃないわ。常に、よ。さあいよいよ顕れるわ、妖夢」

「え、誰か来るのですか?」

「人じゃないわ。物……とも呼べるかどうか怪しい代物ね。ほら、あれよ」

私がもはや用済みになった日傘を向けると、妖夢が、あっ、と声を上げた。巨大な壁のようなものが見えてきた。壁と思った「何か」は、近寄ってみると、想像できないほど超巨大な注連縄であった。

「妖夢、これが月の都を守る注連縄。最近では『フェムトファイバー』というらしいわ」

「注連縄? これが、ですか?」

月の都は、太陽系の全天体の中でも二番目ぐらいに大きいクレーター、月の南極エイトケン盆地の「裏」に確率的に存在していた。特に賢者の海には「月の使者」関連施設の確率分布が集中しており、シュレーディンガークレーターには月の都に住む神々の聖域が存在する確率が高いらしいが、詳しいことは何もわかっていない。確かなのは、全ては確率であり必ずたどり着けるとは限らないということだけだ。その月の都の周囲を注連縄が――一本の直径が優に一キロメートルはある注連縄だが――密に束ねられてぐるりと囲んでおり、遙か下の方から上方まで積み重なっている。それも一重ではない。九重に囲んでいるのだ。

呆気にとられている妖夢に向かって、私は命令した。

「妖夢、今度こそ最後の命令よ。目の前の須臾を斬りなさい」

妖夢は身構えた。

「天星剣『涅槃寂静の如し』」

時間が遅くなり、音が、そして色が消えた。

 

 

一刻が経った。

「そろそろ、中に入れるかしら?」

「もうしばらくかかりそうです」

「そう」

聳え立つ注連縄の壁には傷一つ付いていないように見えた。

「幽々子様、そろそろこの注連縄について、何か教えて欲しいのですが」

「何かって、何かしらね? その注連縄ぐらい太い金太郎飴があったら何年楽しめるか、とか」

「飴で作られているなら斬るのもたやすいのですが、この縄は素材がよくわかりません。まったく手応えがないのです。それに……」

「それに?」

「私が精神を集中しようとすると、ふと胸騒ぎがもやもやと起こって手の内すら冴えないのです」

「ええ、知っているわ。だから私はもやもやしないように離れているの」

「知っていたんですかー!」

妖夢はこちらを振り向いた。もう目がずっと赤い。

この注連縄に近づくだけで、人間も妖怪も狂気によって精神を病み、また攻撃を加えると物理的な反動を受けて消し飛んでしまうという。しかし、目を赤くさせながら妖夢は健気に技を繰り返していた。もう、とうに百回は技を放っている。こんなことが出来る者は地上にも数人しかいないはずだ。

「そろそろ体が温まって来たようだから、私が知っていることを話しておくわ」

月は地上の六分の一の重力しかないからか、妖夢は息も上がっていない。その妖夢が食い入るように私を見た。この数ヶ月、私の方から妖夢に積極的に情報を提供することなど一度もなかったからだろうか。ただし、それは相応の理由があったのだが……。

「体が疎かになっているわよ」

言われて妖夢は構えを取り、斬りに入った。

「この注連縄は絶対的な防壁として長い間、人も神も全て撃退してきたらしいわ。前回私が紫と攻め込んだ時も、この注連縄を破ることは出来なかった。ただ、紫はこの防壁の構造と破り方は見つけたの。この注連縄は、ただの物理的な繊維ではない。より世界の根源に基づいた設計がされている。そう、世界を構成する三つの層、物理の層、心理の層、記憶の層への対応から成っているの」

「これ自体が三重構造になっているというのですか?」

「その通りよ。月の都を守る注連縄、つまりフェムトファイバーの巨大な束は、世界の構造に対応して『物理的防壁』『心理的防壁』『論理的防壁』の三元が重なって存在しているの」

限り無く微小な「ひも」を集めて織った物理的防壁の層、これはあらゆる物質やエネルギー、そして情報の侵入を拒む。

限り無く微小な心的事象を集めた心理的防壁の層、これは霊的な存在を含めあらゆる精神や思想の侵入を拒む。

限り無く微小な論理式を集めた論理的防壁の層、これは無限の種類の記号から成り立っており、「侵入」に関わるあらゆる論理否定を引き起こして¬侵入という論理的結果を侵入者に返す。

こうして、物理、心理、論理の三元的な防壁である巨大なフェムトファイバーは、誕生してから一度も侵入者に破られていない究極の防壁として今に至る。

「だけどね、論理的防壁はすでに紫が破っているの。先ほど潜ってきた裂け目がそうなのよ。そもそも論理的防壁を破らなければ、私たちはこの注連縄を見ることすら叶わないの。地上の人間たちもこの論理的防壁を破れず、月の都の前に惨敗したそうよ」

紫の話によれば、論理的防壁は最近では外の世界でも実用化されている「ファイバー」という式の連なりを高度に複雑化させ無限の種類の記号を、無限の次元に展開したものだという。いや、外の世界でも実用化された、というのは正しくない。おそらく月の民が「ファイバー」の技術を人間にもたらしたのだろう。無限の記号を無限の次元へと無限個並べれば、この世界の全ての事象を表わすだろう。だから侵入を試みる者に対し、論理的防壁は無限の記号の組み合わせから 「侵入できない」という結果を見つけ出して侵入者に返すことが出来る。どのような試みも論理的に否定されてしまうのだから、なす術がないのだ。

「では、紫様はどうやって破ったのでしょうか?」

「あいつは、『カントールの対角線論法』という式によって、破ったらしいわよ。詳しい原理はよくわからないんだけどね」

カントールの対角線論法とは、複数の次元へ無限に並んだ記号の列に対し対角線上に異なる記号を与えていく式をぶつけて、「無限にならんだ記号の列」に含まれない、新しい列を作り出すことができる、という論法だそうだ。例えば、記号が全ての組み合わせで無限にならんでいる表を作っても、対角線論法でその表に含まれない新しい列をいくらでも作り出すことができるのだ。これは「全ての組み合わせ」という表の前提と矛盾を引き起こす。

「紫が論理的防壁に作った裂け目は『論理的防壁に侵入できるかできないかは、この論理的防壁自身は証明できない』という数学的内容が具象化された現象らしいわ」

当然、月の都も地上の人間が「カントールの対角線論法」を発見したことを警戒しており、いつ月側が論理的防壁のシステムを更新するかわからない状況という。紫曰く、これは賭けだったそうだ。だが本当に紫は賭けに勝ったのだろうか。狡猾な月の民の前では全てを罠だと思う慎重さが必要だ。

 

例えば、こんな噂話もある。

実は、いま月の民が一番恐れている事は、地上の人間が月に来る事なのだ、という噂だ。様々な異界の住人の間で飛び交う噂によれば、数十年前からミクロの世界は可能性で出来ている事に地上の人間は気付いており、その事実は月の都を治める月夜見を驚愕させたのだという。

おそらく、その噂自体は間違いではあるまい。

しかし、その噂の真実は、おそらく噂しあう者たちの考えとはまったく正反対なのだ。なぜなら、表の月の裏側には数十年前から地上の巨大国家の軍隊が原始的なロケットでやってきて、壮絶な殺し合いを繰り返しているのだから。要するに月の民は、自分たちがコントロールしている地上の軍隊ではなく、ただの一般人が――その昔、偶然裏の月に迷いこんだと思しき水江浦嶋子のように――裏の月に容易に迷い込めてしまうことを恐れているのだ。もし一般人が幾度も裏の月に迷い込み、表の月での暴力的闘争を目にしたら、いくら地上の国家の情報統制が綿密でも、無視できない噂話が広まるだろう。そしていずれは、せっかく月の民が地上の人間に与えた、表の月の裏側という恰好(かっこう)の戦場を放棄しなければならなくなるかもしれない。こうなると地上の人間同士を争わせて楽しんでいる月の民は、新しい戦場を人間のために見繕ってやらねばならなくなる。だが、火星や金星は、まだ人類には早すぎる戦場だった。このような事態が起こる可能性に気付き、月夜見は驚愕し、月の民は恐れたのであろう。

しかし、ミクロの世界が可能性である、という考えは人間が生み出した考えなのだろうか? 断じて否、である。もちろん、その考えを人間に与えたのは、月の民に相違ない。つまり、反月夜見派の策動と考えるべきなのだ。

だから、一連の噂話は、またそれを利用しようとする者が意図的に流している可能性がある。月の都を我が者にしようとする、月の民同士の月面戦争の、その先触れとして。

 

「申し訳ありませんが、幽々子様の説明がさっぱりわかりません」

「歌にあるでしょう?

