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第三章

夜明け2 蝙蝠のクォリア 〜 A Study in Scarlet.

♪月々抄 〜 Oriental Orienting toward Orientation‐Oriented Orient

 

第三星 ツェペシュの国

 

私たちの部屋は、ロムニア中央の小村、ア*フ村の外れにある廃城の中に出現した。そこはワラキア地方(ツァラ・ロムネアツカ)の北の端、ちょうどトランシルヴァニア地方との境に接していた。

その廃城はポエナリという名で、切り立った山の頂上に築かれてあり、城を出て小さな橋を渡ると、麓まで石段が一四二〇段も続いていたというから悪魔が人目を避けて住むにはぴったりの場所に移動したことになる。パチュリーの話では、城の三方を囲むカルパティア(カルパツィ)山脈の雄大な景色が見え、南の方に広がるツァラ・ロムネアツカの大地には、クルテア・デ・アルジェシュという古都の市街が、幻のように揺れていたという。

レミリアは数日も経たずにア*フ村の蝙蝠を支配下に置くと、パチュリーと二人で頻繁に外へ探検しに行った。しばらくの間は人間との接触を絶っていたため、食糧の血液は使い魔の蝙蝠やパチュリーが病院から盗んで来たものを食べていた。しかし、レミリアは慣れてくるとパチュリーを連れて日の落ちた頃ア*フ村に降り、村人達と接触し始めた。この国は孤児があまりにも沢山いて、よその土地から流れ着いた風の少女二人が夜にうろうろしても怪しまれなかったという。夜にしか現れない少女を不思議に思う村人も、レミリアが日光に弱い体質なのだといえばそういう病気なのだと思ってくれたようだ。もしかすると村人はロムニアの秘密警察から匿ってさえしてくれていたのかもしれない。

私はというと、地上に来てから数日の間は、自分がとった行動を思い返しベッドに突っ伏していた。この部屋が転移する直前の蝙蝠達の恐るべき話、つまり私を永遠に閉じ込める契約と、それを破ったことによりパパとママが処刑される可能性の話、さらにはその話を聞いてなおかつ地上へ行くことを決断した私の行動に、私自身が信じられない思いだった。ベッドで毛布にくるまっていてさえ、私の心は石の檻の中に閉じ込められているかのように寒々しかった。だがレミリアらは、パパもママもそんな柔じゃないし、せっかく外に出たんだから楽しめば良い、とか何とか言って、外へ探検に行くようになった。レミリアらの探検談やロムニアの蝙蝠達の話を聞き、私も少しずつ調子を戻した。二人の少女探検団の持ち帰った冒険譚は多岐に渡った。

この国はその昔、ヴラド三世、綽名を小竜公(ドラクレア)または串刺し公(ツェペシュ)という英雄が支配していて、このポエナリ城もツェペシュの居城だったそうだ。レミリアは後代吸血鬼伝説となったヴラド三世との運命的なつながりを盛んに強調した。城の前の一四二〇段の石段もその頃に造られたもので、それについて面白い話が伝わっていた。

当時トルコ(トゥルチア)の侵略に対抗していたヴラドは天嶮の利があるここポエナリ城を拠点にした。しかしトゥルチアの大砲に耐えるには城壁が十分ではない。そこでヴラドは貴族たちを使うことにした。ポエナリに来る以前、彼は貴族の裏切りに合い、実の兄ミルチャを生き埋めにされていた。その復讐と城郭増築の一石二鳥を謀ったのである。彼は貴族たちに復活祭の招待状を送り、やって来た貴族たちを捕まえてここへ送り込んだ。貴族たちは復活祭の晴れ着を着たまま、石や煉瓦を山頂まで運ばされることになったのである。こうして一四二〇段が完成し、トゥルチア軍を防いだヴラドはロマニアで救国の英雄と讃えられることになったのだとか。

しかし、悲劇も起こった。トゥルチアに包囲されたか、ハンガリー(ウンガリア)の裏切りにあったかで、この城は大軍勢に包囲され、ヴラドの妻がこの城の塔から、目の前を流れるアルジェシュ川に身を投げたのである。一説には、ヴラドが吸血鬼になったのはその時に神を怨んだからだという。

