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第三章

夜明け2 蝙蝠のクォリア 〜 A Study in Scarlet.

♪月々抄 〜 Oriental Orienting toward Orientation‐Oriented Orient

 

第四星 執行猶予

 

神綺は、魔界の創造神だといううさんくさい邪神だ。真偽のほどはともかく魔界の者たちがそれなりに尊重する者である。赤いローブをゆったりと纏った神綺は、するりと私の前に来ると、はあ、と溜息をついた。

「やってくれましたね。貴方のせいでこちらは大騒ぎです」

神綺は私を見据えながらそう言った。

なんでも、魔界に見た目が日本人の幼い少女が闖入(ちんにゅう)し、私とレミリア二人のパパ、エリスを倒し、さらには魔界を監視していた堕天使サリエルすらも倒してしまったという。

びっくりした。人間がパパを倒したなんて、信じられなかった。ましてサリエルまで……。

「サリエルはこの館の紅蝙蝠たちを借り出して戦ったのですけどね、どういうわけだか、負けてしまったのです。そのため、サリエルはお役御免となり魔界から去りました」

神綺はふふ、と笑った。

「そのお蔭で、命拾いをした者もいたようですが」

神綺は振り返ってパパとママを見た。そう、「フランドールを外に出してはいけない」という契約を破ってしまった両親は、いつ処刑されるか戦々恐々としていたはずだった。それがサリエルは魔界を去り、契約を破った両親に罰を下すほどの者がいない状況になったのだ。

「本来なら私が直接手を下しても良いのですが、ねえ? 夢子(ゆめこ)ちゃん、あなたはどう考える?」

部屋の外から赤い服に白いエプロンをしめたメイドのような何者かがランプを持って入ってきた。神綺に創られた魔界のメイド、夢子だ。

「この部屋の封印は不完全でした。極めて幼稚で身勝手なスカーレット夫妻には、どこかで娘さんのフランドールに逃げ出して欲しいという願望があったのでは?」

パパとママは、夢子を睨んだ。

「夢子ちゃん、私が訊きたかったのは、処刑するべきかどうか、よ」

その神綺の言葉に対しレミリアが言った。

「だったら、パパとママと私とフランであんたを倒すよ。私たちはあんたに創られたわけじゃないんだ」

「契約を違反したのですから、断罪はしなければなりません。良い機会ですから、あの『白い蓮』を処刑人に指名して、忠誠心を試されては」

夢子はレミリアを無視して言った。もっとも、なんであれ契約違反が罰せられるのは当然すぎることなので、パパもママも、小悪魔や蝙蝠たち、それにパチェも黙り込んでいた。

「ええ、そうですね。まあ今すぐとは言いませんよ。さあ私は帰ります。とにかく、貴方たちが無事で良かったわ」

神綺はそういって、私たちの方を向いて微笑んだ。

「そうそう、パチュリー・ノーレッジ、あなたにも話があります」

そういうと、神綺は夢子とパチュリーを連れて去って行った。

その後、私とレミリアは予想通りパパに泣かれた。それも百年に一度あるかないかというくらい盛大に大泣きされた。パパといっても、エリスはまだ幼さの残る女の子である。吸血鬼は、血を与えることで同族を増やす。だから私たちの悪魔としての親である二人も、単に人間だった私とレミリアに血を与えたという意味で親子関係なのであり、実際にはパパもママも見た目はあどけない。

しかし外見がどうであれ、パパの魔力は強大だ。それを人間が破ったというのはちょっと信じられないことである。一番信じられないのはママだったのだろう。ママは私とレミリアのことをパパに託すと、日本人の少女へ敵討ちをするために地上へ行った。もちろん、神綺の監視つきである。

レミリアはおいおい泣くパパにひしと抱きしめられ、パパがほっぺの星型の痣をすりすりと自分の頬に擦りつけるのを嫌がりながらもじっと我慢していたが、しばらくしてその役を私にまんまと移すと自分の部屋へ帰ってしまった。外から見れば可憐な少女同士が抱き合っているように見えても、実際はパパの怪力による締め付けとそれに抵抗するレミリアの怪力の危うい均衡ゲームが続いていたのだ。一方、私の部屋でパパが泣いているので、私には逃げ場がない。私はごめんなさい、ごめんなさいと繰り返しながら、パパの尋常じゃない抱擁に耐えつつじっとパパの泣き顔を見つめていた。パパは、レミリアとフランドールがいなくなってどんなに心配したか、日本人の少女に負けたことがいかに悔しかったか、そういったことを含めてありったけの感情を噴出させて泣き続けた。