 

いかなれば空なるかげはひとつにて、よろづの水に月宿るらむ。

 

世界の理解の仕方はいくつもあるのよ。三つの層という図(スキーマ)で理解できたと思っても、それは一つの水溜りに映った月と同じ。それに囚われるなら、わからない方がずっとマシなの。これはスキーマの妖怪である紫の弱点でもあるんだけどね。それに、あいつが破ったのは論理的防壁だけ。まだ心理的防壁と物理的防壁が残っているわ」

フェムトファイバーの物理的防壁を構成している「ひも」、これは地上では「超弦」とも呼ばれるもので、これを縒り合わせて作られた注連縄は、物理的に究極の強度を持つという。それだけでなく、この注連縄に触れた物理的存在に対し、あらゆる物理法則や物理定数を自在に変更して干渉することが出来るという。本来なら、微小な物理的存在を密集させればブラックホールになってしまうが、物理定数を自動的に変える性質により、常に安定して存在できるのだ。さっきから妖夢が何度斬りつけても傷がつかないのはこのためだった。

「この物理的な法則や定数を自由に変える性質、これも最近、地上の人間で研究を始めた者がいるそうね。『M理論』と言ったかしら? 研究しているのは『車椅子の男』の一派だというけれど……」

「その人、人間なのですか?」

そう言うと、妖夢が恐るべき速度で斬り込んだ。複数の斬撃が同時に注連縄の一点に当たる。

「そうよ」

しかし事実上、この注連縄を破ることが出来るのは、月の民だけなのかもしれない。もし地上の人間が月の都に侵入できたとすれば、月の民の手引きがあったと思うべきだろう。妖夢の技は、またしても失敗に終わった。一刻前とは見違えるほどの鋭さだが、フェムトファイバーを破るには何もかも足りない。それでも、先ほどの「二百由旬の一閃」の事もあるし、なによりここなら自由に妖夢と話すことが出来る。

「常識で考えれば、この究極の物理の層、フェムトファイバーを破る方法は存在しません。これが私と紫の間で一致した見解です」

「非常識な技なら、破れるというわけですね。天星剣『涅槃寂静の如し』が非常識な技なのでしょうか」

妖夢は幼い頃に妖忌からこの技を伝授されたが、使う機会がないままだった。それがこの度の作戦における最重要の技として浮上し、妖夢は再習得するため熱心に稽古していたのである。しかし、その技を開発したのが誰であったのか、妖夢は知らない。

「非常識だと思えないのなら、それは妖夢の修行が足りないのです」

「すみません」

「この注連縄を月の民はフェムトファイバーと名づけました。フェムト、つまり須臾とは一千兆分の一。しかし涅槃寂静、つまりヨクトは一秭分の一。涅槃寂静の刃なら須臾で作られた縄を断つことができるのよ」

私は、先代の庭師の妖忌が、地獄に住んでいた矜羯羅(コンガラ)童子から「涅槃寂静の如し」を伝授された時のことを思い出していた。

 

その昔、地獄を移転させる計画が持ち上がり、関係者に計画書が回ってきたことがあった。冥界拡張の計画を密かに練っていた私は、地獄移転計画に便乗して自分の計画の根回しをしようと地獄の者を訪ねたのである。矜羯羅童子と般若湯を飲み交わした席で、月の都のことが話題に出ると、矜羯羅童子は月の民の注連縄を斬る剣技があると言った。向こうも私が数百年前に月面で負けていることを知っており、同じ仏門同士、交流を持ちかけてきたのである。そこで妖忌を矜羯羅童子の元に派遣して剣技を伝授させたのであった。

仏教の天部は布教のため、神社の結界である注連縄から、ギリシャ神話でプロメテウスを捕らえている鎖まで、世界中の結界を破る術を開発していた。矜羯羅童子は、月の都を守る注連縄だけはあらゆる神々の侵入を防ぐための特別なものなので保証はないと正直に話したが、打つ手を持っていなかった冥界の住人としては得がたい技であった。

だが、いざ口伝を受ける段で妖忌はとんでもなく苦労したという。この注連縄を破る技は、矜羯羅(十の百十二乗)の名の通り、巨大な数をもって微小な数、つまり須臾を破るのかと思いきや、そうではなかった。矜羯羅童子の話では、微小な存在を破るには、自身がさらに微小な存在にならなければならないのだそうだ。そこで「涅槃寂静の如し」が口伝されたのである。これはその名のとおり、涅槃における静寂の境地にたどり着かなければ発揮できない。しかし矜羯羅童子はこれこそはフェムトファイバーを破る唯一の方法だと言っていた。実際にはフェムトファイバーを構成している「ひも」は数の単位である「涅槃寂静」よりもずっと小さく、フェムトつまり須臾の、その二乗ほどの小ささらしいのだ。ところが、月の民の驕りがそうさせたのか、「フェムト」と名づけたところにフェムトファイバーの弱点が生まれてしまった。「名づけ」は、物の性質を決定してしまう。「フェムト=須臾」と名づけた瞬間、この注連縄は「ヨクト=涅槃寂静」に敗れる定めだと、矜羯羅童子は言った。

 

私は、しばらく過去の記憶に耽っていた。今まで、これほど過去のことを明瞭に思い出せたことはなかった。その時、目の前で空間が炸裂し目が覚めた。妖夢の斬撃で目が覚めたのだ。危ないところだった。これはこの注連縄の持つ別の防壁、心理的防壁の作用なのだ。ごく小さい心理的な侵食が集まり、亡霊だろうと神霊だろうと妖精だろうと、その心を蝕んでしまう。すでに注連縄からかなり距離を取っていた私だが、それでもフェムトファイバーの防壁は油断がならない。

音がした方を見ると、妖夢が大きく息を切らしており、その前の注連縄の面に、黒いしみのようなものが出来ていた。

「今のお話を聞いたら、少しわかってきました」

凄い……と言いたかった。何者も傷をつけられなかったフェムトファイバーに物理的な傷をつけたのだ。妖夢の半霊が、私の目に焼き付くのではないかと思うほど赤い。

「でも、どうしてそんな大事なことを、もっと早くおっしゃってくださらなかったのですか。正直、今まで何をどうすればよいかわかりませんでしたよ」

その妖夢の言葉を聞いて、中秋の名月の晩、絶対に晴れるはずがない雨月が突然晴れた夜のことを思い出した。思い出した瞬間、これも心理的防壁の効果か、まるで今、目の前で起きているかのように明瞭に思い出すことが出来る。過去と現在が同時に進行しているようだ。

 

あの夜はずっと雨が降っていた。毎年恒例の「雨月」だ。天空の雲の上に存在する冥界は、本来滅多に雨が降ることはない。雨月が多いといってもそれは地上の話で、冥界では中秋の夜もほぼ晴れてしかるべきなのである。冥界において中秋の夜に雨が降るのは人為的な理由があった。気象を操ることが出来る天界の住人、天人に頼んで毎年必ず雨が降るようにしてもらっていたのである。表向きは「雨月の方が風流だから」ということになっていたが、真相は別にある。言うまでもなく月の都の監視を防ぐためである。一年でもっとも狂気に満ちた月光が降り注ぐ中秋の名月、浴びられるものなら浴びたいのだが、それは月人に監視されることと同じだ。紫とともに第二次月面戦争の準備をしていた冥界は、月の民の監視を徹底的に避けなければならなかったのである。ところが、戦争開始を目前にしたあの夜、雨月が突然晴れたのだ。私は驚愕し庭に面した縁へ出た。ついに月の民が動き出し、冥界の監視を始めたと、私たちへまざまざと見せつけたのだ。私は月を睨みつけた。私は毎年、 月見の最中に月に供えるべきお団子を全部食べてやることにしていた。言うまでもなく月を挑発するためであり、ついでにおなかも満たされるのである。相手に伝わっているかどうかは不明だが、満月は我が胃中にあり、と毎年宣言し続けているのだ。だが、あの夜雲間から顔を出した月は、そんな私の大見得を見下すかのように、ただただ美しかった。雨月の夜に想像する月の方が何倍も大きく何倍も美しい、などという私の風流気取りを哀れむかのようだった。数年ぶりに見た中秋の月は、想像を吹き飛ばすほどの圧倒的な冴えと狂気の光で大空の全方位を惜しみなく照らしていた。私が見事な満月の美しさに心を折られまいと必死にこらえていると、背後で妖夢がこれまた驚くべきことを話した。

「実は幽々子様は動き出しそうになかったので、ここ二箇月間は私一人でこっそり監視しておりました」

月の狂気に飲まれ呆けかかっていた私は、この言葉で正気に戻った。私の指示もない状況で、妖夢は吸血鬼の監視をしていたのだという。今まで、妖夢が私の指示を待たず、それでいて私の望むよう自発的に動いたことは一度もなかった。それを妖夢はしていたのだ。嬉しかった。これを妖夢が出来るかどうかが月面戦争の作戦開始を決めることになっていた。私は、妖夢が未熟だからと紫に断るつもりだったのだ。だが、できるかもしれない。私は一瞬、妖夢に見とれた。

 妖夢を誉めなければならなかった。そして、妖夢に計画の全てを打ち明けなければならなかった。だがなんという符合か、望月が天空から狙いを定めて冥界を監視していた。私は妖夢に冷たく言い放った。

「本当にわかっていないのね。そんなだから雨月を楽しむ想像力も持てないのよ。これからは私の言うとおりに行動しなさい」

 妖夢は顔を赤らめて恥ずかしそうに謝った。

 妖夢がこちらを見上げようとした。妖夢の視線の先には月があった。私は振り返り、自分の陰で妖夢を月光から庇った。そして監視している月の民にもわからないよう、妖夢の耳元で、計画遂行の鍵となる指示をささやいた。妖夢は裏で何が進んでいるのかわからず困った顔をしていた。必死で理解しようとして、その理解が絶望的になった、という顔をしていた。私は追い討ちをかけるようにこう言うしかなかった。

「雨月の楽しみ方もわからない貴方は、私の言うとおり動けばいいのよ」

 

 

「幽々子様?」

妖夢の声がしたのでその方を見ると、妖夢の顔に二つの赤い球があって、はっ、と我に返った。危うく、過去に取り込まれるところだった。取り込まれてしまえば、過去の時間を注連縄の前で永遠に過ごすことになっただろう。

「大丈夫よ。ところで妖夢、ようやく瑕をつけることは出来たけど、その調子では二百億年たっても中には入れないわよ。五劫の摺り切れず、ね」

「はい」

妖夢の眼光が鋭いせいか、かえって表情がわからなかった。私は妖夢の方へ向かって柳生家に伝わる兵法書の一説を投げかけた。

「兵法の、仏法にかなひ、禅に通ずる事多し。中に殊更著(ぢゃく)をきらひ、物ごとにとゞまる事をきらふ。尤(もっと)も是親切(深切)の所也。とゞまらぬ所を簡要とする也」

妖夢が何か抗議するかのように顎を上げた。私は無視して続ける。

「江口(えぐち)の遊女の、西行法師の歌にこたへし歌、

 