「ドラキュラ(ドラクレア)」の名前は世界的に有名のようで、この城もごく稀に観光客とおぼしき人々が来ることがあった。もっとも、観光客たちは真昼間に来るので、なかなか襲ったりおどかしたり、とはレミリアにもいかなかったようである。夜になるとヴラドの妻の霊が出るという噂などがあったとかなかったとか聞いたが、結局のところ自分たちがそのような霊に会うことはこの城に住んだ最後の日までなかった。

また、最近の数十年ヤハウェ配下の天使やキリスト教の聖人の姿をめっきり見なくなったことも興味深い話であった。南東の方におぼろげに見える古都クルテア・デ・アルジェシュには百年ほど前まで主教座が置かれるほどだったそうだが、今の人々からはそのような信仰すら感じられないのだと言う。

そして、ロムニア上空を飛行していたレミリアとパチュリーが興味深いものを目撃したという話があった。

西の空に、巨大な鉄製のカーテンが見え、そのカーテンは南北へ果てしなく続いていたという。おまけに人間の目には見えない代物だということだ。パチュリーの解説では、その巨大な鉄のカーテン(コルチナ・デ・フィエル)は強力な魔術によって生み出された存在で、外の世界を二分しているのではないか、ということだった。

鉄のカーテンの目撃証言を聞いた頃から、私たちはこの国を支配している妙な雰囲気に気づくようになっていた。私たちが事前に調べた情報によればこの地はキリスト教が支配してから相当の年月が経っており、この地に蔓延るキリスト教の天使や聖人たちと私たちの間で戦闘が必ず起きるだろうと予想していたのだ。ところが、レミリアらの話によれば、覚悟していた天使たちの清々しいほど忌々しい歌はどこにも聞こえず、キリスト教に追いやられる前この地に住んでいたという土着の神々も、かつて栄光に輝いていたローマの神々の姿もなかった。かろうじてカルパツィ山脈の森の奥に妖精の姿を見かけるくらいだという。

謎はすぐに解けた。地上の子ども達が行く学校に潜り込んだパチュリーの報告によって、「共産主義という名の妖怪」という強大な妖怪がこの地域を支配していることがわかった。魔界で聞かされていた、地上の大部分を支配している妖怪というのが、この「共産主義」だったのだ。

「私たちが地上を支配するには、まずあの『共産主義という名の妖怪』を倒さないといけないらしいね」

「うん。でもどうやって倒せばいいのかしら。その妖怪の本拠地はここより遠く離れた北東の国らしいよ」

「まだまだ情報が足りないねえ」

私たちは人間の血をまぶして揚げたブレテ・カシュカヴァルというスナック菓子を食べながら話し合った。

ロムニアの地方では、民間医療として瀉血(しゃけつ)を施す所がまだ残っていることがわかり、人間の血はそういった医療所に忍び込んで簡単に手に入るようになっていたのだ。

そんな話をしていた折、部下になったルーマニアの蝙蝠達が人間の機械を勧めて来た。

♪情報を集めるなら、人間どもが使っているテレヴィツィウネが便利です。遠い国の映像が写る機械でして、妹様もこの部屋に居ながらにして外のことを知ることが出来ます†

  その話を聞き、さっそくパチュリーと蝙蝠たちはテレヴィツィウネという霊気を入れる箱、情報を入手するためのアンテナという杖、稲妻を通す管を入手し、パチュリーが魔法をかけて私の部屋に備えつけた。

まったく人間どもの魔法も大したものだ。遙か遠くの映像をソファーに寝っ転がりながら見られるなんて!

だがそれ以上に凄かったのが「共産主義」という妖怪の魔法だ。箱から流れてくる映像も音声も、連日妖怪の呪文を垂れ流していた。この妖怪の頭が良いところは、サリエルの言う通り妖怪自身が信仰の対象であるとともに恐怖の対象にもなったところだ。そして従来の宗教を否定し、妖怪への帰依を要求する戦略は、他の神々への信仰を否定し自身への飽くなき信仰を要求するヤハウェの姿とも被った。しかし巨大なお椀に魔法を施しアンテナとすることでより遠くの国々からの情報も届くようになると、外の広い領域を知ることになった私の頭の中で、「共産主義という名の妖怪」の弱点がだんだん明瞭になってきた。その弱点の感覚は、この国の北西にあるドイツ(ジェルマニア)の都市から発せられていた。

