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第三章

夜明け2 蝙蝠のクォリア 〜 A Study in Scarlet.

♪月々抄 〜 Oriental Orienting toward Orientation‐Oriented Orient

 

第五星 究極の魔法

 

そこは夏の日の残照が空をほの赤くしている本当の山奥だったという。地上の暦では一九九八年の八月、幻想郷の暦では確か「星と夏と木の年」に紅魔館は、ほぼ温帯に位置する島国日本に到着した。レミリアの語りによれば、ゆったりと宙を飛翔する紅魔館は幻想郷の東にある山の山腹に開けられた大きな穴を通って優雅に現れ、暮れていく山の端を超えて、着地点である湖にまでやってきたという。しかし、驚くべきことにほとんど湖は干上がっていたそうで、私の部屋まで悪臭が漂ってきた。なんでも湖の真ん中に巨大な穴が開いて、水が抜けてしまい、Lake of bloodなどと呼ばれていたそうだ。

ここに至って、ようやく八雲紫という妖怪が紅魔館ごとの引っ越しを勧めてきた理由がわかった。湖に開いた穴の、文字通り穴埋めに紅魔館を使おうというわけだ。私の部屋にはレミリアへの差し入れだという林檎一箱が回ってきた。幽香(ゆうか)という妖怪が異世界で育てた林檎だそうだが、箱を開けて見るとみんな傷んでいた。よく見ると一つの腐った林檎が箱の真ん中にあり、それに触れた周りの林檎がみんな傷んでいるのである。何だこれはと思っていると、空を飛ぶ紅魔館の地下室にいる私の耳に、湖の上空、つまり私の下の方から八雲紫が事態について説明しているのが聞こえてきた。

「これは夢幻世界という異界に通じる穴です。本当は騒ぎを起こした幽香という妖怪が住む夢幻館を穴埋めにするつもりだったんだけど、あの頭が花畑になっている妖怪は面倒くさいと寝てしまったのよ。それであなたたちの紅魔館に、夢幻館の代わりに異界へのゲートを塞いで貰いたいの」

八雲紫はにこやかにそう言った。どうやら、先ほどの林檎は夢幻館から紅魔館への感謝の品だったらしいが、どう見ても嫌がらせでしかない。

そんな紫の説明が終わった後、宙には、大図書館の無期限の使用権と引き換えにお伴をすることになった魔法使い、パチュリー・ノーレッジが進み出てきた。パチュリーの魔法で、湖に開いた穴を塞ぐことができるというのだ。喘息気味の喉の調子を探っていたパチュリーの目がカッと見開く様が聞こえた。

「土水符『ベリーエメラルドメガリスインレイク』!」

空を飛ぶ紅魔館の地下室にいた私に、遥か下方から小気味の良い振動が伝わってきた。エメラルドの巨石をかき集めて島を作りゲートを塞いだようだ。しばらくして、紅魔館はエメラルド製の土台へ静かに着地した。さらにパチュリーは土符を用いて土壌を整備し、木符で樹木を生やした結果、一晩で生い茂る林に紅い館がある小島が誕生した。

八雲紫はパチュリーの魔法をしきりに褒め称えた後、続いてもう一つの役を負ってほしいともちかけた。この幻想郷は博麗大結界という結界が周囲を囲み外界と自由に行き来できないようになっているのだが、その結界を維持する要は東の外れにある博麗神社という社だという。だが、幽香が使い魔を用いて博麗神社を破壊してしまったため、神社を再建するまでの間、紅魔館の大図書館の魔導書を利用して立体結界を張り、博麗大結界の代わりにして欲しいのだという。

パチュリーは、その程度のことなら、と言って結界を張った。紅魔館の図書館が結界を発動させると、夢幻世界からの瘴気が途絶えたためか、湖の水量はすぐに回復し、霧があたりに立ちこめたという。

湖は霧の湖と呼ばれていたそうだが、本来の姿を取り戻したのだった。

もっとも、湖の下の夢幻世界へ通じるゲートの位置が移動しているため、数年は紅魔館も島ごと移動する必要があった。現在では湖畔に落ち着いているが島だったり湖畔だったりするのは元々可動式の島であるからだ。

こうして湖を回復させたことによりレミリアの威光は高まり、湖の周辺に住んでいた蝙蝠や、湖の回復とともに復活した妖精は紅魔館のある小島に遊びに来るようになった。先代当主についていた部下が離れてしまい人手が足りなくなっていた紅魔館は、幻想郷の蝙蝠たちを直属の部下に引き入れ、遊びに来た妖精を積極的にメイドとして雇用した。そこで問題になったのは、メイド長を誰にするかということだった。妖精たちの間で随分揉めていたが、意外なことに人間の十六夜咲夜がメイド長に立候補した。咲夜の言い分は、寝るところがあってご飯が食べられればいい、というもので、レミリアはあっさり咲夜を任命した。その直後は他の妖精たちがずいぶん不満を抱いていたが、これは後に解消される。

そんな中、紅魔館の歓迎パーティが行われることになり、さらに幻想郷に住む騒霊の楽団、プリズムリバー楽団が紅魔館前に観客をどっと連れて降りてきた。紅魔館を会場にしたいと言うのだ。プリズムリバー楽団は冥界でライブを行っていたが、説明もなく突然会場を変えることになったのだという。ちょうど良いとレミリアは快く引き受け、紅魔館の歓迎ライブのような楽しい演奏会になった。

レミリアはパーティの余興として咲夜と他のメイド長候補者だった妖精の間で弾幕戦を行わせることにした。幻想郷の流行りの遊びを見てみたいと言い出したのだ。咲夜と挑戦者が次々と戦い、咲夜はトリウム崩壊系列の数より多い挑戦者を全員のして、今に至るメイド長の地位を不動のものにした。もっともメイド長とは私には雑用係にしか思えないのだが。

 

咲夜の戦いを観終わった後、レミリアはパーティの客の一人、八雲紫に対し、こう切り出した。

「さて紫さん、あんた達の要望は全て叶えた。次はこちらの要望を聞いてもらおう」

「はい。なんでしょうか」

「ただちに月へ行きたい。今すぐ無理というなら、準備が整うまでの間、人間を襲って遊びたいわ」

紫が扇子を開く音が聞こえた。おそらく口元を隠したのだろう。

「あら、それは困りましたわ。今すぐには月へ行けませんし、人間を襲うのもちょっと待って欲しいのだけど」

「じゃあ交渉は決裂だ。あんたをとっちめた後、人間を襲いに里へ繰り出すとしよう」

レミリアがさっと弾を撃ったのが聞こえた。紫はそれを空中に飛び上がって避け、藍がくるくると飛んでレミリアと紫の間に割り込んだ。

「あら、さきほどのメイドの戦いを見て、弾幕ごっこがしたくなったのかしら。ええ、遊んでさしあげますわ。私が見込んだ通り、あなたにはそちらの方面の才能もあるようですから」