 家を出(いづ)る人としき()けば、かり()の宿に心と()むなとおも()ふばかりぞ。

 

兵法に、此(この)歌の下の句をふか()く吟味して、しからんか。如何様(いかよう)の秘伝を得て手をつかふとも、其(その)手に心がとゞまらば、兵法は負くべし」

「黙りなさい!」

突然、妖夢が私を遮った。

「私は貴方の剣の師であり、そのようなことを貴方から教えられる謂われはありません」

爛々と輝く真紅の眼で睨みつけられ、私は思わずのけぞった。こんな口調で妖夢から叱責されたことは今までになかった。

「歌なら、私の方が先生よ、妖夢」

静かに私は反論した。妖夢は溜息をつくと、雰囲気が穏やかになった。

「そんなことをおっしゃるなら、仮の宿を捨てて家に帰りますよ」

私はどきりとした。わかっていてあの歌を投げかけたはずなのに、家に帰る、と妖夢に言われて私は沈黙した。妖夢は、注連縄の壁の方に向きを変えると、剣を構えた。

 

「天星剣『涅槃寂静』」

 

五感が消え去り、私はただ周囲の宇宙が、理(ことわり)ごと斬られるのを意識で感じた。

次の瞬間、頭上近くから足元の遥か下まで、注連縄が積み重なる壁に一条の直線が垂直に引かれていた。私は妖夢が居なくなってしまったのではないかと、ふと不安にかられたが、妖夢は目の前にいて、それどころか先ほどから微動だにしていないようだ。が、気づくと妖夢が刀を鞘に収めるところで、同時に洪水のような重低音の雑音があたりに充溢し、視界が振動した。妖夢の一閃によって切断された注連縄が悲鳴を上げているのだろうか。妖夢がパチリと刀を収めるその向こう、暗黒の切れ目が左右にゆっくりと開き、フェムトファイバーの巨大な丸い切断面が両側に並んで広がっていく。その様を見て、思わず立ち眩みに似た動揺が身体に走った。延々と続く結界の残骸の奥から光が差し込んだ。ややあって、月の都とおぼしき大陸風の街並みがかすかに見えた。妖夢は一本が直径一キロメートルあると言われる注連縄の九重の連なりを一瞬にして絶ち、防壁の中に道を切り開いたのだった。妖夢は半霊をするりと側に寄せると、当然のようにその中に入っていこうとする。

「待ちなさい」

私が慌てて妖夢の元に行きその袖を摑もうとすると、妖夢は私の手を摑み返して来た。そのまま妖夢は腕を回して私を軽々と抱きあげ、そして跳んだ。

妖夢に抱かれたまま切れ目の空間に飛び込むと、とたんに悪寒がした。四方八方から心理的な事象が襲い掛かってきて、私の心を掻き乱したのだ。論理的防壁、物理的防壁に続く第三の防壁、心理的防壁が立ちふさがったのである。この心理的防壁からの攻撃を受けて無事でいられるのは、月の兎だけだという。月の兎の眼が赤いのは、その眼に入った事象が亜光速で落ち込んでいくからだと言われ、そのために心理的な攻撃は全て無効となり、さらに攻撃を行った者の心の方が狂わされてしまうのだ。

私が混乱と幻惑の心理的懊悩に潰されようとした時、妖夢がその紅い眼で空間をぐるり睨みつけた。すると心理的な襲撃がぴたりと止んだ。妖夢の紅い眼に吸い込まれた攻撃的な心的事象が、全て亜光速で落ち込んでいったのだった。さすがは魂魄家だ、と私は感心した。魂魄家は半人半霊というわけのわからない存在だ。正体を知らない者からは仙人と間違われるかもしれない。事実、もっとも近いのは仙人だが、魂魄家は道家に学んでいるわけでもなければ、不老不死でもない。ちゃんと寿命はあるのだ。誰にも正体がわからない理由は、魂魄家が白玉楼で誕生した特殊な一族だというところにあった。その魂魄家の特別の力を持って、妖夢は心理的防壁すら打ち破り、すとん、とどこかへ着地した。

そこは、いつのまにか月の都の城壁の内側だった。

静寂な地にさわやかな空気が広がっていた。今までの煩悶が嘘のように月の都は平和だ。自分たちが着地した林の木々の向こうに、大陸風の家々が連なる居住区が見え、上空の黒い空には美しい星々が見えた。

 

 

月の都に着いてから数日が過ぎた。その間、勝手気ままに歩く妖夢について都中を歩いて回った。家々の軒先を抜け大路を闊歩し、人目も憚らず妖夢は平然と歩いていく。亡霊である私はここの住民からほとんど関心を持たれなかったが、妖夢もまた、あまりに自然に歩いているせいか誰からも警戒されることはなかった。

妖夢は歩きに歩いて落ち着いたのか、都に侵入した場所の林に近い、ある大きな屋敷に戻ってきた。その正門の扉の前に立つと、触れもしないのにガーという音がして扉が開いた。だが、扉の向こうにはまた別の門が見え門番らしき男の姿が見える。妖夢は古墳時代の埴輪が身にまとっているような甲冑をつけた二人の門番をしばし眺めると、くるりと回れ右をし、大路の脇を走る狭い小路に入って大きく迂回すると、先ほどの屋敷の裏に出た。妖夢はすたすたと塀に近づき壁を押した。すると隠し戸が開くではないか。妖夢は私の手を引くとまるで毎日そうしているかのように自然に潜った。

「この潜り戸は狭いので頭をぶつけないようにしてください」

「妖夢、貴方詳しいのね」

なんだか、ずいぶん久しぶりに言葉を発した気がした。私の指摘で妖夢は初めて驚いたようだった。

「どうして、私はこんなことを知っているのでしょう?」

妖夢は、不思議な気分になっている、だとか、昔住んでいた家に帰ってきたような気持ちだとか、たどたどしく告白した。

「遠い昔、この屋敷に住んでいた気がするのです。そう、剣の教え子が近くにいたような」

「剣の教え子なら近くにいるわ、妖夢先生」

戸を潜り抜けた私が茶化すと、そうですね、と妖夢は答えた。

 

塀の内側をしばらく進むと、町にいる兎とは恰好の違う一団を見つけた。銃剣を持って遊んでいるところを見ると、月を守る玉兎というのはこの者たちだろうと察した。

よくよく見ると、その中に一人垂れ耳の兎がいることに気がついた。街中に垂れ耳の兎はそこかしこに居たが、この群れの中では不思議と目立っている。その立ち姿をどこかで見たことがあると思ったが、その垂れ耳は幻想郷に住む兎たちのリーダー、因幡てゐを彷彿とさせることに思い至った。そういえば地上の兎のリーダーがてゐであるように、月の兎の頂点には全ての玉兎を束ねるリーダー格の兎、そんな兎の王ともいうべき者がいるのだ。私の勘が働き、この垂れ耳兎が次期玉兎のリーダー候補なのではないか、とふと思った。

その垂れ耳は、真面目に訓練するでもなく、銃剣をカチャカチャ言わせながら仲間と噂話に興じている。

「依姫様は地上の巫女を連れて何をしているの?」

「ああ、なんでも依姫様の潔白を証明するために使うんだってさ」

「潔白?」

「ほら、謀反の噂が立ったことがあったでしょう?」

「あれって何者かが勝手に神様を呼び出して使役していることが発覚したからよ」

「ふむふむ」

この二人の話に出てきた地上の巫女とは、ほぼ間違いなく幻想郷にある博麗神社の巫女、博麗霊夢だろう。どうやら、吸血鬼一行は予定通り綿月の姫に敗北したようだ。また、勝手に神様が呼び出された件は、八雲紫が、博麗霊夢に修行させた結果の神降ろしのことだろう。感触では紫の計画に月の民はうまく嵌ってくれているようだ。

「それで依姫様が真っ先に疑われたの。そんなことできるのも依姫様くらいだったしね。でも本当はあの巫女にもできるって見せて廻るんだって」

垂れ耳兎は、仲間の噂話に傾聴している。私が背後に回ったことにも気づいていないようだ。

私は言葉を発した。

「その話、詳しく聞きたいわ」

ざわ、と兎たちの空気がうごめいた。

「誰?」

私は存在感をアピールするために扇子を開いてポーズを取った。存在感が希薄な亡霊という存在を月の民に認識させるにはどうしたらいいか、色々考えたのだが、決めポーズが重要だという結論に達して練習していたのである。

「お前は……?」

そこで私が微笑むと、その微笑の優しさに比例するかのように兎たちは警戒心を露わにした。

「そう怖がらないの。ただの迷子なんだから」

私が言うと、私の前に玉兎が八人ほど並んだ。これだけの手勢で月の都を守ろうというのだから、本当に月の都は平和だ、と思いながら、私は垂れ耳兎のほうににじり寄っていった。

「ここの主人が留守の間に、桃でも食べて休憩しましょう?」

私は垂れ耳兎に近づくと、その頭をなでた。垂れ耳兎はびっくりした顔を見せておずおずと目線を向けて来たが、私が迷子になって屋敷に迷いこんだことを説明している間に慣れたようだ。私の見立て通り、頭を撫でられることに弱いようだった。しばらく玉兎たちの質問責めが続いたが、玉兎に話しかけていた妖夢があっという間に兎たちと打ち解けて、まるで旧知の友人であるかのように話が弾み、和やかな空気になった。そして、質問が終わる頃に眼鏡をかけた兎が桃を持って来たので、皆で賞味しようということになった。どうやら、まだ玉兎達は私たちを侵入者だと気付いていないようだ。