「レミィ、パチェ、敵の弱点がわかった。そこを破壊すれば、妖怪は大幅に弱体化する」

チャイ・フルクテというロムニア風紅茶と、パパナッシュというロムニアのドーナツに人間の血をかけたもので午前三時のお茶を楽しみつつ、私は自信たっぷりに言ったのだった。その日は、パチュリーの記録によれば外の世界の暦でグレゴリオ暦一九八九年十一月九日だったという。

「あら、いつのまにか妹様の感覚は相当鋭敏になっていたのね。場所がわかるなら私とレミィで襲撃するけど」

パチュリーはそう答えたが、私は霊気の入った箱の中の映像からでも物質を破壊するための「目」を掌に作り出せると予想していた。いやそんなことよりも、私は久々に何かを破壊できる予感にうずうずしていたのだ。

「その必要はないかもしれない。次この箱にその弱点が映ったら、吹っ飛ばして見る」

しばらくお椀アンテナを回していると、その弱点、ベルリンという都会をぐるりと囲む高さ三メートル程度と思しき壁が映った。予想通り「壁」を破壊できる「目」を感じ取ることが出来、私の掌中に目が移動した。それを見たレミリアが、へええ、と驚いた。私自身もこんなに上手く目を移動できるとは思っていなかった。

「じゃあ破壊して、いいね?」

「いいよ」「どうぞ」

私は目を握り潰した。映像の中の壁が粉々になって吹き飛ぶはずだった。が、何も起こらない。

「あれ? おかしいなあ」

「フランも不発することがあるんだな」

「レミィ、明日にでも現地へ行ってみましょう」

何かの魔法による妨害だろうかと思った。だが、この後予想外の展開が起きる。

翌朝、テレヴィツィウネをつけると例の壁に群がる人の形どもが大写しになっていた。

「レミィ、パチェ、ベルリンの壁が破壊されたわ!」

どうやら、私が目を握り潰したその次の日の明け方に人の形が鶴嘴(つるはし)などを持って押し寄せ、壁を破壊したらしい。この時テレヴィツィウネに映っていたのが人間であることを知ったのは、ずっと後に幻想郷で霧雨魔理沙に会った時だ。今思えばおかしなことだが、私は物心つく前の記憶がなく、物心ついてからは人間というものを目で見たことがなかったので、テレビに映っているのが人間だという意識がなかったのである。それまでは、単に有象無象が動いているとしか思っていなかったし、何より画面越しでは食欲がわかなかったのだ。

ともかく、ジェルマニアは壁の崩壊で狂喜に満ちており、共産主義という妖怪にとって大きなダメージになったのは間違いない様子だった。私の能力が遅れて発揮されたのだろうか、と三人で話していた時だった。廃城の周りを警戒していた直属の蝙蝠から警報が届いたのだ。

♪この城に熱を持った何者かが二人近づいて来ます†

♪何者って、誰? 観光客かしら†

♪判りません。人間ではなさそうですが†

♪共産主義という名の妖怪が私の仕業だって気づいて襲いに来たんじゃない? †

「どうやら招かれざる客が来たようね。フランが加勢できるこの部屋におびき寄せて、三人で叩くわよ」

レミリアは扉の真正面の天井に張り付き、サーヴァントフライヤーがレミリアの周りに陣を敷く。私はクランベリートラップの用意をし、部屋の中央脇の壁に沿ってドアの方を向いた。パチュリーは敵が熱を持っていると聞き水符を揃えてドアの横についた。

だが、廃城へ続く階段を途中まで来た何者かは、次の瞬間には壁を抜けて部屋のど真ん中に現れた。

 

「こんばんは」

 

虚を突かれて振り向くと、熱風と火の粉が顔を覆った。轟轟と音を立てて燃える巨大な人影が声の主だった。男だろうか? 煙と同じくらい黒々とした体は天井に届かんばかりだ。その後ろにこちらは幾分細くまた黒い人物が見える。こちらは女なのかすらりとした体躯の持ち主だった。暗黒の部屋の中央に突如出現した光源が部屋を照らした。

