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第三章

夜明け2 蝙蝠のクォリア 〜 A Study in Scarlet.

♪月々抄 〜 Oriental Orienting toward Orientation‐Oriented Orient

 

第六星 夢想封印

 

レミリアは紅い霧を発生させて幻想郷を覆おうとした。後に紅霧異変と呼ばれる騒動の始まりだった。後から考えれば、ずいぶんと月が紅い晩だった。あとで月を見て理解したが、夏の月は高度が低く、さらに白道と黄道の角度の関係で、年によっては地平線に月が近づいて紅くなる、というのが妥当な見解だとわかった。が、幻想郷の風土に染まった紅魔館の住人たちから、それは科学的過ぎてつまらない、と一笑に付された。咲夜の話によれば、非科学的だというのは幻想郷的であるということらしい。そういえば後の永夜異変の際に、月が紅い理由を「見るものの心の光が紅いから」「月に降り注いだ光のうち仲間外れの紅が幻想郷に降り注ぐから人間の血が紅い」「戦場になっていて、殺気立った月の兎の目が紅いから」などと咲夜とレミリアが話していたのを聞いたことがある。今思えば、もし月が戦場になっていて、それが原因で月の色として紅く染まっているのなら、それこそ確かに幻想郷的なのかもしれなかった。なにしろ、噂に聞いていた月の兎が実在したのだから。

 

レミリアが紅い霧をばら撒いてしばらくした夏の夜、人間たちが来た。

レミリアの目標はもちろんサリエルや神綺、そして私たちの両親を倒した少女である。あらかじめ少女がちゃんとレミリアの元まで辿りつくよう、美鈴と咲夜には少女にガッツを与えるよう指示しておいた。スペルカードルールを制定した紫の話によれば、相手の神経を逆撫でするような声援を送ると、相手のガッツが増えるという話だ。眉唾ものだが、確かに人間のガッツが増したようだという話も聞く。また人間を傷つけないように館はもとより、湖周辺の妖精にも呼びかけて、それらの配置にも細心の注意を払ったのだった。レミリアは計画通り上手い具合に少女を呼び寄せた。

館にやって来ると想定した人間は三人、博麗霊夢、霧雨魔理沙、冴月麟の三人だったが、そのうち霊夢と魔理沙の二人が館に侵入した。魔理沙は真っ先にやって来たが、パチュリーとの戦いに負けて本を盗んで逃げた。次に霊夢がやって来て、何事もなく美鈴とパチュリーと咲夜を倒してレミリアが待ち受ける塔に上っていった。

私は、どうしてレミリアがこんな馬鹿馬鹿しい異変を起こしたのかずっと理解できないでいた。紅い霧を出して真夏の日光の下でも外を出歩けるようにするといっても、あまりメリットはない。吸血鬼が日光に弱いというのは精神的な理由が大きいので、日傘などを持っていれば特にダメージにはならないのだ。しかし、流行りの遊びだけあって弾幕ごっこはずいぶんと楽しいもののようで、美鈴やパチュリー、咲夜は元より、紅魔館の妖精メイドまでが夢中になっている雰囲気を、正直うらやましく思っていた。もっともパチュリーは戦闘のあと、小悪魔に向かって愚痴をこぼしていた。紅魔館の蔵書の価値が神社の三年分の賽銭と同じだとパチュリーは霊夢に言ったのだが、霊夢が鈍すぎて、図書館が博麗大結界の補助だということに気づいていなかったというのだ。言うまでもなく、紅魔館の大図書館が博麗大結界を三年間は維持できるという意味だったのだが、確かに霊夢にはわからないだろう。そんなパチュリーの愚痴を聞いていたところに、レミリアから話しかけられた。

♪ねえフラン、私はもう霧を出すのに疲れちゃった。フランが代わりに出してよ†

♪そんなこと言って、レミィはまだ霧をばんばん出しているじゃない†

♪私は、これからやって来た人間に、そしてこのジパングに、そう、楽園のエリュシオンに、血の雨を降らせて美しくするのでそれはもう忙しくなるの。だからフランはその間私のところまで霧を飛ばしてよ! †

レミリアのなにやら詩的で私的な文句に圧倒されて、仕方なく私もレミリアのように霧を飛ばし始めた。ドアから霧が館の廊下を通って上空の塔まで漂っていく。そうこうしているうちに霊夢が塔の上に舞い降りたようだ。対面したレミリアと話し始めたのが聞こえる。