重力の弱い月にあって、手にずしりと重い月の桃は、鮮やかな紫の紋様に覆われ瑞々しく美しい。兎たちは手慣れた手つきでかぶりついた。私もそっと齧ってみると清らかな味と上品な甘味が口腔を見たし、馥郁とした香りが鼻から抜けて行った。顔を覗かせた核は浅黄色をしている。古来より、西王母の住む宮殿「瑤池」には蟠桃なる桃が植わっていると言われているが、それこそがこの月の都の桃なのだ。

その桃は、小さいものは三千年に一度熟し、これを食べると体が健やかになり身が軽くなると言われ、花が八重で実が甘いものは六千年に一度熟し、これを食べると霞に乗って天翔ることが出来ると言われ、紫の紋様があり核が浅黄色のものは九千年に一度熟し、これを食べると天地と寿(よわい)を斉(ひと)しくし日月と庚(とし)を同じくすると言われている。

そして、まさに私たちが食べているこの桃こそは、月の中でも、この屋敷など一部にしか植えられていない、至高の蟠桃なのだった。かの斉天大聖もこの蟠桃を盗み喰いして強大な霊力を身に着けたと言われているほどである。

「実はね、依姫様は熟れた桃を全部取って宴会を開こうとしていたらしいのよ」

「でも、豊姫様が勝手に捥いで食べるものだから、宴会の話は無しになっちゃったの」

なるほど、蟠桃勝会(ばんとうしょうえ)が開かれなかったので、食べ頃の桃がたわわに実っているのか。

しかしその結果、兎たちも桃を食べ、霊力を身に着けることになっているのだから、綿月の姫のつまみ喰いも無駄ではなさそうだ。一方、妖夢は垂れ耳兎と月のお酒の話をしている。

「私の主の豊姫様はお酒も好きでね、地上に降りる時もお酒を持って行って、任務中なのに飲んだりするほどなの」

「はあ、それはよくないなあ。お酒は相手を倒した後の宴会で飲むのが美味しいのに」

妖夢は幻想郷を基準にして話しているのだろうが、兎たちと妙に話が合うのが可笑しい。

「それでね、私たち月の兎のリーダーが、それはよくないっておっしゃってね、豊姫様のお酒の瓶を隠すようにって命令が来たの」

「えー、あれ、レイセンが隠したの? この前地上から帰ってきた後も、豊姫様探していたよ?」

「うん、剣や玉がある部屋に置いといたんだ。さっき豊姫様にそのことを知らせたら、すでに豊姫様は別のお酒の瓶を持っていてね、地上から来た巫女に飲ませるために新しく用意したらしいんだけど、そのせいでお咎めはなし。あの部屋に置いたお酒は放置されてるみたい」

もしかすると、綿月豊姫は天然ののんびりした人物なのかもしれない。どちらにせよ幸運を持つ彼女は何をしようと上手くいくようになっているのだろう。

そう思いながら私は、レイセンと呼ばれた例の垂れ耳兎の頭を再び撫で始めた。警戒心の欠片もなくなっていたのか、その兎は心地よさそうに身を寄せてきた。私は撫でていた手を止め、微笑みながら垂れ耳兎にそっとつぶやいた。

「ところで、私は死を操ることが出来ます。貴方の頭に手を置いているので、私はいつでも貴方を殺し、霊魂を奪う(ポアする)ことが出来ますわ」

垂れ耳兎の笑顔が凍りついた。死ぬのが恐ろしいからではなく、自分のせいで死の穢れが都に広がることを想像したのだろう。他の兎たちは妖夢と談笑していて気づいていない。

「もし、貴方の死の穢れを月の都にばら撒かれたくなければ、私たちのことを仲間に報告しないことよ。それから貴方には人質として、これから一箇月私たちと共に行動していただくわ。きっと楽しいわよ」

垂れ耳兎は悲痛な面持ちになって俯(うつむ)いた。

「人質じゃなくて、兎質だったかしらね? さあ、返答はいかが?」

垂れ耳兎は黙って考えていたが、突然、両耳がぴくりと動き、視線を中空に向けて驚愕の表情を見せた。しまった、と思った。もしかするとレイセンが思案する前に、既に兎同士の通信が始まっていたのかもしれない。そうであれば面倒なことになる。もとより自分の能力を使う気はなかったので、逃げることを考えなくてはならない。そう考えている私へ垂れ耳兎が向きを変えると、きっ、と私を睨み返し、意外なことを言った。

「そんな脅しをかけなくとも、私達は貴方達侵入者のことを綿月家に報告したりはしません。そもそも私は、貴方が注連縄を破って侵入した時点で報告を受けていたのです」

私は目を丸くして手を離した。垂れ耳兎は続けて言った。

「我々のリーダーから今命令がありました。この都は平和を好みますから、貴方達は自由に行動すればよい、と伝えろとのことです」

「そうですか。ならば好きなように行動します。妖夢?」

妖夢は、はい、と返事をすると、名残惜しそうに兎たちと別れ、歩き出した私について来た。一度後ろを振り向くと垂れ耳兎以外の兎たちは手を振ってくれていた。私は屋敷の中央に建つ邸宅の方に向かいながら考えた。

「自由に行動すればよい、か」

私は今回の件のからくりの一端がわかった気がした。月の民は確率を操作できる。自分達の「自由な行動」は、月の民にとっては「必然」だ。そして紫にまんまと嫌な役を押し付けられたことを理解した。今ごろ紫は地上で月の民に敗北し土下座でもしながら、月の都に自分が侵入しないで済んだことに安堵し、月の都で憔悴し始めた私のことを想像してほくそ笑んでいるに違いない。それに、兎の対応も気になった。さきほどの兎は上に報告したりはしない、と言っていたが、正しくは報告するまでもない、ということだ。全ては最初から筒抜けだったのである。だが、そうであっても直属の上司である綿月の姫たちに逐次報告しないということは不思議なことだった。兎たちには、支配者層である月の民とは別の、玉兎を束ねるリーダーを頂点にした命令系統があるのだろうか。しかしこれは考えても仕方のないことだった。月の民からして、一神教派と多神教派など多くの閥に分かれているのである。兎たちもどのような理屈で動いているのかわからないのだ。なんにせよ月の民とは別に、玉兎のリーダーとやらにも、私たちを泳がせたい思惑があるのだろう。紫から聞かされていた事前の情報では、月の兎の通信はとかく曖昧なもので、誰と誰が話しているのかもわからない雑踏の中のさざめきのようなものだということだった。だが、少なくともリーダーの兎は個々の兎と直接コンタクトを取ることが出来るらしい。

とにかく、現在の状況に私たちを捕縛しようとする気配は微塵も感じられなかったので、私はさきの兎の言葉を信用することにして、目的である邸宅に近づいていった。

この広い屋敷は、海神を源に発した一族、綿月家の本拠である。その中でも桃園に隣接する建物には、月の使者のリーダーである綿月の娘が住んでいた。その娘とは、かつて幻想郷の妖怪が月に攻め込んだ時、その妖怪達をコテンパンにした姉妹、豊姫と依姫である。私はその時のことを思い出すと、あの姉妹を自分の能力で殺し、死体を幻想郷へ持って帰って、その肉で酒宴を開いて永琳を招いたら、どんなに痛快だろう、とちょっと思った。

だが、私にそんなことが出来ないことを紫は、そして月の民も、百も承知であろう。

日本の地をしらす天皇は、豊姫と依姫の直系の子孫なのだ。豊姫の息子、鸕鶿(うがや)草葺不合(ふきあえず)と依姫の間に生まれたのが磐余彦(いわれびこ)、つまり初代神武天皇であり、天皇家は豊姫から「幸運」を、依姫から「神霊が依り付く」力を授けられているからこそ、現在まで途切れることなく続いてきたのだった。

もし二人のうちのどちらかを殺してしまえば、たちまち天皇家は力を失って断絶してしまうだろう。日本列島に住む者で自分ほどの愛国者はいない、と自負するこの私、西行寺幽々子にとって、豊姫と依姫は敵としての価値がない者、つまり蓬莱人と同じく、私が大の苦手とする相手であった。

 

 

「知ってるの? あの幻想郷一駄目な妖怪を」

聞きなれた声が聞こえて来た。博麗霊夢の声だ。幻想郷に駄目な妖怪は数多いけれど、一番に選ぶならば八雲紫しかあるまい。となると紫の話で盛り上がる相手は綿月の姫たちだろう。

私は妖夢とそっと丸窓を覗いた。予想通り霊夢が酒に酔っている。その霊夢を囲んでいる二人の女性は、千年前に見かけたのとほとんど変わらぬ姿の綿月の姉妹だ。

窓から覗く私の姿に、綿月姉妹は気付く事が無かった。月の都には亡霊など存在しないからだろうか。違う、と勘付いた。最初から私たちが覗くことを知っているからこそ、気付かないようにしているのである。よくよく観察すれば、霊夢が丸窓の方に視線を持って行かないよう、姉妹は巧みに酒をついだり合いの手を入れたりしていた。勘の鋭い霊夢は、それでも私たちの存在を一瞬感じて、こっちを振り返ることもあるのだが、絶妙のタイミングで綿月姉妹が質問や突っ込みを入れ、その話術が霊夢を会話の方に引き戻していた。

「やっぱり、幻想郷一駄目な妖怪だったわね」

私は独りごちた。確かに亡霊は元々浄土に住む者であり、生死に関わる穢れが少なく、月の都においてはそこに居たという痕跡を残さず行動出来た。そしてその事を知っている者は「幻想郷」では余りいない。かつて妖怪が月に攻め入った時に偶然、紫が気付いたくらいだ。だが、月の民にはお見通しだったのである。なんという杜撰な計画だったのか、と今更ながら思った。向こうが「気付いていないフリ」をし続ける以上、もはやこちらも開き直って「気付かれていないフリ」をするしかない。そんな茶番を一と月もしなければならないとは。私はせめてもの復讐に、屋敷中の桃を喰い荒らして、その罪を綿月の姫君になすり付けることを誓った。