レミリアは、紫にグングニルの槍を投げつけた。レミリアの怪力により、音速を超えた槍の穂先から、パアンと鋭い音が発せられた。紫はとっさにスキマに逃げる一方、藍が回転しながらレミリアに襲いかかった。

レミリアが投げたグングニルの槍が紫の位置を正確にトレースして追っていく音が聞こえた。あの神槍は標的を自動追尾し、撃ちこんだあと投げた者の手元に戻るという極めて特徴的な力を有している。紫は、レミリアが本物のグングニルの槍を所有していることに驚いたようだが、ふっと笑った。

「あらあら、完全自動追尾の槍は、弾幕ごっこでは禁じ手にしないといけませんわね」

「だったら、こいつも禁じ手だろう」

紫の式神、藍もレミリアの後をぴったりついてくる。

「それに、弾幕でなく挌闘でもいいんだけどね」

藍を振り切ったレミリアが高速で紫に接近し、その爪で空気を裂く音が聞こえた。紫はスキマに入ったのだろう。瞬時に紅魔館の玄関の前に表れた。

「挌闘なら、私よりももっとあなたを満足させられる者がおりますのよ。鬼というモノがね。いずれご紹介しますわ」

そういって紫は玄関の扉を開け、紅魔館の内部を進みだした。レミリアは勿論その後を追う。

八雲紫は廊下を通り、地下への階段を下って私の部屋の方へ向かってきた。藍も回転しながらレミリアの後を追いかけようとしたが、美鈴がすかさず玄関の扉を閉めて中に入れるのを防いだ。

「レミリアさん、こんなことになるだろうと予想はついておりましたのよ」

隙間に座って飛翔しながら紫が呼びかけた。レミリアが答える。

「私も予想していたよ。戦うと見せかけて、妹の顔を見に行くつもりだったんだろう?」

「あら、見かけによらず敏い子なのね。そう、良い機会ですから、幻想郷がどのような常識で成り立っているのかあなた方姉妹にご覧になっていただきますわ」

♪また、私の部屋で戦おうってのね†

♪紫はお前がレーヴァテインを持っていることを知らないだろう。こっちこそ、私たちの常識を見せつける良い機会になる。それと幻想郷の蝙蝠に訊きたいが、あの八雲紫ってのはどういう妖怪なんだ? †

♪一応、大妖怪とか妖怪の賢者などと表では呼ばれておりますが……†

♪割と困ったちゃんとか†

♪そう、困った妖怪ですね†

♪一度月に攻め込んで敗北してますし†

♪ああなるほどね。フラン、どうやら人望がない人物のようだ。ぼこぼこにしても誰かに怨まれたりはされなさそうだな†

♪ええ、それが分かれば十分ね。月に攻め込んだというなら、月に行く方法があるのは本当のようだし†

「ここで行き止まりかしら? もしもし?」

ドアの外から薄気味の悪い女の声がして、ドアがノックされた。

「どうぞ。鍵はかかってないわ」

私が答えると、暗黒の部屋のドアが開き、円形の大きな物体が私の聴覚空間の前方を覆い尽くした。巨大な傘が回転して襲ってきたのだ。だが、扉の向こうで相手が何を準備していたのか、音で聴いて認識していた私は、瞬間に傘の目を掌に移し、握りつぶして破壊した。傘の残骸が弾け飛んで、私の聴覚空間の中に妖怪の姿が露わになった。

私は慇懃無礼であることを強調してお辞儀をした。

「初めまして。フランドール・スカーレットといいます。妖怪の賢者と呼ばれる八雲紫さんね」

「初めまして〜。あらあら、とんでもない能力を持った子ね。それも弾幕ごっこのルールでは禁止しないと〜」

妖怪の賢者と呼ばれて、少し気をよくしたのか、紫は満面の笑みを浮かべた。だが、その笑顔のまま、紫は背中に隠し持っていた金属の柱を取り出して私に向かってきた。私は反撃も忘れて、そのあまりの胡散臭い性格に思わず苦笑いをした。その時廊下からグングニルの槍が飛び込んで来た。紫は咄嗟に柱で槍を弾こうとしたが、神槍が触れた途端に柱はひしゃげて吹き飛んだ。

「やっぱり道路標識じゃ事故を防げないわね」

紫はそう漏らした。槍はくるりと回転すると逆方向に飛び、部屋の入口に入ってきたレミリアの右手にタイミング良く収まった。レミリアが左手を後ろに向けて人差し指でちょいちょいと指図をすると、背後の蝙蝠の群れがドアノブを引っ張ってドアを閉めた。レミリアが足を使って閉めるんじゃないかと思ってひやひやしたが、八雲紫の前で行儀の悪いところを見せなくて、私はほっとした。レミリアは槍を玩びながら余裕たっぷりに言った。

「なるほど『割と困ったちゃん』の通り名は伊達じゃないようだね」

「妹さんと違って、あなたはずいぶん失礼ね」

「さあて、失礼なのはどちらだか。この幻想郷ほど月に近い場所はないんだろう? どうして今すぐ月に攻め込めないのかな」

「それは物事には順序というものがあるからよ。あなたたちはまだこの幻想郷に本当の意味で受け入れられていない。そのためには、まずここに住んでいる巫女と戦って貰わないと」

その紫の言葉を聞いて、レミリアがクスリと笑った。

「なんだ、紫さん、話のわからない奴だと思っていたが、意外と物分りがいいんじゃないか」

先ほどレミリアが言っていた、里に人間を襲いに行く、という話で最終的にターゲットにしたかったのは、もちろんパパとママを倒したという巫女だった。

「紫、でいいわよ。そう、あなたたちの御両親はここの巫女に敗れた。だからあなたたちは巫女と戦いたいのだろうと思ってましたの。しばらくお待ちいただければ、その機会を設けますわ」