恐らく私を助けようとしたのか、水符を繰り出そうとしたパチュリーをレミリアが制止した。火の粉を被るのも御免だが、パチュリーの水流を間違って浴びるのはもっと御免だ。

「ノックもしないで入ってくるとは無礼な奴ね。名を名乗りなさい」

黒い二人の客は、そう言ったレミリアを見て満足げに笑った。私は熱さに耐え切れず部屋の隅に飛び退いた。

「私はスルト。こっちは家内のシンモラだ」

「初めまして。吸血鬼の姉妹に魔法使いよ」

「私はリーダーのレミリア、こちらが妹の……」

「フランドールよ。この部屋の主の」

「パチュリー・ノーレッジ。この二人の友人の」

「話には聞いていたが面白い子供らだな。ベルリンの壁をブッ壊したのは誰だ?」

スルトが真っ黒い顔の口のようなデコボコをニヤニヤさせながら一歩前に出て来た。

「多分、私だと思う」

私は、スルトの漆黒の体から発する熱で全身を火照らせながら、そっと言った。

スルトが私の方へ向きをぐるりと変えた。かの巨人の足元から煙が噴き出し、火の粉があちこちに飛び回った。蝙蝠たちがたまらず部屋の外に避難していき、あまりの暑さに天井やドアの横の壁に押し付けられた格好の三人も汗だらだらだった。スルトといえば、オーディンらと戦い、ラグナロクで世界を焼き尽くす神と聞いている。そんな神がいったい何の用だろうかと、真意を測り損ねていると、スルトが後ろのシンモラに向かってアレを出せ、と言った。スルトとは違い煙も火の粉も出さない細身のシンモラが優美な腕を一振りすると、奇妙な棒状の物体が出現し、スルトに差し出された。

その物体はスルトと同じくらい暗黒に染まっており、ぐにゃりと歪んだ先に矢尻のような尖端が着いていた。

「おいフランドールと言ったな。これをお前にやろう」

「理由もなく他人から物を貰えない」

ふむ、とスルトは顎のような部分に手をもって行った。いつのまにか水符で水を浴びていたパチュリーが、杖を凝視した途端、さっと顔色を変えた。

「数千万の天使どもやヨーロッパ(エウロパ)半島の神々が束になっても破壊できなかったあの壁を易々と破壊したのが痛快だったのでな、その礼だ。これは『レーヴァテイン』という杖で、ま、持っていて損することはない」

「そんな熱い手で握られた杖を渡されたら、損しないどころか全身全損じゃない」

私が抗議すると、それなら、と言って、スルトはレーヴァテインを床に放った。すると熱でレーヴァテインが床に突き刺さった。レーヴァテインが冷めるまで待て、という意味らしい。

 「スルトよだから言ったじゃありませんか。今時の女の子はこんな玩具を貰っても喜ばないと」

「いや、俺の目が確かなら、この玩具はこいつらに必要だ。俺達が使う物に比べれば小振りだが実用に耐えるものだからな」

スルトとシンモラの夫妻が言葉を交わしているとレーヴァテインの傍に置かれた椅子が発火し燃え出した。神だか何だか知らないが私はイライラしてきた。

「災禍を持ち込まれたようね、妹の部屋を火事にしたいのかしら? その杖を引取ってお帰り願いたい」

レミリアが妥当なことを言った。この部屋にかけられた魔法は強固だ。部屋が焼けても私は出られないのでこのままでは焼け死んでしまう。ところがパチュリーが意外なことを言った。

「それはそこらで流通している紛い物とは違う正真正銘の本物よ。スルトよ、その杖は確かに頂くわ」

スルトはよろしい、と頷いた。その頃にはスルトとシンモラを中心とした煙と火の粉は部屋の中央に渦を巻いて膨れ上がっており、熱に耐え切れなくなった私は絶叫した。

「あんたたち、いい加減にしなよ、さっさと部屋から出て行かないと二人とも木っ端微塵にするわ!」

そしてスルトとシンモラの目を掌に移そうとした瞬間、二柱は目の前から消えた。

 

「ハハハ、頼もしいな」

 

スルトの一声が廃城全体に響くと、部屋には中央にくすぶる「レーヴァテイン」だけが残された。すかさず水符で火消しにかかろうとパチュリーが駆け寄る。私は自分のベッドが焦げていないか心配で飛んでいき、ベッドの無事を確認するとその上に倒れこんだ。