「幽々子様。何でここに霊夢がいるのでしょう?」

妖夢は霊夢の姿を見て、眼の赤みが薄らぎ、いつもの妖夢に少し戻ったようだった。どうやら、先ほど兎たちが話していた地上の巫女の話をまったく聞いてなかったらしい。

私は妖夢を無視して、ずっと考え事をしていたが、霊夢が話す武勇伝に依姫が聞き入っているその表情が目に入ってきた。依姫の師は幻想郷の竹林に住む、あの八意永琳だそうだ。依姫は霊夢の武勇伝の中に永琳の名が出てくることを期待しているのか、霊夢の話に身を傾けて聞いている。千年も離れ、おまけに月の都を裏切って地上に遁世した師を今でも慕っているとは、永琳という女にはよほど人望があったらしい。

「妖夢。羨ましいわね」

「え? 何の事ですか?」

自分には生前の記憶はなかったが、生前の縁者が自分を千年も慕うことなどなかっただろう。千年前は大妖怪だった紫も、月へ大挙して攻め入った時の統率力は失われ、今や式神が一人従うだけである。私は、永琳に羨望を感じた。

「うちでもあのぐらい豪勢な料理が出ればいいのに。毎日」

私はこう言って誤魔化した。そして、白玉楼に無事帰った後の宴の献立を考えることにした。私自身に人を従わせる器があるのか、今は考えたくなかった。それに、私が綿月家に忍び込んだ目的はただ一つ、私自身が復活するためのアイテムを盗み出すことなのだ。竹林に隠れ住む者たちは不老不死の秘薬を持っていた。あれほど高度な技術を持つ月の民の弟子の家には、必ずや復活の秘宝があるだろうと睨んでいたのである。

しばらくして私と妖夢はそっと離れ、建物に忍び込んでいった。

 

綿月邸は、拍子抜けするほど無警戒だった。もっとも向こうは知ってて見ぬふりをしているのだから当たり前である。一番警戒するべきなのは勘の鋭い博麗霊夢ただ一人だけだった。万が一、霊夢が人工冬眠(コールドスリープ)にかけられた場合は救出することを想定していたが、そのような深刻な事態も起こりそうになかった。

この頃には妖夢はこの屋敷にすっかり馴染んでいた。屋敷の裏にある道場を盗み見て、綿月家のお嬢さまたちの剣の稽古を眺めては、あの撃ちは甘い、体捌きが鈍重、などの酷評を連呼したり、勝手に台所に入って酒を飲んだり、好き勝手のし放題だ。そして屋敷に忍び込んで二十日も経つ頃、綿月邸の中を歩いていた妖夢は廊下の真ん中で振り返ると、ついに恐れていた言葉を口にした。

「幽々子様、私、なんだかここに住みたくなりました。屋敷の人に正体を明かしてはいけないのでしょうか。もし、ここにずっと住まわせてくれと言ったら、きっと許可してくれるような気がするのです」

侵入者であることもすっかり忘れ、真っ赤に染まった視線を私に注ぎながら、妖夢はにこやかにそう言った。

私は精一杯困った顔をして言った。私たちの棲家は白玉楼だ。最後の命令を出してしまったから、月の都において妖夢が自分から離れてしまうことも覚悟していた。だから妖夢がここに住みたいと言い出すのは想定の範囲内だ。だがなんとしても連れて帰りたい。私は軽く嗜めようとして言った。

「あら妖夢、『腐っていてもお守りする』って言ってくれたのは、嘘だったの?」

その言葉は、以前竹林に住む元月の民と戦った際、妖夢が八意永琳に対して斬った啖呵だった。だが。

妖夢はびくんと体を弾かせると大きく目を開き、予想外の動揺を見せた。

「え、ええ……嘘では、ありません」

妖夢は狼狽し、押し黙った。私は視線を合わそうとしない妖夢を見て、絶句してしまった。

そして悟った。「腐っていてもお守りする」というのは冗談などではなく、何か重大なことだったのだと。私の胡乱な脳裏にいくつもの記憶が蘇った。

 

 

最初に想起したのは、春雪異変が終わって花見をしていた時、西行桜という、我が家の庭にある巨大な妖怪桜を見物していた魔法使いの霧雨魔理沙がふとつぶやいた言葉だ。

「桜の根っこに美しい舎利子を植えるとは乙だな」

なんでも西行桜の根柢に大きな白い珠が見えるのだという。続けて黒い魔法使いはこう言った。

「あんたのことは、哀れすぎて見てられない、と思っていたがな、そういう在り方もありなのかもしれんな。私は真似したくないが」

何を言っているのかさっぱりわからなかったし、そもそも私はそんな珠を見た記憶がなかったので妖夢に聞いた。

「あれは白い珠ではなく、頭蓋骨ですよ」

そう言われて私はますます驚いた。だがそれ以来、なぜか魔理沙も妖夢もその話に触れようとしない。どの時期に見ても、ついぞそんな珠は見つけられなかったので、妖精のいたずらに人間が騙されただけだろうと思っていた。だが妖夢たちは、何かを見ているのだ。ならば魔理沙が言った、哀れすぎて見てられない、とはどういうことなのか。

魔理沙の言葉から繋がり、別の言葉も思い出した。春雪異変で私が集めさせた幻想郷の春を奪い返した直後の、人間たちの言葉だ。

私は桜符「完全なる墨染の桜」というスペルカードで人間たちと遊び、うっかり自分の放った弾幕に見とれて油断してしまったところを、惜しくも敗れてしまったことは憶えている。しかし人間たちの話によると、私と桜符で遊んだ後に、妖怪桜の西行妖およびその樹上に現れた「異様な少女」と戦ったというのだ。その異様な少女は服も体も黒ずんでいてよく見えなかったが、屍人のようだったという。そんな少女が現れたという記憶が私にはまったくなかった。私が当時会いたがっていた「西行桜に封印された何者か」だったのかもしれないとも思ったが、もしそうなら私が見逃すはずがないだろう。その後、人間達に聞いてもはぐらかして話そうとしなかったため人間達の法螺話だろうと思っていた。

 

それに、西行妖を満開にしようと私が引き起こした騒動が終わった後、冬眠から起きてきた八雲紫がふと漏らした歌も思い出した。

「こんな歌があったわね。

 

たのまれし狂者(きやうじや)はつひに自殺せり、われ現(うつつ)なく走りけるかも。

 

 結界を修復しなきゃいけないし、忙しくなるわ」

「なんて品のない歌なのかしら。誰の?」

「茂吉という最近の歌人の歌よ。赤光という歌集の」

「最近の歌は駄目ねぇ。歌は幽玄の境地に入るものでなくては」

私がそう言うと、紫は寂しそうに笑った。

「そう、私も走ることはないわよね、のんびり結界を修復するフリでもしましょう」

その時は、紫も冬眠から起きたばかりで寝惚けているのだとばかり思っていた。だが、本当は……。

そこまで思考が巡った時、身体に、否、心に激痛が走った。私の想いの及ばない領域が、ずっと心のどこかにあるのだ。私の周りの多くの者がそれを知っていた。そして妖忌や紫、閻魔だけではなく、あの人間達も知っているのかもしれない。なぜ、私だけがそれを知らないのだろう。そうだ、私はこの苦しさを打ち消すために復活をずっと渇望し続けているのだ。なんとつまらないことに拘泥しているのだろう。だが、私はその渇望から逃れられない。私は唇を噛んだ。

 

 「幽々子様」

気づくと半身に構えた妖夢が真っ直ぐこちらを見ていた。紅かった目も真っ赤に染まった霊も、いつの間にか元に戻っている。二十日ぶりだ。

「ご安心ください。私はこれからも幽々子様をお守りします」

凛とした口調でそう断言した妖夢は、微笑みながらつけ加えた。

「幸運が取り柄の人を守るより、薄倖が取り柄の人を守る方が、守り甲斐がありますから」

「取り柄って何よ。醗酵の神に見捨てられているのだから、薄倖じゃないわよ!」

怒ったふりをしながら、私は元に戻った妖夢を見て思わず安堵していた。だが、半身のまま姿勢を変えない妖夢の表情を見て、妖夢が白楼剣の抜き身を左手で摑んでいることに気づいた。

半身に構えているのはそれを私に悟られないよう左手の手元を隠しているためだ。

私は固まった。

 

私は知っている。

妖夢の前世が、月の兎であり、おそらく玉兎を束ねるリーダーであり、綿月家の剣術指南であり、月の賢者八意永琳に殺された月の使者であったことを。

そして、殺されて行くあてもなく地上を彷徨う月の使者の霊たちを、白玉楼にて人工的に転生させることで生み出した、半人半霊の一族「魂魄家」の最後の一人であることを。

妖夢は自分の前世を知らない。私も自分の生前を知らない。

そして妖夢は、私が妖夢に対してそうであるように、私の生前を知っているのだ。

 

私は、自分の生前のことについては妖夢に任せておこうと思った。そちらの方が守りがいも増そうというものだ。目の前の妖夢に、一瞬、先代の魂魄妖忌のイメージが重なった。妖夢はなおも姿勢を変えずに静かに言った。

「この屋敷の者に見つかるといけませんから、どこかに隠れましょう」

私は無言で妖夢の両肩を掴みこちらに向けさせると、妖夢の左手を隠している半霊をそっとどけ、刀の刃を固く握りしめている妖夢の左手に自分の手を添えて、指を一本ずつ刃から離させた。

左手は血だらけだった。妖夢の顔が赤くなった。

「そうね。台所でお酒を飲んでいるのがばれると困るから、台所に隠れに行きましょう」

私はそう言って笑った。

 

 綿月邸で桃を盗んで食べ、酒を盗んで飲んでいるうちに、早くも一ヶ月が経とうとしていた。廊下の向こうからやってくる霊夢に鉢合せしそうになったが、依姫が強引に霊夢の手を引いて手前の角を曲がったので会わずに済むことがたびたびあった。