「しばらく、とは?」

「現在、私たち幻想郷の妖怪は、人間と妖怪が対等に戦うことが出来るルールを制定中です。弾幕ごっこを取り入れた知的な遊びとしてね」

「なるほど、それが決まったら、それに則って戦え、と」

「ええ」

「まさか、それまでは、人間を襲えないとでも?」

「ええ」

レミリアがグングニルの槍を構えた。

「そんな話は飲めないな。予定通り、あんたを叩きのめしたあと、里に向かうとするよ」

紫は、溜息をついて、空間に隙間を作り部屋から出ようとした。

「困りましたわね。では私は一足先に里へ向かって、あなたを迎撃する準備でもしますわ…… ってあら?」

隙間が開かないのだ。私は、してやったりの気分になって言った。

「紫、あんたは幻想郷の賢者かもしれないけど、この部屋は幻想郷じゃないのよ」

紫は凍りついた表情で私の方を向いた。

「どういうことかしら?」

紫の背後からレミリアが答えた。

「ここはね、日本の一部でもないし、館の一部でもない、地球の一部ですらない、ただ『フランドールの部屋』なのさ。それに以前スルトという神が部屋にワープしてきたことがあってね、その後、パパにいかなる存在もワープできないよう結界を強化してもらったんだよ。だから、あんたはドアを使わない限りこの部屋からは出られないのさ」

「あらぁ〜」

紫は扇子を構えてぞっとするような笑みを見せた。どういう精神構造なのだろうか。

「フラン、その得物でこの賢者さんを一刀両断して差し上げろ」

「いいの?」

「斬られたぐらいじゃ死なないだろう?」

私が、持っていた黒い杖に魔力を込めると劫火が吹き出した。一列に連なる炎に照らされた紫の顔は、青を通り越して紫色になっていた。

「それはヒノカグツチ……いやレーヴァテイン、それも本物か」

そう言いながら、しかしその唇の笑みはむしろますます大きくなった。私は、紫の胴目掛けて、左から右へ水平に薙いだ。

だが、手ごたえがなかった。

「あれ?」

「おや?」

レーヴァテインの炎を収めた後、私とレミリアが床からの反射音を聞くと、紫がどうやらとっさに床に伏して杖を避けたらしく、亀のように固まって動かなくなっている。ややあって、紫が伏したままこういった。

「お二方には大変な失礼をしました。気分を害されたこと、幻想郷を代表して平に謝罪いたします。お聞きください、幻想郷に住む人間はあまりにもか弱く、あまりにも儚い存在なのでございます。なにとぞ、幻想郷の人間に手を出すのは勘弁願えないだろうか」

♪願えないだろうかって、ねえレミィ、これ日本語の敬語の使い方としてどうなんだろう†

♪非常に厚かましい使い方なんだろうな。しかし、さてどうしたものかな†

私とレミリアは紫の態度の豹変っぷりに二の句が継げなかった。

「この紅魔館には、私が責任を持って食糧を届けますし、思う存分暴れられるような機会も用意致します故、なにとぞ、なにとぞ食べたり仲間を増やしたりするために幻想郷の人間を襲わないと約束していただきたいのです」

紫は床にへばりついて妙なことを言いだした。吸血鬼が人間を襲わなくてどうすると言うのだろうか。私は紫にこう言い放った。

「ねえ紫、レミィはともかく私はこの部屋から出られないから、人間を襲えるか襲えないかはどうでもいいんだけどね、あんたの態度は気に入らないなあ。どうせなら、弾幕ごっこでもして遊びましょうよ」

そして私は、幽香からの差し入れだという腐った林檎が入った箱から甘い香りがする林檎を取り出して紫に投げつけた。

「例えば、そうね、アダムの林檎攻撃……いや、必殺! フォービドゥンフルーツ! ……なんてさ」

部屋中に林檎が隙間なく飛んで行き、箱の真ん中にあったもっとも腐った林檎が紫の顔面に命中した。

「そのような隙間のない弾幕も、禁じ手にしないといけないわね……」

紫は涼しい顔で言った。私は、白けてしまって、壁に当たって戻ってきた林檎を魔力で元の箱に戻した。

「なによ、つまらない奴」

「フランドールさんにもいずれ面白い人物をご紹介いたしますわ。とにかく、お二人が、食べるためや仲間を増やすために幻想郷の人間を襲わないと約束してくださるまで、私はここを一歩も動きませんよ。十年でも百年でも!」

八雲紫が、腐った林檎の物凄い悪臭を放ちながら凄んだ。

♪日本語の意味によれば、割と、どころじゃないな。すこぶる困ったちゃんだ†

♪どうするのレミィ、こんな奴に居座られたらたまったもんじゃないわ。私は食べ物がちゃんと届くなら、今までと変わりがないんだし別にいいわよ†

♪うーんそうだなあ†

何度もこの時のことを思い出す。最適解は、私の能力で紫を破壊することだったのだろうか。

その選択肢はずっと念頭にあった。もちろんレミリアにも紫にも。だが、私はなぜだか紫を破壊しなかった。その時は、不思議なことにパパとママの死体から反射される音像がフラッシュのように思い出され、私は頭に痛みを感じて、顔をしかめた。私のそんな様子を知ってか知らずか、レミリアがぶっきらぼうな口調で紫に言った。

「私もフランも、さん付で呼ばなくてもいいよ。で、さっき言った、食糧を責任持って届けるという約束は必ず守ってもらえるんだろうね? もしそれが破られたのなら、私たちは飢えてしまうんだから、こちらも人間を襲って食べるよ」

「はい、約束は必ず守ります。ですからなにとぞ」

「やれやれ、仕方がないな。味の良い血じゃないと承知しないからね」

「約束してくださるのですね」

「ああ約束するよ。だが、それとは別に、私たちをここまで不愉快にしたあんたをどうしてやろうかな」

レミリアが約束すると言うと、紫は林檎塗れの顔を軽やかに上げてにっこり笑った。

「私が今しているこの礼は、『土下座』といいまして、これをされた相手は、何があっても非礼を許さなければならないのです」

「なんだいそりゃ? ドゲザ?」

「郷に入っては郷に従えと言いますわ。お二人にも幻想郷の常識に慣れていただかないと」

紫が、吸血鬼も思わずのけぞるような薄気味の悪い微笑みを浮かべて起き上がろうとしたときだった。

「いただかないと、どうなるのかしら?」

突然、部屋の中央に声がして、起き上がるかに見えた紫の額がしたたかに床へ打ちつけられた。  

この日よりメイド長に就任した十六夜咲夜が、突然暗黒空間から紫の頭の上に飛び降りたのである。

「……いただかないと、月には行けません。それとレミリア・スカーレット、襲ってはいけない人間に、この従者さんも含まれますから、お気を付けください」

「あ!」

レミリアが呻(うめ)いた。レミリアと私は、そこで初めて、さきほどの約束がまずい内容であることを理解した。

「あらお嬢様、そのようなことをお考えだったんですか。残念ですが私は吸血鬼になるつもりはございません」

「良い心がけですわ」

紫は、咲夜を頭に乗っけたまますっくと立つと、紫の顔から滴り落ちる腐った林檎の悪臭に思わず飛び退いた咲夜をじっと見て、正しく妖怪的なおぞましい表情でクスリと笑い、部屋を出て行った。その背中にレミリアが声をかけた。