私は、たぶんパパのエリスのことが嫌いだった。すぐに泣くし、わがままで、口やかましくて…… そのくせ魔力だけは強い。いや嫌いな理由はもっと別のことだったのかもしれない。

閉じ込められていた、というのは今ではパパを嫌う理由になるのだが、当時は当たり前のことだったのでなんとも思っていなかった。だが、時々パパが私の部屋にやってきて私に血を与えようとするのは、良い気分ではなかった。パパは、これでフランの魔力がもっと強くなる、とニコニコしながら血を与えてくるのだが、私もすでに五百年近く吸血鬼で、魔法も使えるのだ。それなのに人間を襲うこともなく、ただ親から血を与えられて歳月を送るというのは尋常ではない。もっと変なのは、パパから血を与えられて魔力が増すと、部屋にかけられた魔法も私の力に比例して強くなっていくことだった。これはつまり、パパの無邪気でしかも邪悪なゲームなのでは、と私は密かに疑っていた。私に力を与える一方、より強い魔法を部屋に施し、私が部屋から出るか出られないかぎりぎりで止め、懊悩する私の姿を見て安心するのがパパの楽しみだったのではないか。

パパは明らかに私を溺愛していた。放っておかれたレミリアとは大違いだった。レミリアはどちらかといえばママ寄りの性格だ。自由奔放で、腕力に訴えることもいとわないところなど良く似ている。ママが地上に単身乗り込んだ話などは、今思えば、レミリアの行動を考えると吸血鬼の「血のつながり」を考えさせられる話だ。ママが地上で起こした騒ぎが、のちのちの私たちの運命に大きな影響を与えるからだ。

私は、なんとかパパの抱擁から逃れるために、スルトとシンモラという神がこの部屋に突然現れた時のことを話してしまった。パパは真顔になって私を離すと、ドアを使わずに行き来されては困りものだ、と思案顔になり、さっそく新しい魔法を考え始めた。

そして何者も、ワープして部屋に入ったり出たり出来ない強力な魔法をかけたのだった。私はパパの抱擁から逃れられたが、この部屋から出られる可能性がまた小さくなってしまった。

 

ママがいなくなった館に、魔界神・神綺の紹介で一人の妖怪が送られてきた。名をホンメイリン、漢字で虹美鈴といった。神綺は虹美鈴をパパに紹介すると、美鈴はパパに丁重な挨拶をし、地上から持ってきたというアイリスの花を捧げたという。それを受け取ったパパは美鈴にレミリア付きになるよう指示を出すと、神綺と一緒に応接室に残った。いよいよパパとママの処刑の話になるのだろうか、と私はそちらばかりが気になったが、私の部屋に入ってきた美鈴をレミリアはじっと見ていた。

小悪魔の魔法で部屋のランプが灯り、美鈴の姿が目にもはっきり見えるようになった。濃い緑色の単色の服に紅い髪の妖怪だった。ぬぼーとした面立ちで、何の妖怪なのかよくわからないが妙に近代的な服装が気になる女、それが第一印象だった。

 

「よろしく美鈴。ホンはレインボウだって? その姓はこの館に合わない。雨が降ったらたまらないからね。これからはスカーレット姓を名乗りなさい」

「はいお嬢様。では漢字で紅を名乗ります」

そして虹改め紅美鈴はニヤリと笑った。

「紅は私も大好きな色ですので願ったり叶ったりです」

どうも躾のなってなさそうな者だと思ったが、東洋の田舎で生まれた妖怪だろうか。

「最近、魔界に来たんですが、地上での噂と違って良いところですねここ」

レミリアはじっと美鈴を見ている。

「以前、会ったことはあったかしら?」

「いいえ、お会いするのは初めてです。が、お二人のことはかねがね良く存じております」

「そう」

それだけ言うとレミリアは欠伸をした。そして、天気の話でもするような口調で付け加えた。

「パパはあなたにフランのお目付け役を頼むつもりだったようだけど、屋敷の正門に詰めて門番をやってもらえないかしら? 先日ここらに地上からの侵入者がやってきてね、うちのパパ、そいつにやられちゃったのよ。ママはかんかんになって地上に行っちゃうし、もう酷い有様だわ。今後はそんなことにならないよう、貴方に侵入者を止めて欲しいの」