「はあ、今度こそは見つかってしまうかと思いました」

妖夢は毎回、そんな感想を漏らした。元の妖夢に戻ってしまうと、鈍いのは相変わらずか、と私は毎回溜息をついた。そんな時、廊下の先には決まって綿月家の宝物庫があると思しき通路があった。紫が、私に何か宝物庫から物を盗んでくるよう期待していることはわかっていた。しかし、紫だけでない。むしろ、私が何かを盗み出すことに期待をかけているのは、月の民なのだ。この一と月の間、私は柄にもなく逡巡していた。計画を延ばしに延ばしたので、紫が再び月への道を開き、私たちを迎えに来る日が迫っていた。

私は意を決し、宝物庫らしき倉庫が並ぶ廊下を進んだ。そして、そのうちの一つの扉に入った。

最初に入った部屋は絵画などを鑑賞する部屋のようだった。地上とは違って劣化しない環境であるためか、壁には無造作に水墨画や書が掛かっている。

「この行書で書かれた書と似たようなのが、神社にもあるわね」

私が注意を促すと、妖夢が一幅の書に目を止めた。博麗神社の床の間によく掛かっている煤けた書とほぼ同じものだ。一見すると適当に書かれたような行書の文字たちが、神懸った絶妙なバランスを取って、一つの調和した世界を生み出している。

「神社にある掛け軸ですか? 確か『羅素部我酢』とか書かれたあの……」

「それもあるけど他にも色々掛かっているじゃない。『らすべがす』の軸よりも小さな字がごちゃごちゃしているのが」

「ああ、あったような……」

「あれは、王羲之の蘭亭序なの」

「なるほど。つまり、では、これも臨書でしょうか」

「色々間違っているわね。博麗神社にある書は、臨書ではなく、真筆よ」

「え? あれは唐の太宗が墓に持っていってしまったと物の本にありましたが」

「そう。王羲之の真筆は、全て唐の皇帝と一緒に地上から失われ……幻想の物となったのよ」

「ああ、それで博麗神社に。……あれ? では、この書はなんでしょうか」

訝しげにこちらを見た妖夢に私は優しく言った。

「考えなさい、妖夢。なぜこの世界に、芸術と呼ばれるものがあるのかを」

妖夢は面食らい、難しい顔を作って考え込んでみせた。そんな大袈裟な表情をしても答えが出るわけではないというのに。

「昔、地上の多くを支配した、騎馬民族による帝国がありました。その国は大陸の東をあらかた征服すると、一つの都を作りました。上都(ザナドゥ)と言います」

「それは、蒙古帝国のことですよね? 我が国にも攻めてきたあの」

「そうです。あの国があれだけ広範な領土を獲得できたのは、月の民の後押しがあったからです。そして、月の民の思惑通りに覇権を確立した蒙古帝国は、この月の都を模して都を建設したのです」

「それが、ザナドゥ……」

「地上の歴史上、最大の版図を持つことの証明として月の民が与えたのでしょう。おそらく、あの帝国を上回る国家は未来永劫生まれない。ザナドゥは、壮麗な都だったそうよ。もっとも、モンゴル人の生活習慣に合わせて、こことは大分違った都になってしまったようだけど。都市の芸術としてザナドゥの名は後世まで残ったの」

「芸術、ですか」

「そう。今はただの野っ原だけどね。しかし、オリジナルの都であるここ月の都は、それ以上の力を持っている。訪れる者によって変幻自在に形を変える、巨大な幻想の都市としてのね」

「え?」

「貴方は不思議に思わなかった? なぜこの都が、これほどまでに大陸風なのか」

「そ、それは……どうしてなのでしょうか?」

「それは、私たちが日本から来たからよ。だから、この都は日本人にとっての幻想の都、唐の長安そっくりに映じているの」

「そういえば、唐の都のイメージです」

「そして、それは私たちの計画に、住吉三神が関わっているからでもある。その昔、遣唐使が唐へ出発した時、なにをしたか知っているでしょう?」

「それは航海の神様の住吉大社で祈願して……ああ!」

「それだけではない。遣唐使船は航海中、津守一族の神官が船の舳先に設けた住吉三神の護符の前でずっと神事を行っていたの。紅魔館の住吉ロケットの元型は、遣唐使船なのよ。だからその計画に巻き込まれた私たちは、着いた先の月の都で常に長安の中を行動しているかのように感じている」

「では、他の土地から来た者には……」

「ええ、そうよ。アボリジニーはアボリジニーにとって、ヒンドゥー教徒はヒンドゥー教徒にとって、キリスト教徒はキリスト教徒にとって、もっとも幻視するべき都に訪れることになるの」

妖夢は真剣に考えている。そう、考える間は、つまらない質問など出てこないはずだ。

「ともかく、真筆の蘭亭序とこの部屋にある蘭亭序は、地上の上都(ザナドゥ)に対する月の都、に相当するものなの。地上の言葉で呼ぶなら、元型(イデア)という概念が近いかしらね。地上において、人の心を奪う傑作とされる作品は、月の都にある器物の投影といえるのよ」

「そんな……、では天才とされる人々が作り上げたのではない、と?」

「いいえ、天才と呼ばれる者たちは、神を降ろすことによって作品を作り上げるのです。そして降りてくる何かの源泉が、ここ月の都。芸術だけではない、学問における新しい概念、技術を飛躍的に発展させる新しい発想、全ては月の民が用意しているものなのです。妖夢、例えばこの言葉を知っているかしら? 『道は爾(ちか)きに在り、而(しか)るに諸(これ)を遠きに求む』」

「孟子……まさか」

「そう、孟子にこの言葉を降ろした、月の民がいるということです。地上における思想や技術、そして芸術の発達は全て月の民の思いのまま……、さらに『美』や『正義』などの概念もまた、月の民が恣意的に決めているのです」

 

私は、近年地上に広まったある技術のことと、その背後にいる月の勢力についての噂を思い出した。情報通信技術は月の民が地上を監視するためにもたらしたという噂だ。

例えば、最近発達したインターネットという通信網は月の民の技術の応用だという。しかも、その主要技術を巡って、月の王である月夜見の推進するザナドゥ計画と、月の賢者が作り上げた「天網」の技術を応用したワールドワイドウェブ計画を推す八意家と綿月家が競合し、結果的に八意家と綿月家が勝利したという話である。紫の話によれば、月の都に八意永琳の反乱という噂が広まった要因の一つに、月夜見と八意・綿月家の争いがあったというのだ。他にも、ここ綿月家が深く関わる情報技術もあるという。

 

紫の話によれば、もともと月夜見一族が地上の神霊の多くを引き連れて月に移った頃は、月の民はみな神霊だったという。だが月の都の創建からまもなく、王である月夜見の弟、素戔嗚が月を裏切り、地上から攻め込むという大事件が起きた。これに懲りて、月人は神霊の神格を全て都の最奥に封印し、分霊した神霊を肉体としての実体(インスタンス)に宿し、その神格を纏うオブジェクトとして活動することになった。これが現在の月の民であり、その肉体は神霊を宿し神格を機能させる器にすぎない。

神の持つ神格とは、地上の言葉でいえば、物事の範疇とか型(クラス)と言った方がわかりやすいかもしれない。鉄の神、火の神、愛の神、死の神などと言うように、この世の物事は全て、それぞれが神々、あるいは一神教派にとっては天使や聖人の神格として定義できるからである。そして、一人の月人に宿っている神は一柱が原則である。

ところが、綿月の姉妹は特別だった。

妹の依姫は、玉依姫という神霊を宿し神霊を依りつかせる能力を持つとされているが、その特殊な能力によって無制限にすべての神々の神格を同時に宿すことができるのだ。言うなれば依姫は森羅万象の全ての機能を多重継承することが出来るオブジェクトなのである。いちおう日本の多神教派に属するために日本の神々しか降そうとはしないらしいが、その気になればヤハウェだろうとケツァルコアトルだろうと、いくらでも降ろすことが出来るだろう。

一方、姉の豊姫は、幸運をもたらす豊玉姫の神霊を宿すのだが、この幸運を用いて境界を操ることが出来た。

幻想郷に住む妖怪、八雲紫もあらゆる境界を操る程度の能力を持つが、この能力は主に、同質なものの間に線を引きお互いを異質なものに変えること、つまり分断するための境界「ボーダー」を操る能力である。だが、豊姫の能力とは主に、まったく異質なもの同士を接続するための境界「インターフェイス」を操る能力であった。

海と山のような正反対のものを、境界面を作ることで無制限かつ強制的に接続することが豊姫には出来るのだ。この異常な力を可能にしているのは、幸運に関わる豊姫の能力である。豊姫の幸運は特別だ。それは、どんなに極僅かな可能性であっても、それがゼロでない限り実現させることが可能なことを意味した。ならば、異質なもの同士であっても接続は容易である。例えば、一兆の一兆乗のそのまた一兆乗に一回という確率で起こる事象であっても、豊姫にとっては「確実に起こる事象」に等しいのであり、だからこそ月と地上の空間接続も可能なのである。さらには、紫が作り上げた境界(ボーダー)を境界(インターフェイス)に変えてしまうことすら可能だった。紫は豊姫にどうやっても勝てないのである。

全宇宙の全てのクラスを多重継承可能なオブジェクトと、全宇宙における可能なインターフェイスを全て備えたオブジェクト、これが綿月依姫と綿月豊姫の正体である。

 

現在、地上では情報技術の一端として「オブジェクト指向」なる月の民の本質的構造と良く似た考えに基づく技術が広まりつつあるが、言うまでもなく月の民の仕業だ。神霊を宿して活動する技術を大幅に簡素化して、月の民が人間たちに与えたのだろう。