「こんなに月も紅いから本気で殺すわよ」

「こんなに月も紅いのに……」

レミリアが幽かにクスッと笑ったのが聞こえた。そして霊夢のセリフをレミリアが先取りした。

 

楽しい「永い夜になりそうね」」

 

♪永い夜、という異変も悪くないわね。人間の癖に良いことを言うわ†

レミリアがこんな言葉を洩らしたのが聞こえた。レミリアと霊夢は確かに永く戦っていた。流石に両親を倒しただけあって、霊夢はレミリア相手によく戦い、最終スペルカード「紅色の幻想郷」まで辿りついた。

本気で殺す、というレミリアの宣言はもちろん脅しだったが「紅色の幻想郷」は確かに人間の能力のぎりぎりを狙った弾幕だったようだ。全ての弾幕を初見で避け切ってきた霊夢も流石にきついと思ったのか、スペルカード宣言をした。

「霊符『夢想封印』」

夢想封印は誘導弾が問答無用に敵に襲いかかるという技だった。だが、夢想封印の弾はレミリアに向かって行かなかった。霊夢の愕然とした様が聞こえた。光弾の、霊夢の周りを迷うように動き、そして目標を発見出来なかったかのように落下していく様が私にも明瞭に聞こえた。

「なんで?」

霊夢は狼狽したが、すぐに精神統一して平静を取り戻すと、再び夢想封印を放った。二回目の光弾もレミリアへ向かわず、最初と同じく、しばらくして真下へ向かって飛んでいった。是見よがしに蝙蝠に変化したレミリアは牙を見せてずっと笑っていた。まさか、蝙蝠に変化すると誘導弾は目標を見失うのだろうか、とふと思ったが、私は次の瞬間、別のあることに気付いて霊夢と同じように驚愕した。夢想封印の光弾は塔の時計の隙間から塔の内部に入ってそのまま落下し、廊下を通って、私の部屋に向かって来たのだ。私はとっさに配下の蝙蝠に命令して部屋のドアを閉めさせた。最初に放った光弾が、私の部屋にぶち当たった。

侃(カン)、と何かが外れた音がしたように思った。

私は音響空間をドアの方に向けた。

二回目の夢想封印の光弾がさらに部屋の壁に当たった。

また、侃(カン)、と世界のどこかで音がした。

「今、紅霧を出しているのは自分だけじゃないんでね」

レミリアが霊夢に言い放った。

「そんなはずはないわ。あんたが元凶だって私の勘が言ってるのよ」

霊夢はそう言い返して、夢想封印を三たび放った。だがやはり光弾は蝙蝠に変化したレミリアに向かわず、私の部屋に向かって来た。

「私が出しているのは、そうね、紅霧じゃなくて、紅夢(ゆめ)よ」

「やっぱり、あなたが元凶ね。もういいわ。邪悪なあんたは札や針で倒すから」

そう言って霊夢はレミリアに攻撃を集中した。私は確信をした。三度目の光弾がやって来て、私の部屋のドアに当たった。

 

カチリ。

 

ドアからそんな音がして、音もなくドアが開いた。一つだけ残った光弾がふらふらと部屋の中にやって来て、部屋に突っ立っている私に飛んできた。痛みは覚悟して受け止めた。すると、私を不思議な感覚が包んだ。全身を暖かい毛布が包むような感じたことのない気持ちよさに私は痺れた。ぼーっとした私は世界が変わったのだと思い、しばらくじっと開いた空間の方に耳を傾けていた。遥か上の方から、霊夢の激しい攻撃の音が聞こえる中、私は気を取り直しておそるおそるドアに近づいた。手を伸ばしてみる。ドアの空間は私を弾かず、私はつんのめりそうになった。私は口元がわなないているのを感じながら、ドアから一歩足を出した。その時、何も音が聞こえなくなったような気がした。そして、私は紅魔館の廊下に立っていた。廊下の奥から漂ってきた、むん、とした夏の香りが鼻腔を満たし、思わず吸い込んだ。

 

♪部屋から出られた! †

 

私は歓喜と驚愕が混じり合った感情を極限まで爆発させて超音波で絶叫した。その時、霊夢の札がレミリアに当たった。レミリアは力尽きて落下しながら、ずっと微笑していた。

 

♪ねえ、レミィ、部屋から出られたのよ! 信じられる? 本当よ! †

♪へえそうかい。それは良かったね†

 