「なんなのよ〜」

私の呻(うめ)きに呼応し、パチュリーが杖に水をかけながらつぶやく。

「まさかスルトとシンモラが出てくるなんて予想外だったわ。そして本物のレーヴァテインまで賜るとはね」

「古い神々に私たちの居場所がバレているなら、天使や例の妖怪にもバレているってことじゃないか? フランが使わないというなら、私にその杖を使わせて貰おう」

「だめよ、スルトはフランにプレゼントしたんだから、フランが使わないときっと災いがあるわ」

「えー」

レミリアは残念そうに溜息をついた。外を活発に動き回っているのは自分なのに、私に手柄を取られたようで嫉妬したのかもしれない。

「すでに火の災いが発生したけどね」

ぐったりしていた私は力なく答えた。だが落ち着きを取り戻すと「レーヴァテイン」なる杖に心が惹かれていくのを感じた。パチュリーの水符により撒かれた水飛沫をシューシューと沸騰させながらたたずむレーヴァテインの、その奇妙に歪んだ形は私の心を刺激するものがあった。レミリアはまだ何かわがままなことを言っていた。

「ねえパチェ、フランのレーヴァテインと対になるような得物を私にもくれればよかったと思わない?」

「レミィは力があるんだから武器なんて持たなくてもいいじゃない」

「そういうことじゃないのよ。姉妹そろって何か持ってた方が釣り合いがとれていいじゃない」

そんなことを言っていたレミリアも、数時間後には、テレヴィツィウネに映った「ベルリンの壁崩壊」の映像についてパチュリーと夢中になって議論を始めていた。

その脇で、冷め切ったレーヴァテインに近づいた私はそれを手に取って床から引き抜いてみた。小さな私の手にぴたりと馴染む太さ、見た目と裏腹のずしりと来る重さ、眺めてもさすっても飽きない絶妙な歪み、脈打つような、それでいて滑らかなような、冷たいような、それでいて温かいような、なんともいえない肌触り。

「流石、破壊神が創り給うた武器ね」

この時初めて、地上に来て良かったかもしれないと思った。

しかし話はそれだけで終わらなかったのである。

 

数日が経った水曜日、つまり十一月十五日の正午、私は馬の鳴き声とも狼の吠える声ともつかないざわめきで安眠を破られた。私はベッドから起き上がると、咄嗟にレーヴァテインを抱き寄せて部屋の床に降り立ち、お付の蝙蝠に何事か尋ねた。

♪数十人の神霊が廃城を取巻いています†

天使の襲撃だ、と覚悟を決めた。しかし続々と入ってくる蝙蝠の報告は要領を得ない物だった。

♪それが、どうも天使ではなさそうですが……†

その時、レミリアと燭台を持ったパチュリーが厨房から通路を抜け私の部屋に慌てて入ってきた。レミリアは予想通り服を真っ赤にしている。こちらは顔を真っ赤にさせたパチュリーが黴臭い体から酒臭い息を、ほっ、と出すと、私の脇を通り過ぎ際に燭台を私に押し付け、そのまま私のベッドに倒れこんだ。

「厨房に入ったら人間の血で割ったツイカをあおっているレミィを見つけて二人でがぶがぶ飲んでいたのよ。で、寝付こうとしたら敵襲じゃない。後はフランに任せたわ」

ツイカとはスモモから作った蒸留酒で結構強い。それをがぶ飲みしたのだから、パチュリーもレミリアも相当酔っているようだ、とその時は思った。その時だった。

「吸血鬼のレミリア・スカーレットよ、我らはヴァルキューレ也。全知全能の神オーディンの御降臨である!」

部屋の外から女の声、それも大音声が朗々と響き渡った。古ノルド語(リンバ・ノルディカ・ヴェケ)ではなく現代ジェルマニア語だ。その声が地平線上の山々に反射し大地全体が木霊した。そして静寂。先ほどまで吠えていた狼だか馬だかわからない群れも殺気を充溢させながら押し黙っている。

「あー今は会いたくない。頭がガンガンする」

レミリアは部屋の床で頭を抱え込んでいる。空のかなり高いところから、ドドドドドコッドドドドドコッという忙しない速足が聞こえると、廃城の前庭にドズン、と音を立て何かが降り立った。