そして、依姫と豊姫という特別な月人がいることからもわかる通り、地上へ情報技術を提供する役目を持っているのが、この綿月家なのだそうだ。こうした技術を掌握し、しかも天網(ワールドワイドウェブ)の核心技術を八意家から得ていたことから、綿月家は地上の情報技術の全てを指導していた。だがこれは、ある意味で当然と言える。地上を監視する月の使者のリーダーを擁する綿月家にとって、地上の人間に「月の都に筒抜けになるような情報網や情報技術」を提供することが、地上支配のもっとも効率的なやり方だったからである。今や、地上に張り巡らされた緻密なネットワークによって、綿月家は地上のほぼ全域を完全に監視下に置いていた。昔とは違い、天網は恢恢にして密なのだ。監視から漏れているのは、外界から隔絶した幻想郷などごく一部でしかなかった。

「こんなものを持って帰っても仕方がないわ。別の場所を探しましょう」

私は、書画を目の前にまだ考え込んでいる妖夢を諭すと、部屋を出て反対側の部屋の扉を開けた。すると、異様な光景が眼前に広がった。

 

次に入った部屋は、倉庫ではなく、豊姫の研究室らしかった。壁中に半透明の瓶がところ狭しと並んでいる。全ての瓶は液に満たされ、その内部に動物の標本が浮いている。目を上げると、天井は水槽の底になっており、巨大な馬のような生物の奇妙な死骸がじっと固まっていた。全身に皮がなく筋肉が剥き出しになっている。

「大きい動物が……」

妖夢が仰け反る。

「これは天斑駒(あめのふちこま)よ。大陸ではインドリクとも呼ばれる幻想の生き物で、最近ではバルキテリウム、いやパラケラテリウムとか言ったかしら? 素戔嗚が皮を剥いで月の都に放り込んだものがここに保存されていたのね。妖夢、ここに用はないわ」

私は妖夢を連れて部屋を出ようとしたが、妖夢が部屋の奥の方を凝視して止まったので、私も振り向いた。すると部屋の中央に床から天井まで達する円柱状の容器が垂直に置かれており、その中に黒いものが浮いている。妖夢が無言でそれに近づいていく。黒い物体は鳥の死骸であった。私は、その意味に気づいて暗澹たる気持ちに襲われた。

「これは……もしかして紫様の鴉では? まさか殺されていたなんて」

妖夢がやっと声を発した。鴉の死骸に外傷はなく、血液が沸騰した様子が見えることから、紫の式はおそらく飛行中に真空に放り出されて殺されたようだ。

円柱の容器の前の机には、鴉の分析結果とおぼしき文字の羅列が書かれた紙片が積み重なっており、ある紙の文末に豊姫の印が捺されていた。

「紫の鴉は、ここに住む豊姫に殺害され、分析されたようね」

「しかし幽々子様、月の都は穢れを嫌うのではありませんか? どうして死の穢れをもたらすものが、邸宅の一室にあるのでしょう」

「妖夢、天に唾を吐くと、どうなるかしら?」

「へ? 何の話ですか? 一般には自分が天に向かって吐いた唾は、そのまま自分の顔に落ちてきて顔が汚れることになる、と言われていますけど」

「そうね。だから、天に向かって不遜なことをする輩は、その行為がそっくりそのまま自分に返ってきて報いとなると。では妖夢、もし貴方が天に向かって唾を吐いたら、その後どうしますか?」

「そもそも、そんなことはしませんよ。まあ、落ちてきた自分の唾は、さっ、と避けると思いますけど。黙って顔面に受けるなんて間抜けなことはしません」

私は溜息をついた。

「だから貴方は、想像力が足りないのよ」

「ええ、どうしてですか? それにこの紫様の鴉の死骸と、一体何の繋がりがあるのでしょう」

「いいこと、妖夢。もし天に向かって吐いた自分の唾を、身を躱して避けてしまったら、その唾はどうなるのよ」

「地面に落ちると思います。……ああ」

「そう、気づいたようね。自分の顔で受け止めずに地面に落とせば、自分の唾で地面を穢すことになる。顔に受ければ天の報いで済んだものが、地に落とすことで報いが増幅されてしまうの。そして、天の報いと地の呪いとなって、唾を吐いた者に襲いかかることになるのよ。だから、自分が吐いた唾を自分で受けた者は間抜けなのではなく、もっとも害のない策を取ったのよ」

「はあ、わかりました。もし天に唾吐くことがあれば、顔で受けることにします」

「そして、その唾が、この鴉よ」

「え?」

「よく見なさい。この容器に封じられているのは死骸だけではない。鴉の魂も捕えられているでしょう」

あ、と妖夢は声を上げた。死骸の上方、円柱の容器が天井に接するあたりには円柱の外にも内にも縦横無尽に注連縄、つまりフェムトファイバーが張り巡らされており、その真ん中に鴉の霊……それも怨霊が浮かんでいた。

「これは怨霊? まさか紫様の式が怨霊になるなんて」

「紫の身勝手な作戦のために捨石にされ殺されたのだから、紫に対する怨みはさぞや強いことでしょう。怨霊になって当然よ」

私は冷たく言った。そしてこれから幻想郷を襲うことが確実な災厄を想い、焦燥に駆られた。

 

もともと、月に攻め込む今回の作戦が、月からの報復の危険を持つことは承知していた。だが、その報復の手段がこれだとは。月の使者のリーダーが、紫の鴉の死骸を保存し分析する理由など一つしかない。太陽には、月夜見の姉に仕える多数の金烏(きんう)、つまり八咫烏が住むという。つまり豊姫は、この鴉の死骸と霊を太陽に持って行き、八咫烏に転生させた上で、復讐に燃える祟り神として幻想郷に送り込むつもりなのだ。八咫烏は太陽エネルギーの源である核融合を引き起こす強大な力を持っており、幻想郷に一羽来ただけで大混乱になるだろう。おまけに怨霊と化しているのである。地上を火の海に変えようと暴れ出すに違いない。紫が自ら天に吐いた唾を自分の顔に受けるつもりで怨霊を鎮めるのなら丸く収まるかもしれないが、困ったことに紫はそんな性格ではないのだ。

きっと紫は知らぬ存ぜぬを決め込んで背後に逃げようとするに違いない。すると、とばっちりは他の者へ行くだろう。ならば、怨霊となった八咫烏を封印するために、同じ鴉として器がなじむ、鴉天狗の誰かが人身御供にされるだろう。私は、ある新聞記者の顔を思い浮かべた。確か「文々。新聞」とかいうゴシップ紙を書いている者だ。あの者は、今回の月面侵攻作戦において「スクープを独占するために八雲紫の作戦をあえて天狗の上層部に伝えなかった」ことになっていた。もちろん、実際は正確に報告していただろう。なにしろ妖怪の山と月の都の全面戦争に発展しかねない事態である。だが、山の天狗の頭領である天魔は、「報告を受けていない」ことになっているのである。そして、報告をしなかった責任を取らされて、あの新聞記者は蜥蜴の尻尾切りとして八咫烏を飲まされ、抗議する機会も与えられず封印されてしまうだろう。

しかし、と思う。それでもまだ最悪の事態ではない。問題は、幻想郷の者がみな落ちてきた唾を避けてしまい、唾が地に落ちた場合だ。すると八咫烏は地底に行き、旧地獄の鴉と融合し、熱(あつ)かい悩む神の火と化すだろう。そうなれば、まさに報いは増幅され、天地の憎悪を一身に纏った鴉が幻想郷を襲うことになる。

こうした事態に対し、私はどうするべきか……。私が腕を組み、首を傾げたところ、妖夢の半霊が目の前にあった。この半霊は、人の形の方に入れなかった、玉兎の怨霊の半分である。永琳に毒殺された玉兎の霊たちはみな一様に凄まじい負の感情を持っており、身体に全て霊を入れればそのまま祟り神になってしまう可能性があった。そこで、怨念が半減した頃に清浄な半分を人工的に作り上げた身体に入れ、怨念の籠った方を怨霊ではなく幽霊として白玉楼になじませることで、魂魄家の一員として転生させ、怨念を鎮めてきた。特に妖夢の前世であった玉兎のリーダーはもっとも怨みが強く、霊の半分を鎮めるためだけでも八百年近くかかったのである。それを思い出し、私はこの部屋に鴉があるもう一つの意味を悟った。

この鴉は幻想郷への罰という意味だけではない。幻想郷からやってきた鴉の怨霊を転生させ幻想郷に送り込むこと自体が、地上にやってきた玉兎の怨霊を白玉楼で転生させ月への侵入に利用した私、西行寺幽々子への警告になっていたのだ。

「妖夢、部屋を出ましょう」

「え、これは放っておいて良いんですか」

「良いのよ。今は手出しができないわ」

状況から見て、鴉が殺されたのは数か月も前のことだろう。ところが、八雲紫は共同作戦を張るこの私に、式が殺されたことを隠蔽していたのである。そのことに私は憤っていた。

「それにね、妖夢。このことは紫には伝えなくていいわ」

「いいんですか?」

「ことの始末は紫がやるでしょう」

私は、幻想郷に帰って勝利の宴を催すことになったら、紫に対し「無血の勝利を祝いましょう」とカマをかけてやろうと思った。もしその際に、自分の鴉が殺されたことを紫が素直に告白したら、襲来するであろう怨霊への対応について紫の手助けをしてやろう。しかし、もし私の言葉を受け流し、紫があくまでシラを切るつもりなら――紫の性格からしてほとんど確実にそうなるのだが――私は紫の手助けは一切してやらないと決めた。

「あいつは、土下座の仕方も唾の吐き方も知らない駄目な奴だからね。痛い目に遭った方がいいわ」

そう言いながら私は、今度は廊下の奥にある部屋に入った。

 