レミリアの素っ気ない声を聞いて、私はレミリアの目的を初めて知った。私は闇雲に館の中を飛び回った。

メイド妖精たちがびっくりして道を開けた。気持ちの趣くまま飛び、館の窓から外を見た。初めて目にする光景だと思っていたが、紅い月を見た瞬間、人間だった幼児の頃の記憶が一瞬甦った。気づくと、私は滴り落ちる涙をずっと顎から振りまいていた。泣きながらそれでも私はじっと紅い月を見ていた。そう、視覚という感覚はこんなにも劇的なものであり、紅という色はこんなにも強烈なものだったのだ。大昔の幺かな記憶に、私は泣きじゃくっていた。私を包む、あの毛布のような温もりは広がりながらいつまでも消えず、その後今まで幽かに幺かに続いている。これが幻想郷に受け入れられることか、と今では思っている。

一方、レミリアは衣装室で服を着替えると、遅れて到着した霧雨魔理沙との戦闘に移った。私はレミリアと魔理沙の戦いの模様を音で聞きながら、レミリアにずっと感謝をしていた。そう、私たち家族の目的は最初から決まっていたのだ。私たちのママもパパのエリスが靈夢に破れたのを知って、幻想郷に行ったのだ。敵を取ると言っていたが、本当はパパのエリスを破った靈夢なら、私フランドールの部屋の封印を解かせられると思っていたに違いない。湖の底に開けた穴も私の部屋を幻想郷に通すためのものだったのだ。だから、レミリアが霊夢に負けるのも予定通りだったのだろう。

実際、レミリアは紅霧異変後、霊夢と仲が良くなり頻繁に神社へ行くようになった。紅魔館のメンバーの結束力は高くなった。咲夜は、幻想郷では希少なスリランカの紅茶キャンディをどこからか入手してレミリアに飲ませるようになった。

一方、私はそれ以来、蝙蝠に変化して幻想郷中を飛びまわったりした。空を飛ぶなら人の形より蝙蝠の形の方が断然優れているのだ。のちのちまで、私は紅魔館に閉じこもっていて出てこないと言われるようになるが、本当は蝙蝠の姿で内と外を出入りしているのである。

また私は人の形の時は紅魔館のテラスや屋根の上で星空を眺めるようになった。ずっと音の空間で生きてきた私にとって、反射音の返ってこないほど遠くにある星々は私を虜にした。いやそれだけではなく、人間だった幼児の頃、星に夢中になっていたようなおぼろげな記憶があったのだ。暗闇の中で消え失せたかと思っていた私の視力は目叩く間に回復し、さらにパチュリーの知識の協力の元、魔法で光を反射させ収差を補正させて作り上げたカタディオプトリック式望遠鏡を開発して天体観測を始めると、私の心の中には色とりどりの星々の個性までもが入ってきた。

そうだ、パチュリーも含めて、私以外の館住民が参加した弾幕ごっこ大会で、ここの人々はちょっとずつ変わり始めた。霊夢たちと戦う前のパチュリー・ノーレッジは、基本的に何事にも無関心で無感動、集めた本を読むだけの毎日で、本から得た知識を披露する事すらないような少女だった。なので、本当に知識(ノーレッジ)があるかどうかすら分からないと、住民たちからすら揶揄されるくらいだったのだ。それが、徐々に知識を実践に活かし始め、やがては月へ行くロケットまで完成させるようになるのである。

そんな変化の端緒だった頃のパチュリーに望遠鏡製作に協力してもらったついでに、私は観測した星たちをモチーフに弾幕を開発してみたいという気になり、そちらについても色々と助言をもらった。

気に入った弾幕にどんどん名前をつけていったが、特に禁弾「スターボウブレイク」は美しいだけじゃない何かを感じた。見覚えがある……なんだったかとしばらく悩んだ。そして、ある時メイドが灯りを持って夕食を運んできた時、灯りに映った自分の影を見て気が付いた。私自身の羽根の形と色が、スターボウブレイクの弾幕にそっくり、いや、弾幕の方が、私の羽根を表現していたのだ。スターボウとは星空を光に近い速度で飛んだ時に見える、星が生み出す虹だ。ならばそれをブレイクするのだから、弾幕は光速すら上回る超光速の飛翔を表現しているのだと、私は思った。弾幕というのは適当に作っていて形の良いもの、色彩が美しいものが出来上がると採用するのだが、ずっと後になってそれが自分の重要などこかと関係しているとわかることがあるのだ。