「あれ、スレイプニルよ、多分本物だわ」

パチュリーが天井を見ながらうわ言のようにつぶやいた。またしても女の声が響き渡った。

「レミリアよ、扉を開けて我らが軍勢の父を迎えよ」

空間を破裂させる声量がアルコール漬けの脳を揺らしたのだろう。レミリアは床でのたうち回った。

「ひー」

♪お嬢様、オーディンです。小さな槍を持って通路を向かってきます†

♪ヴァルキューレも三十騎ほどいます。戦うか、会って話すかしかなさそうですよ†

レミリアは無言になった。オーディンとおぼしき人影は、まさに「のっしのっし」の形容が当てはまる足取りで部屋の前まで来た。そして野太い声を発した。

「酒臭いな」

確かにその通りだった。レミリアが答えた。

「想像の通りよ。今、人前に出られる姿じゃないわ。明日また来てよ」

「私の日でないと、来られないのでな」

私の日とはオーディンの日、つまり水曜日のことだろう。オーディンは沈黙した室内へ扉越しに語りかけた。

「それに、酒が飲める女の子は嫌いではない」

床に突っ伏したままレミリアはちょっと笑った。そして両者はしばらく沈黙した。レミリアは超音波で私に話しかけてきた。

♪フラン、レーヴァテインを振り回してよ†

♪挑発するの? それとも私に戦わせる気? 戦うのはやぶさかじゃないけど、レミィを庇いながら戦うのは分が悪いんじゃないかしら†

♪いいから振り回して†

私は蝙蝠を天井へ避難させると、燭台を床に置き、レミリアとパチュリーに当たらないようレーヴァテインを振り回した。部屋に巨大な魔法の剣が出現し、剣の軌道に沿って炎の列が弧を描く。室内の様子を透視でもしたのか、外のヴァルキューレ達が感嘆の声を上げた。それを確認してレミリアはオーディンに向かって言った。

「扉の鍵は開けないけど、どうしても入りたいっていうなら入ってくればいいわ」

「そうか、では」

そして、扉に何かが撃ち込まれる音がした。その一撃で部屋が急激に振動した。持っている槍を扉に撃ち込んだようだ。その振動が止むと、扉が音も無く開いた。扉の向こうに黒い皮ジャンを着た隻眼の老人が立っており、床に突っ伏したままのレミリアを見下ろしていた。私がレーヴァテインを振り回したのはなんだったのか、と拍子抜けして炎の剣を収めたところに、オーディンの後ろから若い女の声がした。

「それはシンモラのレーヴァテインだな。フランドール・スカーレットよ」

部屋の中へ入って来た女神はフレイヤだろうか? ふくよかな体をした美人だ。

「これが、ベルリンの壁を撃ち砕いた姉妹か」

「スルトもそうだが魔界の連中も味な真似をしてくれるじゃないか」

こちらもリンバ・ノルディカ・ヴェケではなくジェルマニア語の子音をざらつかせて、どやどやとオーディンの後ろからスーツにネクタイを締めた神々が出てきた。

一体どこから湧いて出たのかわからないが、神話でしか聞いたことのないような神々が、現代の洋服を着こなした出で立ちで、私の部屋の四方にずらりと整列した。仰向けになって四肢をだらしなく広げていたパチュリーも、ベッドの周りに神々が並び始めると恥ずかしくなったのか、ベッドから転げ落ちて部屋の中央ににじり寄って来た。神々が入り終わると、最後にオーディンが静かに部屋の中に入った。

「改めて、御機嫌よう、吸血鬼の娘よ」

「信仰を失って久しい老いた神が、若い娘の部屋に押しかけて何の用かしら?」

オーディンの脇に立つ巨大で厳つい顔をした男神、これはトールだろう、それが答えた。

「お前達が壊した、ベルリンの町の壁、あれはな、世界中の神々がこの数十年破壊しようとして出来なかったものだ。それが破壊された今『共産主義』の力が弱まりドイチュラントは再び統一されるだろう。そこで、アスガルトの神々はベルリンの壁を破壊したお前達に褒美を賜ることを決定した」

またか、と思った。しかしその次に発せられた言葉には耳を疑った。

「褒美というのはな、その災厄をもたらす杖、レーヴァテインを取り上げてやろうということだ。その杖はお前達には過ぎたもの、我々がしかるべき処理をする必要がある」

レミリアが答えた。

「あんた達、数は多いが、スルトの足元にも及ばないね」

オーディンが笑って答えた。

「スルトの足元にも及ばない理由を聞こう」

レミリアは床を向いたまま大きな声ではっきりと言った。

 

「Veitztu hvé biðia skal?