「月にはいつ行けるんだ」

紫は背中で答えた。

「数年以内に必ず」

紫は紅魔館の玄関で待っていた藍の尻尾でごしごしと顔を拭くと、パーティ会場の方へ手を振って、そのまま帰って行った。

 

数日中に、私とレミリアが紫と戦ったという話は幻想郷中に広まった。だが、その内容は事実とまったく異なるものだった。それはなんと、妖怪の賢者が吸血鬼を叩きのめして、二度と人間を襲わないと約束させた、というストーリーだった。紫を土下座させて圧勝したのは私たち姉妹の方であったのに、紫の大勝利にされていたのだ。それだけでなく、この異変のそもそもの始まりは、吸血鬼がその馬鹿力を持って拳で湖の底に穴を開け、湖を干上がらせたのが発端だという話になっていた。紫は、湖の底に穴を開けた吸血鬼を退治し、吸血鬼の住む紅魔館をその穴埋めに使うことで償わせた、というのである。

もちろん、湖の件は濡れ衣だ。だが、私たち紅魔館は、真犯人の名前を聞いて黙った。

湖の底に拳で穴を開けた凶悪な吸血鬼の名前は「くるみ」、ママの名前だった。

ママは、パパ・エリスの敵(かたき)を取りに地上に行ったと言っていた。それが夢幻館を巻き込んだ騒動になっていたのだった。幻想郷ではママ・くるみと私たちは同一視され、この騒動全体がひっくるめて吸血鬼異変と呼ばれるようになった。だが、私たちは濡れ衣に対しても、紫の理不尽な勝利の宣伝にも一切抗議をしなかった。パパとママが殺害されたことを思い出したくなかったからだ。

しかし、紫は約束を守った。良質な血液が紅魔館に定期的に送られて来ただけでなく、強大な吸血鬼が人間と戦えるようにスペルカードルールの制定準備が着々と進んだ。だが、一人の妖怪がスペルカードルールに猛反発した。夢幻館から幻想郷に越してきた幽香である。ルール上、妖怪を倒す役は人間に回されているため、せっかく幻想郷にやってきたのに妖怪側が相手を叩きのめす機会が失われるというのである。そこで、スペルカードルール制定の前に妖怪も参加できる異変をやっておこうという話になり、魔界への侵攻作戦が敢行された。仕掛け人はレミリアだった。魔界で私たちがサリエルから聞かされていた魔界による地上侵攻作戦、地上ではミシェル・ノストラダムスが予言していたとされるその計画を叩くのである。その頃は、明確な予兆として、大量の魔界の者が地上に視察ツアーに訪れており、いずれ幻想郷を含め地上は魔界の者で溢れてしまうだろうと、力のある妖怪は思ったのである。

もっとも、これは後で魔界から遊びに来た者に聞いてわかったのだが、実は、紅魔館を幻想郷に移動させるために開けた神社の裏山の巨大な穴が、単に魔界住人の好奇心を刺激しただけにすぎなかったのだ。とにかく、レミリアとしては自分の異変に順番が回ってくる前に幻想郷の連中を煽ってその実力を量っておきたかったのだろう。

こうして、パパとママを倒した博麗神社の巫女、博麗靈夢(はくれいれいむ)を筆頭に、悪霊の魅魔(みま)、魅魔の弟子で霊夢の友人の霧雨魔理沙(きりさめまりさ)、夢幻館から幻想郷にやって来た幽香の四人が魔界に攻め込んだ。そして神綺らの地上侵攻作戦を止めたかに思えた。

博麗神社裏の山腹に開いた魔界へ通じる穴は、しっかり閉じるまで紅魔館の地下につけかえられた。神綺の力が及ばない魔界住人は数多く、地上に遊びに来る悪魔は後を絶たなかったのだ。そこで紅魔館地下にある私の部屋にもう一つドアを作り、そこに魔界へのゲートをつなげようとした。しかし、これは危険な行為で、幻想郷の住民にも魔界の住民にも出来なかった。

やりとげたのは、幽香の夢幻館騒動のとばっちりを受けて幻想郷と縁が出来たメイド悪魔の夢月(むげつ)である。青い服に白いエプロンをしたメイドは、まるで家事をするかのような雰囲気で、正六面体のような形の私の部屋にやってきた。部屋の一辺の中央に紅魔館へ通じるドアが開いているのだが、夢月はその丁度向かい側に魔界へ通じるドアをとり付けたのだった。メイド悪魔には日曜大工の魔法も使えるのだろう。

夢月は通路付け替えの魔法をかけつつ、メイド長に就任した咲夜に、メイドのなんたるかを主にその服装面から指導し、館のメイド妖精たちにことごとくメイド服を着せて、よし、と言うと、どこかへ去って行った。

こうして、魔界から幻想郷ツアーに来た魔物たちは私の部屋に飛び出て来た。私はそこで撃退したり、お茶を一緒に飲んだり、お酒を飲んだりして楽しく過ごすことができた。ママが湖の底に穴を開けたことについて、神綺の命令でママのお目付け役になっていた赤毛の妖怪、オレンジから詳しい事情を聴き出したり、黒と白の不思議なペア少女、ユキとマイから、魔界に来た謎の飛行物体の話を聞いたりした。時空を超えて突然出現した、月喰という名の飛行物体と戦ったのだという。私たちが外の世界と出入りする度にあちらこちらの結界に影響が出ているようだった。

魔界から来た人々は私の部屋を越えられず、みな魔界に帰って行った。

このような異世界と幻想郷住民とのやり取りは色々と歪曲しながら人里に伝わり、紙芝居や人形劇になるのが常だった。そして多くの場合音楽が付随した。さきほどの幽香や魅魔は言うに及ばず、パパのエリスや、ママのくるみにもテーマ曲が作られたのである。