こうして十の魔法の弾幕が完成した。

私も部屋の封印を解いて貰った「お礼」を是非博麗霊夢にしたかったのだ。それにレミリアが霊夢と楽しげにしているのがじわじわと羨ましくなってきた。そうだ、この頃から私の性格だって変わり始めた。もしかすると外に出られるようになって、人間だった頃の本来の性格、つまり地が出てきたのかもしれなかった。

そういうわけで、私はレミリアに相談し、レミリアとパチュリーと私の三人で、霊夢を自分たちの仲間にしようと策をめぐらすことになった。自分たちが襲うのなら駄目だが、霊夢が自発的に吸血鬼になるというのならいいだろう。そこで、まずレミリアの外出中にパチュリーに雨を降らせて私の存在をそれとなく神社に知らせ、館に招く口実を設け、私と対峙させる一連の計画が練られたのだった。そういえば、この計画は私が主役のはずだったが、パチュリーもそうとう気合を入れていたのが可笑しかった。なんと、髪を青く染めてイメージチェンジをしていたのだ。レミリアに「何をおめかししているのか」とからかわれて、それ以来あまり青い髪に染めることはないが。実は小悪魔もパチュリーに倣ったのか気合を入れて髪をピンクに染め、魔導書のトラップ地帯の後に出撃する気でいたのだが、レミリアにからかわれると思い結局出なかったという裏話もある。

私はまずパチュリーに負けて図書館から本を盗んで逃げた輩、魔理沙と戦った。その時、私は初めて人間というものをこの目で見た。今まで、真っ暗な部屋で生活していたため、音像では知っていたが人間がどう目に映るのか知らなかったし、咲夜は紅霧異変の謝罪のために幻想郷の人里に行った縁で連夜の宴会に巻き込まれ、やっと帰ってきたらレミリアのお伴で神社に入りびたり、私とは顔を合わせていなかった。ともかくも、魔理沙が人間だとわかった時、ロムニアでテレヴィツィウネに映った形が人間だとようやく私は知ったのだった。

霧雨魔理沙は予想外に強かった。以前魅魔や幽香から聞いていたように、魔理沙は「霊夢がいなければ死んでしまうほど仲が良い」という人間だと思っていたので、本来は魔理沙を捕えて霊夢をおびき寄せようという策だったが、私が人間に避けられるよう手加減しすぎて安全地帯を作り過ぎたせいか、私まで魔理沙に負けてしまったのである。だが魔理沙に結婚相手として神社の娘を紹介すると言わせることに成功した。私は、娘ではなく結婚相手でも同族になってくれるなら全然構わない、と思った。こうして、待ちに待った霊夢との対面がかなった。霊夢も魔理沙も、アリスの究極の魔法を喰らっていたせいか本当に幼い少女だったが、魔理沙は霊夢に私を将来の花嫁、あるいは花婿として紹介しているはずだし、自分を閉じ込めていた部屋から解放してくれた恩人と家族になることに高揚していた私は、ハイテンションで出迎えたのだった。

勝ったら、自分の血が入ったケーキを強引に食わせ、負けたら自分の血が入ったケーキをお詫びに博麗神社に持って行って食わせ、それを口実に血を直に与えて仲間にしてしまおうという隙のない作戦だった。いや、重要な儀式はもっと後にとっておいて、結婚式を挙げる時に自分の血を霊夢に与えるというのでもよい。戦闘においては、大恩人である霊夢をコテンパンにするのもかわいそうだし、霊夢は魔理沙以上に勘が良くて滅茶苦茶強かったため――なにしろ、初めて目にするはずの弾幕をまるで何万回も経験したかのように正確に避け、禁弾「スターボウブレイク」なんていきなり安全地帯を見抜かれてしまったほどだ――、私はおとなしく白旗を上げて霊夢に「もう煙もでません」と言って負け、ケーキを神社に持って行く作戦にした。契約を重要視する悪魔である私は、魔理沙が自分を結婚相手として霊夢に紹介済だと信じて疑っていなかったのである。ところが、魔理沙は結婚相手に自分を紹介していなかったどころか、霊夢には「神社に来るな!」 と言われてしまった。私は激しく落ち込んで、しばらく部屋に閉じこもった。

 