 (みんながどのように祈らなければならなくなっているか知っているかい?)

 

エッダのハーヴァマールだ。神々の微笑が消えた。この時になって初めて、私はレミリアが泥酔しているふりをしていたのだとわかった。あの異常に酒が強いレミリアが、蒸留酒とはいえがぶ飲みするぐらいで倒れるはずがなかったのだ。古ノルド語による反撃に、オーディンは少し目を瞑って何かを想っている様子を見せた。レミリアはふっ、と微笑して続けた。

「スルトは部屋に入った時に、レーヴァテインで床を傷つけた。その償いとして、レーヴァテインを置いていったんだ。ところがお前たちは、部屋の扉を壊しておきながら、物を奪って帰るという。そんなだからラグナロクでスルトに焼かれてしまうんだ。オーディンよ、あんたも部屋の扉を槍で壊した。だから、その償いにその槍を置いていくといい」

そういって突っ伏したままレミリアはレーヴァテインが突き刺さっていた床の傷を指差した。

その時、レミリアが私にレーヴァテインを振り回させた理由がわかった。オーディンがスルトのように扉を壊さず部屋に入るのをレーヴァテインで防ぎたかったのだ。

再び神々の微笑で部屋の中がさざめいた。オーディンは床の傷を確かめるとこういった。

「なるほど、確かにこの傷はスルトの熱とレーヴァテインによってついたものだ。まあ、いいだろう、お前の妹がレーヴァテインで暴れたら、このグングニルの槍で止めるがいい」

オーディンはさりげなく失礼な事を言うと、持っていた槍をぐるんと一回転させ、レミリアの頭上へ水平に渡した。レミリアはパッと酔眼を上げて満面の笑みを浮かべると両手で恭しく槍を頂いた。

そしてレミリアはさらに要求した。

「それに、さっきの女の声で頭がガンガンする。騒音の償いも頂きたいのだけど」

「そうか、おい、こいつらの気つけにエールの樽を百樽前庭に積んでおけ」

「畏まりました」

調子の良さそうな若い男神が部屋から出て行った。雰囲気から察するにロキだろうか。

しばらくして、ヴァルキューレ達が長い机と巨大な樽、それに深い杯をいくつも部屋に運びこみ、勝手に酒宴をやりだした。

神々はもはや吸血鬼や魔女のことなどすっかりそっちのけで歓談に興じていた。私たちは神々の強いエールをちびちびやりながら、古きエウロパの神々から多くのことを聞き出したことは記憶している。だが、何を聞き、どのような答えをもらったのか、ほとんど憶えていない。

パチュリーも何も憶えていないと言っているが、この時からパチュリーの魔法力が飛躍的に向上したのは確かだ。ロキらしき男神がパチュリーに歳を尋ねた時、パチュリーはこういった。

「百年ほどこの二人の友人をやっているけど、それ以前のことは憶えていないわ」

オーディンが言った。

「百年? 桁が二つほど違うんじゃないか」

その言葉に、神々が一斉にパチュリーを見た。

「何よ。私が一歳の赤ん坊だっていいたいの? 失礼ね」

オーディンはじっとパチュリーを見ている。

「ひょっとすると三つかな?」

オーディンはパチュリーの杯にエールを注いだ。

「なら私は生後一箇月ね」

「ふふ、パチュリーとノーレッジか、良い名だな。いつまでも魔女を続ける気か」

「そうよ」

この時、パチュリーと神々は旧くからの知り合いなんじゃないか、とふと思ったが、よくわからなかった。

その他オーディンに言われてかろうじて憶えていることは、ヨーロッパ(エウロパ)の西ではキリスト教の力が強く、オーディンらはベルリンの壁が崩壊しジェルマニア全体が祝祭に包まれている今しかはっきり現れることは出来ないということ。

かつてオーディンらが住んでいたエウロパの天界と同じく、遙か東の国にも岩石で出来た天界を残す場所があること。またレミリアが、ライン川に住む精の歌声が聞きたいとオーディンにねだった時に、ローレライ岩に住んでいた妖怪たちはキリスト教の天使に追いやられ、東の方へ逃げて言って行方はわからないとオーディンが話していたこと、そんなことは憶えている。