パパが「魔鏡」で、ママが「紅響曲」だ。

二つを合わせると、紅魔響となり、今思えば運命の暗示になっていたことがわかる。

こうして、この魔界住人来郷異変ともいうべき、魔界と幻想郷とのやり取りはのんびり平和的に進んだが、最後にまったく予想もしない結末を迎えた。

 

それは、一九九九年七月だった。当時、前述の人形劇のためのさまざまな人物のテーマ曲を書き、何の楽器かわからないが幻想的な音色の楽器を使って一人で演奏するという、一風変わった楽団があった。そんな人気を博していた幻想郷の音楽サークル、幺樂団(ようがくだん)が活動を停止することになり、その最後のライブが人里の近くで行われたのだ。事件はその最中に起きた。そのライブには幻想郷の多くの人間と妖怪が集まっており、さきに魔界へ攻め込んだ靈夢ら四人もいた。レミリアら客席で聴いていた人々の話によると、事件が起こったのはプログラムも終盤に差し掛かり、痩せた演奏者が、機械をいじりながら曲名を叫んだ時だという。

「不思議の国のアリス!」

その叫びと同時に、ライブステージの上空に悪魔が出現したのだという。それは、人形を操る魔法使い、あのアリスだった。静かな曲想で始まったメロディラインに聴衆が耳を傾けている中、アリスはその場にいる全員にはっきりと宣言した。

 

「今日で幺樂団の歴史はおしまい。これからは私と私の操る人形たちの樂団、『上海アリス幻樂団』がこの『究極の魔法』でお前たちの全てを支配する!」

 

レミリアが語るところでは、その言葉に呪文のような凶悪な魔力を感じたと言う。アリスが本気で地上を侵略しに来たのは明らかだったが、何も知らないほとんどの聴衆には、まるで幺樂団の演奏者が悪魔召喚プログラムでも使ってアリスを呼び出したかのように見えただろうということだ。そのため観客は全てを演出だと思い、出現したアリスに喝采を送ったという。一方、すでにアリスと戦った経験を持つ靈夢、魅魔、魔理沙、幽香の四人は、アリスの意図を察知してすぐに会場を飛び立ちアリスに立ち向かっていったそうだ。

上空でアリスの人形と人妖が戦い始めると会場の興奮が異様に盛り上がり始め、アリスが配置したトランプの人形たちが倒され、いよいよアリスが魔導書を開き戦おうとしたときには会場は興奮の坩堝となったらしい。

the Grimoire of Alice!」

幺樂団の男が、また曲名を叫んだそうだ。

演奏者には眼前で展開される異常事態が目に映っていないかのようだったという。曲調ががらりと変わり、激しいビートの音楽が会場に炸裂すると、それに合わせるかのようにアリスが魔法を詠唱した。赤や青、紫に緑といった弾幕の色彩が洪水のように溢れ、レミリアはその強大な魔法に戦慄を感じたのだという。

 

だが。

 

壮大な支配宣言や究極の魔法という文句と裏腹に、アリスはけちょんけちょんに叩きのめされたのだった。

四人はアリスをさんざんに破った。靈夢が天性の勘でアリスの弾幕を避け切ると、それを見ていた魔理沙も面白いようにアリスを打ちのめしたという。

いくら強大な魔法でも、目の前で予習することが出来るのなら避けることはたやすい。靈夢と魔理沙の戦いをじっくり観察していた幽香と魅魔に至っては、泣きべそをかいているアリスに容赦なく弾を浴びせ、悲惨すぎて見ていられないぐらいの完膚なきまでの圧勝を収めたという。のちに美鈴が、予想外の展開にただただ口をあんぐりと開けて見ていたレミリアやパチュリーの表情が忘れられないとこっそり教えてくれた。

ライブは大盛況のうちに終わり、三十分以上もスタンディングオベーションが続いた。帰ってきたレミリアは靈夢がアリスの緑の魔法で使われた誘導弾を初見で避け切ったことが驚異だと評した。一方パチュリーは、アリスの「究極の魔法」についてほとんど何も語らなかった。ただ一言、確かにあれは究極だ、と言った。その後のアリスは、魅魔の召使をやらされたり、幽香に付きまとわれたりと酷い目に合い続けた。アリスの真意に人々が気付き始めたのは、アリスがやっと解放されて魔界へ逃げ帰ろうとしていた頃のことだった。

 

究極の魔法は確かに発動していた。幻想郷全体の時間の進み方があやふやになり、特に、それを直接喰らった靈夢、魅魔、魔理沙、幽香の時間が止まってしまい力を失ってしまったのだった。博麗の巫女が力を失ったため、幻想郷の力ある妖怪達は狼狽した。もちろんスペルカードルールを使った異変は当分見送りになった。魔界に帰るつもりのアリスは当然紅魔館の私の部屋にやってきた。私の部屋には、魅魔、幽香、紫、レミリアが部屋の四隅に立ち、私が中央でアリスを待ち受けた。私は事情を聞かされたあと、レミリアとアリスの間で始まった口論を黙って聞いていた。レミリアが激昂して喰ってかかると、アリスはこともなげに言い放った。

「あなたたちは本当に何も知らないのね。本来、ノストラダムスの大予言通りに世界を破滅させる役割はあなたたち姉妹が行うはずだったのよ。それがスカーレット家の新当主になったとたん魔界から失踪して裏切ったというのでね、魔界の要望で私があなた達を外の世界へ連れ出して地上を破壊させる計画だったの。でもそんなことをしても私たち三人は捨て駒だわ。要済みになった後で仲良く始末されてしまうだけ。あなたたちももう神々の思う壺に嵌るのは嫌でしょうし、私は世界の破滅よりも自分の世界を創ることに興味があるの。だから、この幻想郷を私のものにしに来たのよ。ふふふ、幻想郷の連中に魔界侵略を煽ったのはあなたでしょう? もう紅魔館は魔界に帰れない。この状況を受け入れるしかないわ」

「しかし、究極の魔法とやらで巫女は力を失うし、私たちも暴れることが出来なくなった。月にも行けそうにないし、どうしてくれるんだよ」

「あら、その点は心配ないわ。きっと靈夢と魔理沙は力を戻す。魅魔と幽香を犠牲にしてね。そして、あなたたちに好(よ)い目が回ってくるわよ。それも素晴らしく好い目が。まあ私の魔法がどういう意味で究極なのか、楽しみにしていて欲しいわ」