この紅霧異変は、最終的な目標、つまり霊夢を自分の仲間にするという望みは達成できなかったが、私の部屋の封印が解かれたことで私にとってのターニングポイントになった。しばらくして、レミリアは月に異変を感じ始めた。次の異変には、紅魔館のメイド長、十六夜咲夜を送り出そうと私たち姉妹は密かに計画を練った。しかし、咲夜が本当に異変をクリアできるかどうか心配だったレミリアは、念には念を入れて、魔界からアリスを呼び出すことを考えた。私はさっそく自分の部屋のもう一方のドアを抜けて、魔界に飛んでいった。

 

魔界の小路、旧いブカレストの都の煉瓦で舗装された公園の、Children!と書かれた看板裏で私とアリスは落ち合った。

聞くところによれば、アリスは人間時代に、魔界のブカレストに引きずりこまれる要因となった人形屋を営みながら、時折地上に出てビデオゲームの製作を裏から支援しているらしい。私がアリスに紅霧異変の顛末を話すと、アリスはそのストーリーに「東方紅魔郷」という題をつけて是非とも弾幕人形劇を演じてみたい、と言い出した。幻想郷の人里で人形劇を催すのに、恰好の口実になるというのだ。さらに春になっても雪が降りやまない異変を聞きつけ、それも弾幕人形劇にぴったりだ、とのたまいだした。アリスが大真面目に言っていたと知ったのはずっと後のことだ。私はその時、アリスがどこまで本気なのかと訝しんでいた。ただアリスが異変への参加に乗り気だったのはわかった。そして、咲夜に不安を感じるのなら、咲夜のスペルカードを多目に用意しておけば良い、と助言をした。

 

こうして、私とレミリアとパチュリーはずっと咲夜の後をつけることにした。

助言通りスペルカードを多目に持って行った咲夜は難なく敵を撃破していった。咲夜は時間を止めて自分が放ったナイフを回収する際に周りを警戒するのだが、人間に聞こえない超音波のソナーで遥か遠くから聞いている私たち姉妹には気付かなかった。

レミリアはたぶん、瀟洒な咲夜が気付かないふりをしているだけだと思っていただろうが、私たちと咲夜ではクォリアが違う。人間が、遠くにいる私たちを意識するのは困難だろう。

魔法の森の上空で、煉瓦造りの建物を真横にしたような異空間の中に姿を現したアリス・マーガトロイドは、予定通り敗れて咲夜を先に行かせた後、続いて通りかかった私たちにニヤニヤと笑いながら話しかけた。

「あら、お久しぶりねレミリア。私が言った通り、好(よ)い目にあったでしょう?」

「これが、人形租界だって?」

「そうよ。様々な人の形があつまる、租界。幻想郷自体が、人の形の楽園になったのよ」

「どうせ、その『楽園』の前には『偽の(Pseudo)』が付くんだろう?」

アリスはクックックック、と笑って言った。

「人形劇にも色々とランクがあるの。世の中で一番多いのは、観客に見向きもされないのに、人形遣いが必死に踊っている人形劇。これが最低ね。そして、人形遣いが操る人形の魔力で、観客が踊り始める人形劇。これが劇としての水準をクリアしたもの。だけど、もっと上のランクの劇があるの……人形遣いも観客もいないのに、人形がひとりでに踊り始める、これが最高の人形劇よ。私が目指すのはそれ」

レミリアが即座に言い返した。

「その最高の劇が成功したか確認できるのは、自分が人形になった場合だけだって言いたいんだろ? つまらない魔法だ」

パチュリーが口を挟んだ。

「アリスの魔法にはその先があるのよ。つまり、妖怪や神々が、人間の認識なしで自立できると」

なるほど、とレミリアと私は沈黙した。それならば、つまらないと足蹴には出来ない。

私たちの様子にアリスは満足そうな顔をした。

「この先、上空へ雲を抜けていくと冥界と顕界の境をなす巨大な結界があって、そこにプリズムリバー姉妹という騒霊がいるわ。その者たちは、過去に人間の空想から生まれたけれど、今では人間の認識なしで自立している、極めて興味深い者たちよ。会ってみるといいわ」

アリスはそれ以上言葉を吐かずにウィンクをし、魔法の森に構えた新居へ帰って行った。先の方では、すでに咲夜が雲海の上に出て戦っている音がしていた。

 