美鈴は、はあ、と気のない返事をして言った。

「それは構いませんが、父君に話を通さなくてもよろしいのですか?」

「いいんだよ。お前はパパじゃなく私の部下なんだろう? じゃあ私の命令に従えばいい。それから、もし日本人で巫女の恰好した人間が来たら、問答無用で襲って食べてもいいからね」

「はあ、良いのですか?」

「人類の中でも巫女はとりわけ食べていい人類なんだ。昔からの言い伝えさ」

レミリアはデタラメをしゃあしゃあと喋った。

「メイドはどうなの? 私も襲われてしまうのかしら」

何時の間にか部屋の隅に立っていた夢子が訊いた。レミリアは笑って美鈴に言った。

「メイドは煮ても焼いても食えないくらい不味そうだからね。メイドは素通りさせていいよ」

「畏まりました」

そういって美鈴は出ていった。

レミリアはてっきり美鈴に苦力(クーリー)ごっこでもさせて遊ぶのかと思っていたので意外だった。

「臭いがお気に召されたのですか?」

ふいに小悪魔が言った。言われてみれば、草いきれのような、しかも妙に酸っぱい臭いがかすかにした。

「それもあるかな? あいつ、阿芙蓉(あふよう)を吸ってんだろう。なんにせよ守衛にはぴったりだと思うよ」

意味がよくわからなかった。阿片を吸っていたからなんだというのだろう。魔界では麻薬などありふれているのだ。

「もう酷い有様だわ、ですって。いい性格した娘ね」

扉の向こうから神綺の声が聞こえてきた。

「ああ、また泣きたくなってきた」

こちらはパパの声だ。神綺の前でえんえんと泣き続けたのだろう。神綺がドアから顔を出した。

「そこのレミリアさん、良く聞きなさい。フランドールさんが空間を破壊したことで魔界に穴が開いてしまったのよ。その穴を通って日本人の少女が魔界に来たの。つまり」

「つまり私のせいなのね」

レミリアが何か言う前に私が答えた。レミリアはいかにも反省しています、という表情を作って項垂れた。

♪なるほど、日本か。なあフラン、今度は日本へ行こう†

項垂れた表情を維持したまま、レミリアが朗らかに言った。私はぷっと吹き出した。

♪レミィいいかげんにしなさい†

パパが怒鳴った。そして辺りを見渡した。

♪パパ、美鈴という妖怪なら門番にあてがったの。フランの監視は出来ないわ†

レミィが得意そうに言った。

「……だって、美鈴っていかにも『衛兵』みたいな服を着ているんだもの。ついでに姓も紅を名乗らせたわ」

神綺が笑った。私にもようやく美鈴を門番した意味が分かった。これは紅という姓の衛兵、つまり紅衛兵になるという洒落なのだ。神綺が私たちに言った。

「あなたたち姉妹はいずれ地上に行ってもらいます。それまで我慢してください。夢子ちゃん、行きますよ」

神綺がローブを翻して部屋から出て行くと夢子とパパも去った。レミリアの興味は日本へ移ったらしく、日本について熱心に語りだした。

館の地下図書館で読んだマルコ・ポーロの東方見聞録によれば日本は黄金の国だという。私は呆れて聞き流したが、レミリアは本気だった。レミリアは真剣に日本語の勉強を始め、私もそれにつき合わされたのだった。といっても私は図書館に行けないのだから、レミリアが私の部屋に押しかけて、私の部屋で勉強をするのである。寝られない私はレミリアのわがままに付き合わされていたが、レミリアがついに寝床にするための棺桶を私の部屋に運び込んだので、私はいたずらを仕掛けることにした。レミリアが棺桶の中で寝付いたところを、棺桶だけ吹っ飛ばすのである。ある時、日本語の難解な漢字の読み方の学習を終えたレミリアは棺桶に潜り込んだ。私がじっと聞き耳を立てていると、中からすやすやという寝息が聞こえ始めたので、私はすかさず棺桶を破壊するための目を作り出して思いっきり握りつぶした。