そういってアリスは冷たい微笑をふりまいた。

「これはね、ブカレスト(ブクレシュティ)およびルーマニア(ロムニア)を解放してくれた、あなたたちへのお礼でもあるのよ」

私はアリスに疑問をぶつけた。

「幻想郷を自分の物にしにきたのに、どうして出て行ってしまうの?」

「色々と用を済ませるところがあるのよ。あなたたちが異変を起こせるようになったら私の幻樂団も帰ってくるわ」

「ロッポンギかい?」

レミリアが訊いた。アリスが、おや、という表情をした。

「物覚えが良いわね。でも残念、もう少し郊外よ。用があるのは木じゃなくて海老ね。せっかく奪ったハクレイのミコの力、ちょっと試してみたくてね」

アリスはそこで初めて邪悪な微笑みを作ってみせると、魔界へ通じるドアに向かおうとした。真っ暗な部屋の中で五人の者の距離が徐々に縮まった。アリスは上海人形と呼んでいる人形を出して、背中を守らせた。私はそれを認識した時、新しい疑問が湧いてきた。

「アリス、上海アリス幻樂団に自分の名前をつけるのはわかるけど、なぜ『上海』をつけたの?」

「ああそれはね、上海租界のイメージよ。幻想郷も似たようなものでしょう? さまざまな場所の寄せ集めからなる国際色豊かな妖怪の居住区で……」

「あんた、上海に行ったことあるのかい?」

魅魔が訊いた。アリスに向かって右斜め後ろにいて、月牙鏟(げつがさん)を担いでいる。

「いいえ、ないわ。だからイメージよ、イメージ」

「お前は上海の租界に住んでいる子供かなにかかと思ったが」

「むしろ、私の名は、おとぎ話のイメージがふさわしいわ」

「そんな詐欺のような名前のいかがわしい団体に幻想郷をやるわけにはいかないな」

魅魔が鏟(さん)を振るうと上海人形が受け止めた。

「なあアリス、わざわざ上海を頭に付けたんだ、本当は上海人形がお前の本体で、アリスの方こそ上海人形が操っている人形なんじゃないか?」

魔界へのドアの前に立つ私に向かって歩いていたアリスは、魅魔のその言葉で立ち止まった。

「魅魔、あなたのそういう捻くれた解釈、嫌いじゃないわよ。ほんと、これから消えてしまうのが惜しいわね」

私はその時、両手にアリスと上海人形を破壊するための目を作り出していた。

「レミィ、準備は出来てるわよ。どちらでも」

「じゃあまず上海人形からだ」

「魅魔、私がその説を検証するわ」

私はそう言って、両手に作ったアリスと上海人形を破壊するためのそれぞれの目のうち、上海人形の目を握りつぶそうとした。以前紫に対し躊躇があったのとは違い、すんなりと潰せそうだった。おそらく上海人形は本当にただの人形だと認識していたからだろう。だが、アリスはそれを予測していたかのように、呪文を唱えた。

「アーティクルサクリファイス」

上海人形が爆発し、たちまち、アリスの背後に天井にまで達する火球が出現した。魅魔は、炎に包まれながらたじろぎもせずに訝しげな顔でアリスを見ていた。

「人間と妖怪の境界」

紫がアリスの周りを光の檻で覆った。アリスの足が止まる。その時私とレミリアは二人の人物がこの部屋に向かっていることを察知した。一人は紅魔館の廊下を通り私の部屋のドアの前に、もう一人は魔界のゲートを通り背後のドアの向こうにいる。今でも恐るべきことだが、紅魔館の廊下を通ってきた人物は、一切美鈴や咲夜、パチュリーらに加えて蝙蝠たちの警戒網すら潜り抜けて、突然廊下に現れたのだ。私の背後に降り立ち、魔界へのドアの方を向いてレミリアが叫んだ。

「魔界のドアの向こうに一人いるよ! それにうちの廊下の方にもね」

「一人? 魔界のドアの向こうには、二人じゃなくて?」

紫が訊いた。神綺と夢子ではない、ということか。そこへ幽香が、そんなことはどうでもいいと言わんばかりの巨大なレーザーをアリスに向けて照射した。アリスは人形の群れを照射された側に敷き詰めて防いだ。人形が次々と燃え上がり異臭を放った。

「フランドール、やってくれ」

魅魔が言った。アリスの瞳がこちらを向き、私と視線が合った。幼い風貌に似あわない、冷たい目だった。私は、上海人形と同じように、このアリスへの破壊もためらわずに実行出来るという自分の気分を理解し、そして事実に気が付いた。

「このアリスも人形よ」

私がそう言うと、応じるかのように今まで生気を持っていたアリスの人の形が関節の支えを全て失って床に崩れ落ちた。レーザーの残照のなか、人形の頭部が床に当たって二度、三度と跳ねた。

「どうなってるの?」

幽香がレーザーを止め人形を確かめようとした時、私の真後ろの魔界に通じるドアと、私の正面の紅魔館へ通じるドアの両方が同時にノックされ、部屋の中にいる者が誰も返事をしないうちに同時に開いた。私たち五人はまったく動く事が出来なかった。

紅魔館に通じる方のドアから聞いたことのない声がした。

「トランプの人形に取っておきを用意するならジョーカー、誰でもそう思うでしょう? でもジョーカーが強すぎるゲームはつまらない。だから私のジョーカーは弱いのよ。本気の本気を出して必死に戦うより、余裕を持って負けた方が楽しいし、何より作劇をコントロールできるわ」

人形のアリスを一回り大きくした金髪の女性だ。

魔界に通じる方のドアから聞いたことのある声がした。

「あなたの模したトランプは任天堂製でしょう? だからジョーカーも二枚あると?」

こういって微笑んだ者は、堕天使だった。

男なのか女なのかよくわからない長身の者で、全身が青白く光り巨大な羽根を広げていた。忘れもしないその姿は堕天使のサリエルである。ひと睨みであらゆる生物を死に至らしめる邪眼は閉じられていた。

金髪の女性が魅魔と対峙しながら言った。

「皆さん、初めまして。アリス・マーガトロイドといいます。魅魔、あなたの推理は本当に惜しかったわね。それからサリエル、ジョーカーはもちろん二枚じゃないわよ」

「どうせこんなことだろうと思ったよ。サリエルが黒幕か」

魅魔はそう言ってため息をついた。サリエルも礼をした。

「魅魔、あなたは確か魔界に侵入しようとして行きずりの巫女に倒され、ここの神社の悪霊になったんでしたね。念願の魔界行はいかがでしたか?」

「アリスの背後に一神教の連中がいたのは見抜けなかった。私の不覚だな」

「いえ、結果的にミシェル・ノストラダムスの大予言を見事に外し、魔王ルシファーの降臨をなくしてしまったのは、アリスの独断によるものです。まったく、趣味でしか動かない人なのでね」