「いぬにく〜、いぬにく〜」

「人肉!」

こんなよくわからないやり取りが遠くから聞こえてきたが、咲夜が人肉と答えた意味はわかった。この頃の咲夜は、貴重な食材を使用した創作中華にはまっていたのだ。そして咲夜はプリズムリバー楽団と戦い、見事に人肉であることを証明したようだった。咲夜が結界の向こうに姿を消すと私たちはプリズムリバー姉妹の前に聳え立つ巨大な柱の上に飛び降りた。

「『いぬにく』が通り過ぎたと思ったら、今度は主人が来たね」

こちらはメルラン・プリズムリバーのセリフだ。咲夜と戦っていたのはメルランだったはずなのだが、気付くと姉のルナサ・プリズムリバーと妹のリリカ・プリズムリバーがボロボロになっていて、メルランだけが元気だ。メルランは天然の天才肌風のところがある、と思った。数年前に紅魔館が幻想郷にやって来た時の歓迎パーティでレミリアやパチュリーはプリズムリバー姉妹とは顔見知りになっていたが、私とは初対面だった。

「せっかくだから一曲聴いていきなよ。偽の(Pseudo)楽園には偽の(Pseudo)ストラディバリの音が良く似合う」

そういって騒霊のヴァイオリニスト、ルナサ・プリズムリバーがエドヴァルド・グリーグの「Letzter Frühling(Last Spring)」を演奏し始めた。咲夜を犬呼ばわりされて気分を害したのか、いや、デビルイヤーと呼ばれて畏れられた我々吸血鬼を上回る騒霊の地獄耳にむかついたのか、レミリアはパチュリーを促して咲夜を追って先に行ってしまった。でも私はなんとなくその場へ残る気になった。グリーグの曲は静かで幽かな曲だった。辺りを漂う雪の結晶と花びらまでもが、ルナサの演奏に耳を傾けているようだった。哀しくまた美しい旋律だと思った。人間が春の初めに死ぬとき、その最期に夢想するもっとも美しい春を表しているのかもしれないと思い、いつしか死の音まで聴こえてくるようだった。

結界の前に立つ巨大な柱の上に座って、日傘に隠れて演奏に聴き入る私の様子に、何か思うところがあったのだろう。今度はリリカが鍵盤で同じ曲を伴奏し、メルランが歌った。こちらはルナサの演奏に対してより爽やかで、夏に春の美しさを思い出すような、より健康で幻想的な美しさがあった。妹たちの演奏を聴いてルナサが私にそっと呟いた。

「題の『Letzter Frühling』は、過ぎ去りし春、ではなく、最後の春、という意味なんだけどね、あいつらもわかっているはずなんだけど」

この時、私はこの三人にいたく興味を覚えた。特にその姉妹間の距離についてだ。この三人は性格もバラバラなら、そこから生まれる音楽の方向性もまったく違うようだった。どうしていつも一緒にいられるのだろう。その頃の私は自由に部屋から外に出られるようになったためか、姉であるレミリアに対し急速に不満が心の底から喉元へと高まって来るのを感じ始めていた。昔はあまりに不自由だったために気にならなかったことが、レミリアと私の境遇の差を実感し始めるにつれ、どんどん溜まってきたのだった。私が三人に演奏の礼を言った後、末のリリカにそっと、どうして貴方たちはそんなに仲が良いのか、と訊いてみた。するとリリカは一言こう返した。

「幻想よ」

「どういう意味?」

「仲の良い姉妹なんて、滅多にいないよ。特に歳が近ければね」

私は、ドキッとした。

「また演奏を聴きたかったら、いつでも紅魔館に呼んでね。実はね、ちょっとソロ活動も考えているの」

リリカはそう耳元で囁いてから、姉たちと冥界の方へ去っていった。

ルナサもメルランもリリカの言葉に聞こえていないフリをしていたが、結界の大きな扉の向こうに姉妹の音像が消えそうになった時、ルナサの音像が私の方を振り返り、偽物だというストラディバリウスの四本の開放弦をポロロロンと弾いた。空虚で美しい和音が重なり、その音にリリカが少し俯いた様が聞こえた。冬と春の境界の空に不思議な余韻が残った。私は天空に浮かぶ柱の上で、時間が経つのも忘れて考え込んだ。

 