大爆発が発生し、棺桶が吹き飛んだ。

レミリアは叫び声も上げず、目を大きく開け、口をあんぐりと開けたまま部屋の床の上で固まっていた。そして自分が生きていることに気付くと、ボロボロと涙を流しながら這うようにして部屋から出て行った。この時以来、レミリアは棺桶で寝ることが出来なくなり、私はやりすぎたことを後悔した。

レミリアは、もう気にしてないから、と言いつつ私に対して日本語の学習を熾烈に要求し始め、こうして私は、奇妙奇天烈極まりない日本語を使えるようになった。

 

ママはなかなか帰ってこなかった。業を煮やしたパパは、館を部下の小悪魔に任せると、蝙蝠に変身してママを探しに飛んで行った。しばらくして、パパはママと一緒に帰ってきた。ママはボロボロで、館中が大騒ぎになった。日本の幻想郷というところに行き、パパを倒した巫女と戦って敗れたのだという。ママは巫女を追って夢幻世界という異界に行って、巫女と人間の魔法使いが戦っているところに乱入しようとしたが、そこでパパがママを見つけて引き留め、説得して紅魔館へ帰ってきた、という話だった。しかし見た目はボロボロでも、不思議とママは溌溂として表情もどこか愉しげに見えた。

レミリアが訊いた。

♪ママ、人間と殴りあって負けたの? †

♪人間を殴ることなんてしないわ。魔力と霊力のぶつけ合いでね、負けちゃった†

ママはそう言って、介抱しているパパにキスをした。私はその時、ちょっと嫌な感じがした。

ママらしくない、裏の策略を感じたのだ。多分、ママが負けたのはわざとなんじゃないか、巫女を追って異世界へ行ったという話にも別の目的があったんじゃないか、と思った。そう思ってレミリアを見ると、レミリアの目が輝いていた。パパとママが一人の巫女に倒されたのだ、レミリアとしては、次は自分が戦う番だと思ったに違いない。それでなくとも日本行を考えている最中なのだ。案の定、その日の晩餐で、レミリアは両親に日本行を願い出た。

 

その晩餐は、私の部屋で行われた。ママへの気遣いもあったのか、日本人の血の料理フルコースだった。パチュリーが呼ばれていたのは、レミリアが言い出すことを予測してのことだったろう。パチュリーの席にだけランプが置かれていた。小悪魔が料理の素材について説明していた時のことだ。

「この四種の血のプディングですが、右から順に型、型、型、AB型で作られています。この血は、グリーンとかいう、血液製剤を作っている日本の会社から得たものです。社名に十字をつけていたので忌避しておりましたが、なかなかに悪魔的な血が入手できると魔界で評判になり、仕入れてまいりました。このプディングは、非加熱の血の新鮮さを活かすために、火を通し過ぎないよう焼き上げてあり……」

私の舌は、血のプディングを溶かしながら、日本人の血がルーマニアで味わったヨーロッパ人の血に比べてさらりとした味わいであると感じ取っていた。それに型の香りは悪くない。私は、日本人が美味しいなら日本に行っても良いと考えていたので、これなら及第点をやれると思った。のちに聞いた話では、レミリアも型の風味の良さに気をよくして日本行を一層固く決意したのだという。

「パパ、ママ、スカーレット家の家名にかけて、恥は雪がなければならないわ。私が、日本の幻想郷に撃って出る」

小悪魔の長ったらしい説明を遮って、レミリアが言い出した。

「ダメ」

「ダメよ」

両親はにべもなく突っぱねた。レミリアは強情に日本行を主張した。両親は、ここぞとばかりにパチュリーに加勢を頼んだ。パチュリーはルーマニア行のことを持ち出して、やんわりとしかし否定的なことを言った。

私はこの展開に厭らしい雲行きを感じて、イライラし始めたのを覚えている。

パパとレミリアが口と超音波の両方で口論になり、小悪魔や蝙蝠ら館の僕たちはじっと見守っていた。

だが、口論がさらに高潮しようとしたとき、パパはパチュリーや小悪魔、蝙蝠らを部屋から出した。パパがパチュリーに陳謝すると、パチュリーは図書館をお借りできるなら構いません、と言って、むしろ嬉々として出て行った。多分パチュリーは血ばかりの料理に居心地が悪かったのだろう。私の部屋は家族四人だけになり部屋が真っ暗になった。そう、そこまではなんとか私の記憶に残っている。それから……、そうだ、私は酷くイライラしていた。それも思い出した。どうしてイライラしていたのだろう? わからない。そしてその後は……どうしても思い出すことができない。