私がアリスに言った。

「じゃあ、ルーマニアに私たちを飛ばしたのも、サリエルとの結託があったから?」

アリスは、数体の人形を出して、アリス・人形や上海人形の残骸を拾わせていた。よく見ると、残骸を拾っているのは幽香や紫そっくりの人形だ。

「さあ、むしろこう言えるんじゃないの? 全てはそこのレミリアが望んだ運命だったと。それより見てよ、こんなのも作ったのよ」

二体の羽根を生やした人形が空を飛んだ。私とレミリアの人形だった。あっけにとられている私たちの間を通ってアリス・マーガトロイドは悠然と進んだ。誰もアリスに攻撃しようとしなかった。自分たちそっくりの人形と戦うのは危険だ。魅魔が言った。

「あの幺樂団のライブの時、このアリスは生身だった。それは確かだ。いつ入れ替わった?」

アリス・マーガトロイドが手をそっと繰ると、四肢を投げ出していたアリス・人形がしゃきっと立ち上がり、余裕たっぷりに喋りだした。

「あなたたちは一つ見落としていることがあるわ。『究極の魔法』が作用したのはあなたたちだけではない。私自身にも作用したの。だから、その時。そう、それと魅魔、あなたの人形はたぶん作る予定はないわ」

アリス・人形が演技たっぷりに意地悪く付け加えると、アリス・マーガトロイドとアリス・人形は魔界へのドアを潜っていこうとした。その背中に向けて紫が言った。

「アリス、お前の『究極の魔法』は確かに強力だけど、お前が博麗の巫女に倒されたのは変えられない事実よ。幻想郷から逃げられなくなったのはお前の方。『上海アリス幻樂団』と言ったわね、未来永劫、幻想郷の贄になるがいいわ」

アリス・人形が首だけぐるんと後ろに向けて答えた。

「もちろん逃げるつもりなんかないわ。じきに戻るわよ。でもね、理想との戦いにくたびれたこんな二十世紀はもうたくさん」

アリス・マーガトロイドが背中を向けたまま言葉を接いだ。

「夢と幻想の二十一世紀で会いましょう。私はその時、二十世紀を延長させに戻ってくるわ」

サリエルと上海アリス幻樂団の一団はドアの向こうの魔界に消えた。

 

暗闇に残った五人は怒りのあまりしばらく無言だったが、しようがないので今後の協議を始めた。

「話の内容は理解したわ。私は『究極の魔法』にやられっぱなしでは我慢できない。あいつを追って魔法を解明して来るわ」

幽香はそういった。どうせ他の者がこの女を止めることなどできないので、幽香はアリスを追って魔界へ行くことになった。

「私は、靈夢と魔理沙に掛けられた魔法を解くことに集中する」

魅魔はそう断言した。紫が、それは助かると言ったあとに加えて言った。

「弟子思い、人間思いの悪霊ね。ついでに頼まれて欲しいのだけど、靈夢に空を飛ぶ修行をつけてやって欲しいの。私は博麗大結界の維持で余裕がなくなると思うから」

「残酷だな。また巫女に空を飛ばせて早死にさせる気か」

「博麗の力を奪うつもりだった貴方には言われたくないわね」

「奪われた力といえば、アリスが持っていったあの技はどうする」

「魅魔、あなた本当は、とっくに博麗の力をコピーしていたんでしょう? 『夢想封印』を」

魅魔は帽子の中に手を入れて髪をぽりぽりと掻いた。

「わかった。靈夢と魔理沙には私がちゃんと修行をつけてやる。だが間に合わないかもしれないぞ」

「一応、里に新しい巫女の候補者がいるわ。冴月という子だけどね。でも、あまり人里から人身御供は出したくないわね」

「私は何をすればいい」

レミリアが訊いた。紫は、ちょっと言いづらそうに言葉を選びながら慎重に言った。

「ええ、貴方は…… 自然に振る舞って貰えばいいわ。貴方たち紅魔館の方がいつも通り適当に行動してくれれば、それで幻想郷はうまくいくはずよ」

「なんだそりゃ?」

私はぷっと吹き出した。紫は、レミリアのことをよく理解していると思った。

 

こうして、幽香は魔界に向かい、魅魔は靈夢と魔理沙に掛けられた魔法を解きつつ二人に修行をつけ、紫は結界の管理に回った。また里に住むワーハクタクなどの者が巫女の代わりに妖怪を監視するようなことをしなければならなくなった。それだけでなく、アリスが大量にばらまいた人形が幻想郷のあちこちに飛散しており、その回収にも大変な労力がかかった。放っておくと妖怪化してしまう危険があったからだ。そうしたもろもろのことが瞬く間に過ぎ去っていった。

 

 

 

…………………………

 

 

 

五年の歳月が過ぎた。

その夏、ついにスペルカードルールによる初の異変開催が決まった。博麗の巫女が力を取り戻したのだ。異変開催を前に、私の部屋で再び五人が集まって晩餐が行われた。私とレミリア、八雲紫、風見幽香、魅魔の五人だ。幻想郷に迷い込んで頓死したという若い男七人分の人肉が盛大に振る舞われた。正直村という集落出身の盗賊の一味らしいが、なぜか幻想郷の廃洋館でお互い殺し合ったのだという。その若い肉に舌鼓を打ち、和やかなムードで話が弾んでいるところで、頃合いを見計らった魅魔が、この五年間の出来事を大まかにまとめた。

 

魅魔の話によればこの五年間はこんな感じに進んだと言う。

幽香がアリスに執拗なストーキングを続け、究極の魔法の情報を幻想郷にもたらした。

靈夢は霊夢と名を変えて霊力を大幅に減らした。掛けられた魔法を緩和するには名前を変えるのが一番効果的だと判明したからだ。

幽香も風見(かざみ)の姓をつけ、魔力を減らした。

魔理沙は、もともと魅魔が「魔」の字を名前に与えていたので、そこまで力は落ちなかった。

しかし魔法を解こうとしたことへの代償は大きく、靈夢改め霊夢と魔理沙の二人はその記憶の多くを失った。しかも完全に魔法が解けたわけではなかった。二人の周囲は時間が循環するようになった。それはさまざまな現象を生み出したが、顕著なのは二人が齢を重ねなくなり、また二人の周囲で時間が経たなくなったということだ。歳を取らない二人に、五年間、魅魔が修行をつけ、魅魔が魔力を失い始めると幽香も修行をつける師匠役に加わった。そして、荒っぽい幽香の修行に怒った魅魔が幽香と喧嘩になり、霊夢と魔理沙がそれを観察するのがお決まりの流れになっていた。兎にも角にも、修行の成果もあって霊夢は空が飛べるようになり、魔理沙はミニ八卦炉を入手して強力な魔法を撃てるようになった。魔理沙は里の霧雨家へ帰すことが何度も話し合われたが、魔理沙は頑として拒否した。それこそしがみ付いてでも、修行をしたのだという。