私は蝙蝠の姿を取り紅魔館へ帰り始めた。ところが吹雪になっておやおやと思っていると、目の前に雪女が現れた。洋服を着た雪女だ。私は興味を持ち人の姿になった。

「こんばんは。あなた、なんだか素敵ね」

「こんばんは。素敵じゃないわ。黒幕よ。おまけに巫女に襲われて酷い目にあった」

「あら、わかるわ。私、フランドール・スカーレットよ」

「私は、レティ・ホワイトロック」

その名前を聞いて、私はピンときた。私は歌ってみた。

「今日はたのしい殺人日」

レティが、あら、と笑って、歌を受けた。

「五月のように爽やかよ」

「村の探偵、総出です」

そして私とレティの声が合わさった。

「みんな出かける、殺人に!」

私は嬉しくなった。

「ホワイトロックに、黒幕をかければ、ブラックロックの出来上がりね」

「そう。それが分かったのはあなたが初めてだわ。あなたもアガサ・クリスティが好きなのね」

 私とレティが合言葉のように交わしたのは、傑作『殺人予告』の中でハーモン夫人ことバンチが歌った替え歌である。レティ・ホワイトロックという名は、『殺人予告』に登場するレティシア・ブラックロックをもじった名前なのだ。私とレティは、アガサ・クリスティのファン同士気が合い、楽しく帰り道を過ごすことが出来た。

 

咲夜は異変を起こした冥界の亡霊、西行寺幽々子とその部下の魂魄妖夢を倒し、無事紅魔館に戻ってきた。咲夜の戦いを見守ったパチュリーは、幻想郷を自分の世界にする魔法を行使したアリスに影響されたのか、冥界の庭を魔力で再現したミニチュアを造った。しかし、世界を作って支配するのは性に合わなかったのだろう。ミニチュア製作はその一回きりだった。冥界に行ったパチュリーの話では、反魂の術で死者を蘇生させることが、異変を起こした幽々子の目的だったという。

私は、咲夜が死んだら反魂の術を使えるのでは、と思った。

しかしパチュリーの観察によると、満開になりかかった妖怪桜、西行妖のために蘇生しかかった西行寺幽々子の生前の姿、富士見の娘には生前の記憶が無いようだったそうだ。それを聞いたレミリアはがっかりして、別の方法を探そう、と言った。

 

その後、八雲紫も起きてきて、新月なのに月が明るい夜が来た。紫が昼と夜の境界をいじったせいだと思ったが、月を巡る異変の予兆はそのころすでに始まっていたのだった。私たちは再び、咲夜が心配で後をついていった。

咲夜と紫は、以前紅魔館で一悶着あった時に出会っているのだが、それが真っ暗な私の部屋の中だったからだろう、お互いに初対面のつもりのようだった。

「地獄だなんて、魔界より怖くない。鬼だなんて、悪魔に比べたらなんて事も無いわ」

この咲夜の言葉で、そういえば咲夜が魔界の村で修行していたという話を思い出した。咲夜はもう大丈夫だろう、と私は思った。しかしレミリアは、それじゃあ咲夜は危ない、やっぱり私が付いていないと、などと言い出した。いつのまにか私たちの横で戦いを観戦していた八雲藍が、私たちに向かって、お前達も過保護な奴だ、と言った。

その横にいた式神の猫、橙(ちぇん)が少し恥ずかしそうにした。

「なぜイザヨイサクヤという名前を与えたんだ?」

藍が訊いてきた。

「適当に名前をつけた」

レミリアが答えた。

「そうか。地上のシンジュクという地でヴァンパイアハンターをしている十六夜某という人物がいるとか、富士の山麓で土蜘蛛退治をした某咲夜という人物の噂とか色々と怪しげな人間たちのことは聞くから、それらの親族か何かなのかと思ってな」

レミリアはちょっと考えてから言った。

「似た名前になったのは、運命のいたずらだ。だからもしかしたら関係あるのかもね」

だが、レミリアがそう言った時は、藍が紫に召喚されて、式神として咲夜の方に飛んで行った後だった。レミリアは、溜息をついて言った。

「咲夜は私の従者だけど、ああいう風にはさせたくないな」

 

その後、レミリアが危ないと言った通り、「鬼」が幻想郷に顕れて、咲夜はその力を思い知ることになる。鬼が始めた異変の最初から犯人がわかっていたレミリアは、咲夜の鈍さに呆れ返り、次の異変が起きた時は咲夜にぴったりついて行くと私と蝙蝠たちに宣言した。

そしてついに永夜異変が始まった。

 

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