 

 

 

…………………………

 

 

 

♪パパ? ママ? どうしたの? ねえ! パパ! †

気付くと、私の部屋は、そして私の音響空間は血の海になっていた。テーブルや椅子、ベッドなど私が馴染んでいた家具の音像はすでになく、全て木っ端微塵になって部屋のあちこちにちらばって海を漂っていた。四方の壁も血塗れで、天井からは血の滴が落ちて、血の海のあちこちに幾何学的な波紋をいくつも生み、その音が規則正しい反射を響かせた。血の匂いが充満する部屋の中央にその波紋を遮るものがあった。原型を留めていないが、パパとママの骸の一部だ。私は混乱した頭で、パパとママに呼びかけ続けていた。吸血鬼がバラバラになったくらいで死ぬはずがない、すぐに肉体は結集して再生するはずではないか……。だが、布きれをこびりつかせた残骸には生命の活性がなかった。それはもう明らかすぎるほど明らかだったのだ。その残骸の向こうにメイド服を着た何かが立っていた。

私は、ずっと前から音の反射でその存在を認識していた。手に武器を持った何者かが立っていたのだ。どのくらいの時間が経ったのか、私はようやくエコーロケーションで明瞭に聞いた。音像は少女だった。手に持っているのはナイフだとわかった。唇を噛みしめて、酷く哀しげな表情をしている。

そして私はびっくりした。夢子ではない! 私は、神綺が夢子にパパとママを処刑させたのだ、という前提が心のどこかにあった。だが、同じメイドでも夢子ではなかった。

そう私が思った時、私の気配を察したのかその少女が突然こう言った。

「あなたたちの両親を殺したのは私です。ついでにあなたたち姉妹も殺そうと思っていますが」

日本語だ。そして、姉妹という言葉で、私はようやくレミリアの方へ注意を向けた。レミリアは私の記憶する限り、部屋の隅の中空で微動だにせず泣き声すら上げていなかった。私がようやくそちらの音を聞くと、凍りついたような無表情の顔で床一面の血溜まりを見ていた。

ドアがさっきからずっと音を立てていた。私の超音波の悲鳴が館中の蝙蝠に伝播し、館はパニック状態になっていた。僕の蝙蝠たちが私の部屋のドアを開けようと躍起になっていたのだろう。鈴の音とともにするりと空中を翔る音が聞こえた。美鈴が駆けつけて来たのだ。そして、ドン、という鈍い振動の後にドアが空中を飛び、血の海にビシャリと落ちた。おそらく寸勁か何かを使ったのだろう。惨劇を目の当たりにして、ドアの向こうにいた蝙蝠たちが一斉に悲鳴を上げ、その音の渦の中を美鈴とパチュリーが入ってきた。暗闇が幽かに微かに明るくなった。そんな背後の動きに構わず、メイド姿の少女は繰り返した。

「あなたたち姉妹も殺そうと思いますが、どうしますか」

今になってよく考えてみれば、これから殺そうと思う相手に対し、どうしますかもこうしますかもない。マヌケな発言だ。だが当時は、ただ事の成り行きを受け入れていた。レミリアは俯いたまま、搾り出すように震えた声で言った。

「いま少しの執行猶予が欲しい」

「では監視しますので、しばらく一緒に行動します。なお、逃げようとする行為は無駄ですよ」

執行猶予? ではやはり神綺の命令でやってきた処刑人なのか。しかしなぜ日本語を喋るのだろう。それに、このメイド少女は人間だとわかった。悪魔になってから初めて直に出会った人間だが、妖怪と人間の区別は簡単だった。食欲を感じるかどうかだ。私はこの少女を認識した瞬間に明確な食欲を覚えた。まさか、神綺は人間の創造すら行えるようになったのだろうか?