「だいたい、こんなところかな」

そう言った魅魔は幽かに満足そうな表情をしたように思った。魅魔はその存在がほとんど消えていたのだ。

幽香が補足した。

「付け加えるとね、あの二人は酒の味を覚えたわよ。霊夢なんか自分で醸造を始めてね、まあ巫女の仕事に含まれるからいいんだけど、あれは将来呑んべえになるわよ」

「永遠の巫女が永遠の呑んべえに」

そういってレミリアがクスッと笑った。幽香が続けた。

「そうそう。それと魔理沙ちゃんだけど、盗癖がついたわ。あれも将来が心配だなあと」

「人間の少女には、思春期にそういう行動が表れる者もいる。魔理沙については特に心配していない」

魅魔が済ましてそう言った。

「嘘ばっかり」

そう言って、幽香がテーブルの中央に運ばれてきた白子の唐揚げの山に手を伸ばすと、一つ抓んで口に放り込んだ。私も酢橘(すだち)をかけて食べてみた。椿油で揚げた衣をサクッと歯で割ると、ねっとりとした白子が柔らかく口腔を満たした。美味い。

「あんた、肝腎なことを言ってないじゃない。修行の仕上げはどうなったのよ」

もぐもぐと口を動かしながら幽香が言った。

「それは今から話そうとしていたところだ」

魅魔は人間の血を月の光で割った不思議な飲み物を口に含んだあと、再び話し始めた。

「仕上げとして、ついひと月ほど前、他の世界からやって来たサボテンのエネルギーで闘うロボットに霊夢と魔理沙をぶつけてみたが、ちゃんと空を飛べているようだ。弾幕も撃てる」

それはVIVITという未来世界からやってきた少々抜けた感じの少女型ロボットだったという。八雲紫が結界をいじって招き入れ、蓮の花が咲き誇る神社裏の池で戦ったのだが、霊夢も魔理沙も修行の成果を見せた。霊夢は幽香の技である光球化して移動する神技や、「博麗の巫女」の力である、意識せずに結界を用いて空間を自由に移動する技を披露し、魔理沙は幽香の分身する技を真似て、見事に戦ったと。

「見事すぎて師匠としては感涙ものだったでしょう。あの子、はりきりすぎて人間を越えかかったわね」

幽香はそう言うと大皿に手を伸ばしたが、何もなかったので引っ込めた。五人が次々に抓んだので、十四個の唐揚げはあっという間になくなっていたのだった。

幽香は少しむっとしたが、給仕のメイド妖精が首の肉の蒸しものを運んできたので気分を戻したようだ。魔理沙がどうはりきりすぎたのか説明した。魔理沙は、魔力を高めるために悪魔の羽根が肩から生えるほどの魔法を使い、あやうく全身悪魔になりかけたのだという。

魅魔は、脊柱で出汁(だし)を取ったタレに首の肉をつけてパクリと食べ、これは行者大蒜(ぎょうじゃにんにく)を刻んで載せるともっと旨い、と通ぶったことを言った。残念ながら、大蒜の類はこの館の料理には出ないのだ。

魅魔は、幽香の視線に気づくと、予め用意していたかのようにすらりと反論した。

「魔理沙は霊夢がいれば大丈夫だ」

「じゃあ霊夢は?」

「霊夢は独りで生きていける」

幽香はお手上げといった感じで嘲笑するように言った。

「一番浮かばれないのはあなたね。とんだお人よしだわ」

「いくら浮かんでも浮かばれないのが悪霊だからな」

一同が笑い、その後話はたわいもない噂話に移って行った。

 

晩餐は、脳味噌シャーベットで締めくくられた。蒸し暑い日本の夏にぴったりのデザートだ。

そして客が帰っていく時、最後の会釈があった。レミリアが、シャーベットの器であった頭蓋骨で下手くそなジャグリングをしながら、幽香に向かって、あんたはこれからどうするんだと聞いた。幽香はちょっと向こうへ挨拶に行ってくると言った。

「あのVIVITという機械、なかなか好奇心を刺激する存在だったわ。だからこちらからも向こうにね。せっかく究極の魔法のこつがわかりかけてきたんだもの、それを使わない手はないわ」

向こう、というのはVIVITが住んでいる世界のことらしい。紫が口を挟んだ。

「あの機械をこちらに入れた時、微かにアリスの気配がしたわ。気をつけなさいよ」

そんなやりとりの一方で、魅魔がレミリアに対し、自分は記憶からも歴史からも消えるだろう、と言ったことを、久しぶりに思い出した。アリスの究極の魔法に逆らって、魅魔が意地で記憶を私たちに残したのかもしれない。

「その前に霊夢の修行の仕上げをしなくてはな、夢想封印を」

「博麗の力を知り抜いていて助かるわ」

紫が答えた。その時、魅魔が、紫にそっとこう言った。

「なあ八雲紫、お前自身は古くから幻想郷に住んでいるつもりかも知れないが、本当は『今年』あるいは『来年』生まれたばかりかもしれないのだ。そのことをゆめゆめ忘れるなよ」

紫は無言で頷いた。究極の魔法とは、つまりはそういうことなのだ。

 

紅魔館のテラスに立ち、レミリアは客が帰るのを見送っていた。そして客が帰った後もその場に佇んでいる。美鈴、パチュリー、咲夜らは庭でずっと妖精たちの練兵をしていたが、テラスに立ったレミリアの様子に気づくと、レミリアのところに集まった。

夏の夜明けが近いのか蜩(ひぐらし)が鳴き始めた。

レミリアの周囲に細やかな、極めて微かな音が鳴り始めた。紅い霧だ。

いよいよ、私たちの異変、のちに紅霧異変と呼ばれる事件が始まったのだった。

 

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