そこは装飾を施された刀剣や大小様々な玉がキラキラと並ぶ倉庫だった。私の探す、復活のためのアイテムがありそうだ。妖夢の眼も刀剣を見て輝いた。

「この赤い刀、これは使いやすそうですね。あれ、こちらの剣、石のような物体で出来ていますね、切れ味はどうなんでしょう?」

ここにある武器は、どれもこれも地上に争いをもたらしかねない禍々しい兵器だった。盗む物の選択を誤れば、地上を火の海にするだろう。

私は、グニャグニャに曲がった紫の日傘を、部屋の床に目立つように置いた。これなら、誰が盗みを働いたことになったのか、綿月の姉妹にも伝わるだろう。たとえ私が忍び込んでいることがバレバレでも、紫自身が盗んだと思わせる工作を体裁上しておかなければならない。

その時、私は触るのも躊躇う兵器の群れの中に、妙に見慣れた何かを感じた。それは場違いのように刀剣や宝玉の間にちょこんと置かれた青磁の壺だった。そして以前、玉兎たちから聞いた話を思い出した。レイセンと呼ばれる兎が、任務中に酒を飲むという豊姫の悪癖を直そうと、玉兎のリーダーから酒を隠せと命令されたという話である。この壺に入っているのは、隠された豊姫の酒に違いない。神々しい光を放つ秘宝に囲まれ、かえって青磁の壺は浮いていた。

「これはどこかで見たことがありますね。光り輝く大きな鉢に、龍の頸の玉……でも、ちょっと古いかなあ」

妖夢は武器になりそうな器物の群に夢中のようだ。今見ているのは幻想郷の永遠亭で戦った際に見た器物のオリジナルだろう。

「妖夢、盗む物は私が決めるから、おとなしくしていなさい」

「ええ、幽々子様にお任せします」

しかし、私が決めると言ってみたものの、私は困ってしまった。当初の目的は、自分を復活させるための魔術的な器物を盗むことだった。紫からは何を盗めとも言われていないし、そもそも盗むこと自体、特に取り決めがあったわけではないのだ。私には別の懸念もあった。ここは月の都の、綿月の家の中だ。私が自由に選択したところで、月の民の必然の事象に絡め取られることになる。惚(ほう)けている私を後目に、妖夢は高揚してあちこち歩き回っては様々な刀剣を取って眺めまわしている。

だが、懸念というのは表面的なことで、私が迷う理由は別のところにこそあった。月に来た後の妖夢とのやりとりで、復活することへの躊躇いのような感情が私の心に芽生え始めていたのだ。復活したいという渇望は変わらないが、妖夢に任せてみたいという気持ちもあった。月の都を守る巨大なフェムトファイバーを破った妖夢なら、確率を操る月の民の策を破れるかもしれない。そうだ、妖夢なら私を復活させるためのマジックアイテムをきっと探し出してくれるのではないか。

「ふむ。妖夢、この屋敷に住む姉妹だけじゃなく、紫にも永琳にも一杯喰わしてやりたいわね」

「ええ……え?」

「妖夢、この前出した命令が最後だというのは撤回するわ。命令よ。盗む物は貴方が決めなさい」

妖夢はきょとんとしたが、すぐに興奮と嬉しさに唇をわなわなと震わせると、復活に関わりそうな玉などのアイテムには目もくれず刀剣の群れの中に突入していった。私はがっくりと肩を落とした。妖夢には淡い期待を込めたのだが。

妖夢が手に取って、ううむ、と物知り顔で唸ったり、半霊が愉しそうに迷いながら握ったりしている刀は、いずれも一振り地上にもたらされれば数千万の死者を生み出しそうな、地上の魔術の「良識」を超えた代物だった。妖夢の興奮に同調するかのように半霊が紅くなりはじめた。私は、しまったと、自分の甘さを思い知らされた。あの綿月姉妹が、紫だけに罰を与えるはずがなかった。月の民はこのことすら計算に入れていたのだ。前世が綿月家の剣術指南役だった妖夢は、綿月家の最新の刀剣を見て、前世の感覚を取り戻すであろうことに。そして前世の嗜好の導くまま、必ず剣状の武器を、それも最悪の兵器を、選ぶだろうということに。

私は迷いに迷った末、やっぱり止めるしかない、と思った。

だが、私が伸ばした手が、妖夢の肩に触れるよりも早く、妖夢の半霊が瞬く間に真っ赤に染まったかと思うと、真紅の光を発して輝きだした。月の都に侵入した時の単に紅くなった時とは違い、目も眩む強烈な光が部屋中に迸った。私が立ち竦んでいる目の前で、赫々(かくかく)と光る半霊がゆっくりと妖夢の人の形に入っていった。そして半霊は見えなくなり、赤い光も消え、妖夢の後ろ姿が残った。いや、よく見ると妖夢の輪郭と重なるように、兎の耳のようなものが見える。前世の玉兎が像となって結んだのだ。予想外の展開に、私は言葉を発することが出来ない。

「西行寺幽々子、いけませんね」

後ろ姿の玉兎の像が、声を発した。口からではなく、妖夢に重なる兎の像全体から発せられる不思議な声だ。その像は妖夢の身体に重なった腕で白楼剣を抜いた。

「月の都が抱く根源的な問題、穢れに対する恐怖を克服するために月の智慧を結集して作り出された、この白楼剣に勝る武器など存在しないというのに。貴方が止めなくても、魂魄妖夢は結局、刀剣の類を選んだりはしなかったでしょう」

「貴方は、永琳に殺された月の兎ね? 私の元から離れ、月の都に留まるつもりかしら?」

「永琳? 八意××様のことなら、今の玉兎のリーダーが敵を討ってくれるでしょう」

今のリーダー? そういえば、豊姫から酒を隠せと命令したのは今のリーダーだった。すると、この部屋に酒が置いてあるのはやはり偶然ではなかったのだ。

「貴方は、八意永琳への憎悪を保ち、何百年も怨讐を抱いていた。それはまだ消えていないはず。それとも貴方の霊を転生させて利用した私を怨んでいるのかしら?」

兎の像は、ふふ、と笑い声を零した。そして振り向いた。面立ちは妖夢と寸分違わなかったが、前髪を切り揃えた妖夢と違い、髪を自然に伸ばしていた。

「いいえ。ふか()く吟味したのですよ。心とむなとおもふばかりぞ、と。確かに、歌においては貴方が先生でした」

「まあ」

私はじっと相手の顔を見つめた。

「以前にも眼が真っ赤になったことがあったけど、その時、妖夢の赤い眼を治しに来た永琳を、貴方はさんざん斬ったじゃない」

 永夜異変の際、ただ一人魂魄妖夢だけが、満月の光を浴びて眼を赤くした。それは、妖夢の前世が玉兎であり、半人半霊という存在が激しく反応したからだった。そして、その眼を治しに来た永遠亭の薬師八意永琳は、治療中に暴れに暴れた妖夢の剣で、それは酷く斬られたのである。八意永琳が不老不死の蓬莱人でなければ、百辺は死んでいただろう。

「確かにあの時、八意様に怨みを晴らしましたから、すっきりしたというのはあるのですけどね」

玉兎の像は、本当に晴れ晴れとした表情でそう言った。

「やっぱり。そうだと思ったわ」

私は、ずっとその顔を見つめた。妖夢の髪は私がいつも切っていたのである。前で切り揃えるのが一番似合うと思っていたのだ。だが、目の前の妖夢の顔をした兎の自然な髪も良く似合うと思った。私の心を見透かしたのか、兎の霊はにこりと笑った。そして、白楼剣を高く掲げた。

「でも、私がもうこの世に心を止()めていないのは本当よ。それを悟ったのは貴方のおかげ。半人半霊となった仲間たちも皆そう。ところが、哀れなことに、貴方自身の方が心を止めている。今でも復活することに未練を持っている。そして魂魄妖夢はそれに振り回されるでしょう」

「よくわかっているじゃない。それで私の未練を断とうと、その白楼剣で私を斬ろうっていうの?」

「西行寺幽々子、貴方は振り回すつもりで、魂魄妖夢に全て任せてやりなさい。これからの選択も、貴方の未練の始末もね。そうしているうちに魂魄妖夢もいつかは悟り、寂滅できるでしょう」

そう言って、兎の像は踵を返して向こうを向くと、静かに剣を、自分自身に斬りつけた。

 

「人智剣『天女返し』」

 

あっ、と声を上げる間もなく、目の前の兎の像が真っ二つに斬られ、白楼剣が空中に弧を描いて左の腰の鞘に滑り込むと、人の形の切断面から半霊が飛び出してきた。そして、兎の像は跡形もなく消え、いつもの見慣れている妖夢の後ろ姿が残った。妖夢はつい今まで起こっていた不思議な現象などなかったかのように、先ほどと同じく刀剣を見ながら相変わらず唸っている。私は妖夢の肩に伸ばしかけていた手を引っ込めた。あの兎の像が言っていた通り、私はもっと妖夢に任せて良いのかもしれない。これからは髪も妖夢本人の好きにさせよう。

「うーん、やっぱりコレが一番ね」

腰に佩いた白楼剣の鞘をさすってなにやら頷くと、妖夢は私の前を横切って数歩進み、ふいに立ち止まった。

「ああ!」

妖夢が素っ頓狂な声を上げた。

「幽々子様」

くるりと振り向いた妖夢は恥ずかしそうに言った。

「これにします」

それはみすぼらしい、青磁の壷だった。

私は湧き上がる歓喜を自分の能力で必死に殺して言った。

「やれやれ、わかったわ。妖夢に選ばせたのは失敗だったようね。でも仕方ない」

「理由は訊かないんですか?」

理由は胸が苦しいくらい良くわかっていた。

「私をどうしても薄倖の美少女にしたいようね」

妖夢は嬉しそうに頷いた。 

 

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