レミリアは唾を飲み込んで、少し気を落ち着かせたように感じた。そしてドアの横の空中にたたずむ部下たちに尋ねた。

「お前ら、この女を入れたね?」

「はい。メイドは素通りさせよ、との命令でしたから」

美鈴が答えた。

「屋敷の正門についてはわかっている。私が訊いているのはこの部屋のドアよ」

「いいえ。入れておりません」

これは小悪魔が答えた。

へえ、とレミリアが床をじっと見ながら言った。

「パパとママが部下を廊下に出した後、ドアには鍵をかけなかった。だからお前が部屋に入れたのはわかる。だがお前がこの部屋にいたとき、ドアには鍵がかかっていた…… 私にはお前が部屋に入ってきたことも鍵をかけたことも認識できなかった。変わった能力を持っているね?」

少女は哀しそうに笑った。

「ええ、その通りですわ。だから私はいつでも、あなたたちを殺せるのです」

少女の後ろの美鈴が殺気立ったのがわかった。その機先を制するように、レミリアはなおも俯いたまま少女に訊いた。

「お前、名前は?」

少女は首を横に振った。もし神綺が創造した人間なら、名前がまだないのかもしれない。

レミリアはまるで質問したことも忘れたように、血溜まりの上に描かれた波紋をじっと見ていたが、ゆっくり徐(おもむろ)にパチュリーへ訊いた。

「これから日本へ行こうと思っていたんだ、名前は日本風がいいな。そうだ、執行猶予か。パチェ、『猶予』は日本語でなんて言う?」

「ユーヨかしらね。古い言葉ならイザヨイとか」

「じゃあお前の名前はイザヨイだ」

美鈴が溜息をついた。その後ろで蝙蝠たちが大きな棺桶を二つ持ってきて、パパとママの骸の欠片をそれぞれに入れ始めた。私は、パパとママの二人の区別がつくのか心配になった。もう血も肉も混ざってしまっているんじゃないだろうか。

暗闇の中で目が効かないのだろう、パチュリーは蝙蝠たちの作業の音が聞こえる方をじっと眺めながら、続けて言った。

「イザヨイには、満月の次の夜の月という意味もあるけど」

「それは惜しいな。前の晩は日本語で何と言う?」

「サクヤとかサクバンとか」

レミリアはそこでようやく、顔を上げた。

「じゃあ、お前のことはイザヨイ・サクヤと呼ぶ」

パチュリーが、む、と何かを思い出して付け加えた。

「日本風なら、名乗りは姓、名の順よ」

「イザヨイが姓でサクヤが名だ。漢字をつけたかったら好きなようにつけろ」

「わかりました」

そういって、イザヨイサクヤは血の海に膝をつけて深くお辞儀をした。

その横で小悪魔が呪文を唱えると、床一面に広がった血がみるみるうちに集まって、二つの棺桶に入っていった。そして蝙蝠が蓋を閉めると、美鈴が両肩にその棺桶を担ぎ部屋を出て行った。美鈴は破れたドアから出ていくときにサクヤを一瞥し、レミリアに向かってニイッと笑った。美鈴とは違い、レミリアがサクヤにスカーレットの家門を与えなかった理由を考えてのことだろう。執行猶予が欲しいというレミリアの発言は、言うまでもなくレミリアがサクヤを処刑し両親の敵を討つまでの猶予である。だが処刑は、殺害ではなく吸血鬼化、であろう。その時、イザヨイという姓からスカーレット姓に変えるつもりなのだろう。

 

私はサクヤのような人間が、パパとママを殺害できたことが不思議だった。

のちに殺害方法を聞かされて理屈はわかったが、結局不思議なのは今でもそうだ。

私の記憶が欠落しているせいで詳しいことがわからないためだろうか。

この日本語を操る少女は少なくとも私とレミリアにすら、つけいる隙を与えなかった。もっと不思議なのは両親を殺害したはずのこの人間にまったく憎悪が湧かなかったことだ。契約を破った罰として、神綺が夢子をモデルに処刑用の人間を作って両親を殺害させた、と考え、契約違反の重さをよく承知している悪魔として、自分は自然と受けいれてしまっていたのだろうか。それにしても、いつのまに神綺は人間を創造するほどの力を得たのだろう。ヤハウェ並の力を得たのだろうか。さらにもっとも不思議だったのが、パパが死んだにも関わらず、私の部屋の封印が解けなかったことだ。むしろパパの死後一層封が強まったように感じた。私がドアに近づくだけで石壁のような見えない壁が私を遮ったのだった。

 

サクヤの不思議な能力は時間を操ることが出来るという人間の限界を超えた能力だった。どうして身に着けたのか、初めて会ったあの日から、今までに何度も尋ねたのだが、今でも明らかにしようとしない。ただ魔界の村で修行したからだ、などと言って逃げてしまう。冗談だと思っているが、ひょっとすると魔界のどこかにそんな修行できる極めつけの村があるのかもしれない。一度、私が本当にしつこく食い下がって尋ねた時に、咲夜はこんなことを言った。

「お嬢様は『時間』に話しかけたことはないのでしょう? 破ってばかりなのではないですか」

「そりゃあ話しかけることはないわよ」

「いいですか、『時間』はぶたれるのがいやなのです。『時間』となかよくやってさえいれば、時計に対するたいていの頼みはかなえてくれるのです」

「……それ『不思議の国のアリス』のいかれた帽子屋のセリフ」

「あら、同じことを考える人が世の中にいるのですねえ」

すっとぼけた咲夜を見て、私はそれ以上訊く気力を失った。私はかわりに『不思議の国のアリス』から引用してこういった。

「きらきら光れ小さな蝙蝠、私のねらいは何だろう」

「まあ、私の首ですか?」

「そう。お前は私の時間をつぶした。ハートの女王は正しい。首を切らないと」

「首一つ廊下に落とさないのが私の仕事ですから、これで退散いたしますわ」

こういって咲夜は逃げてしまった。

 

パパとママが死んで、スカーレット家の当主はレミリアが継ぐことになった。だが、両親の葬儀が終わると、パパとママについていた古参の部下たちが一斉に暇を願い出た。私たち姉妹が部屋ごと地上に行こうとした時、私を部屋と魔界に閉じ込める契約を部下たちは私に喋ってしまっていたのだ。その契約違反をレミリアはよく理解してあっさり部下たちの退職を許し、パパの元部下では一人、小悪魔だけが残った。

一方イザヨイサクヤは図書館で辞書を引き、名を「十六夜咲夜」とし、その後も図書館で本を読んでいた。監視といっても、当時の咲夜にはやることなどなかったのだ。咲夜は、食事があればいい、という風だった。

 

そうしたごたごたがあった頃、屋敷を支那風の服を着た二人組の妖怪が尋ねてきた。

美鈴が頑として通さず悶着を起こしていたので、レミリアが庭に出て行った。魔界は地上と違い有害な日光がないので、当時はレミリアも何不自由なく外で遊んでいたのだ。

レミリアが出て行ってから、しばらくして門の方から会話が聞こえてきた。

「お嬢様、自らおいでになられなくとも……、こちらの押しかけ客は、スカーレット家が喪に服しているといくら説明しても信じてくれないんですよ」

「初めまして。八雲紫(やくもゆかり)と言います。こちらは私の式神の藍(らん)です。以後お見知りおきを」

レミリアが門扉の上に立った音がした。そして素っ気なく答えた。

「で?」

藍と呼ばれたもう一人の妖怪が答えた。

「いえね、こちらの門番の方が、スカーレット夫妻が亡くなった、などとあからさまな嘘をおつきになって追い返そうとするので、こちらも困ってしまって」

「嘘じゃないよ。両親は死んだ。今は私、レミリア・スカーレットが当主だ。で、何の用?」

紫と藍の二人組は両親が死んでいることを知りびっくりしたようだが、紫が口を開いた。

「スカーレットさんを、日本に招待したいと思って参ったのですが」

♪フラン、こいつら胡散臭いな†

♪屋敷に入れない方がいいと思う†

レミリアは、うん、と返事をすると部下の蝙蝠たちに命令を飛ばした。

♪そうだな、おいお前ら、庭に席を設けてくれ。そこで茶でも飲ませてお帰りいただこう。菓子も上等じゃなくていい。お上りさんのようだし、魔界せんべいか何かでいいだろう†

♪畏まりました†

レミリアと部下の蝙蝠がやり取りをしている間、紫は館の方をじっと凝視していたようだ。

 

しばらくして茶会が始まると、紫は魔界せんべいを遠慮なく齧り、その欠片を遠慮なく口から吹きながら、一向に胡散臭い調子を改めず、魔界の天候は実に面白いだとか、この館も庭も実に美しいだとか、べらべらと喋り、最後にこう締めくくった。

「レミリアさん、今の日本にはあなたが必要なのです」

「なぜ?」

藍が答えた。

「今、地上のほとんどの地域では妖怪の力が弱まってしまっています。日本列島も例外ではない。そこで私たちは妖怪のための楽園を列島のとある山奥に創りました。しかし、日本の妖怪だけではまだまだ力が足りません。そこで最強の妖怪である、吸血鬼を魔界からお招きできれば、と思いまして。特にスカーレット家は魔界でもその名が知れ渡るほどの強い家門だと聞いておりましたから」

「クッ」

レミリアが笑った。

「その山奥にある楽園とやらは、どうせゲンソウキョウとか言うんだろ?」

紫が満足そうな声で言った。

「話が早いわね。そう幻想郷よ。まさかスカーレット家が代替わりしているとは思わなかったけど」

♪どうせそんなことだろうと思ったよ。なあフラン、こいつらの企みの浅さと来たら……†

♪幻想郷の巫女がパパとママに勝ったのを知って、スカーレット家なら御しやすいと思ったんだろうね†

♪しかし日本行はもともと計画中だったことだし、幻想郷の巫女とも勝負するつもりだった。渡りに船かもしれないな†

♪パチェの意見も聞いてみたいわね†

レミリアはなるほど、と頷き、配下の紅蝙蝠たちにパチュリーを呼びに行かせた。

「紫さん、と言ったか、日本に行くことの我々のメリットは何かな?」

「退屈しない毎日が送れるわ」

「だが残念ながら、私の妹は部屋から出られなくてね。魔界から離れられないんだよ」

「それはむしろ好都合かもしれませんわ。館ごと、日本にいらっしゃればよいのよ」

「なるほど、なるほど。そこら辺の事情は良くご存じのようだね」

パチュリーが庭に到着した。

「こちらの方は?」

「ああ、私の友人のパチュリー・ノーレッジだ。今では館の顧問のような立場でね」

いつから顧問になったのよ、と抗議したパチュリーだが、日本行という提案を聞き、素直に同意した。

「いいんじゃないの? 日本へ行けば?」

「パチェも行くんだけどね」

「あらまあ」

パチュリーは大袈裟に驚いて見せたが、私たち三人の中で実はパチュリーが一番日本に行きたがっていたのは私もレミリアもよくわかっていた。

茶にもせんべいにも一切口をつけていない藍が口を開いた。

「どうやら、ご賛同いただけるようですね。魔界の神、神綺氏も、当主が良いというなら構わない、とおっしゃっていました。今日にでも地上へ参りましょう」

神綺が言っていた当主とは、私たちではなくパパとママを指していたのだと思うが、どういう運命のいたずらか、いやレミリアの能力によるもの、なのかもしれないが、私たちが魔界から出る許可が与えられていることになってしまっていたのだった。レミリアがすかさず言った。

「ちょっと待った。一つだけ条件がある。私はね、紫さん、地上を侵略することは今じゃ興味ないが、月を侵略する気ではいるんだ。幻想郷とやらから月に行けるかな? 行けないなら、この話は無しだ」

その言葉に、紫は虚を突かれたのか静かになったが、両手をパン、と合わせた音をさせると、喜びを爆発させて弾んだ声で言った。

「ええ、ええ、もちろん行けますわ。地上で、幻想郷ほど月に近いところはないぐらいなの。まさかレミリアさんがそのような望みを持っていらっしゃるとは……、私たちもレミリアさんに惜しみなく協力いたしますわ」

 

今思えば、出来過ぎた話ではあった。あまりにもタイミングが良すぎたのだ。

この時は知る由もなかった。なぜ紫が私たちを、いや「紅魔館」と呼ばれる私たちの館を幻想郷に移動させたかったのかということを。そしてまた、レミリアの方も紫と会話をする間に、紅魔郷計画という名の、ある計画を瞬時に練り上げていたことを。

とにかく、慌ただしく事件が起きた後、私たちの館は地上に通じるゲートをくぐり、蝉が鳴き喚く日本の山奥に出現したのだった。

 

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