もともと時間が真昼だったことに加え、私たち三人はしたたかに酔っ払ってしまい、いつのまにか私のベッドで固まって寝ていた。宴が終わったのか、神々が部屋から出て行く時、オーディンが、不思議な詩を吟じた。

 

「 kela wete-i aku-n kahla (言葉それは時という川の浅瀬)

kala-ipalhe-ke na wete (過ぎ去った者達の棲家へとわれらを導く)

sa da a-ke ejeala      (しかし深き水を怖れる者は)

ja-ko pele tuba wete    (そこに辿り着くことはない)」

 

私の知らない言語だった。パチュリーが答えた。

「深き水を渡ったのは間違いだったの。さっきも言ったけど、私はいつまでも魔女のままよ」

オーディンは、惜しそうな目でパチュリーを見やると、達者で、と言った。そしてこう加えた。

「この城にはな、どうやら本来の城主がいるようだぞ。お前たちもはしゃぎすぎるなよ」

そう笑って、神々は去った。

しばらくして目が覚めた時、夢だったのではないかと思ったが、レミリアが手にするグングニルの槍、これもレミリアの背丈に合わせてぴったり投げやすく作られたかのような小さな槍だが、それを見て現実だと認識することになった。レミリアは、オーディンとの知恵比べに勝ったと高らかに宣言したが、槍の大きさを見る限り最初からオーディンはグングニルをレミリアに渡すつもりだったのだろう。なにしろ壊されたはずの扉の鍵も元通りに直っていたのだ、全ては老神の演出だったに違いない。

「そういえば、騒音の償いにビールを百樽前庭に積んだと言ってなかった?」

このパチュリーの発言に触発されて、レミリアが前庭へ飛んでいった。が、激怒して戻ってきた。

「前庭には空の樽が百樽積んであったわよ! みんなあの馬鹿神どもに飲まれちゃったみたい」

どうやら知恵比べに勝ったわけではなさそうだった。オーディンは確か「エールの樽」を百樽積めと命じたので、その樽に中身が入っているとは限らなかったのだ。

 

このようにして、ベルリンの壁の破壊と、それに続く二組の神族の訪問は終わった。私とレミリアは非常に気分が良かった。魔界にもその名が知られるレーヴァテインとグングニルを手に入れたのだ。レミリアは投げても手元に戻ってくるグングニルで遊び、パチュリーは酒宴で神々から聞いた口伝を思い出しながら魔法の研究に熱中していた。

ロムニア語に慣れ始めたレミリアとパチュリーは、相も変わらず夕方になると城からア*フ村へ降りて行き、村の女の子達と話したり、大胆にも酒場に出ていって大人たちと酒を飲んだりしていた。酔った村人たちの話題はもちろんベルリンの壁の崩壊と東西ドイツ統合(レウニフィカレア・ジェルマニエイ)の話である。レミリアが「ベルリンの壁は私が魔法で破壊したんだ」と法螺を吹いて村人から大いに受けた、と部下の蝙蝠が苦笑しながら報告してくれた。

この頃からレミリアはこの国の政府に対する不満や愚痴を注意深く聞いて回っていたらしい。十二月になると、「共産主義」という例の妖怪の支配化にあるチャウシェスクという者がこの国を支配しており、それに村人たちが不満を持ち「民主革命」の機運が高まっていることが明らかになった。チャウシェスクならテレヴィツィウネで英雄として何度も見聞きしていた。酔った村人たちから贈られたツイカの壜を片手に、レミリアはチャウシェスクの支配を崩壊させア*フ村の村人たちの不満を解消させてやりたい、ともちかけてきた。しかしテレヴィツィウネを眺めていても、ベルリンの壁の時とは違って、なかなか「目」を見出すことが出来なかった。そもそも私の能力は物体を破壊することであって、国家や政権のような抽象的な存在を破壊できるのか、私にもわからなかった。何しろパパが部屋に仕掛けた結界は破壊することが出来ないのだ。私は自分の能力の限界がどこにあるのかわかっていなかったし、今だって良くわからない。そうこうしているうちに冬になった。

その頃になると、村にも「民主革命」の風が流れてきており、国内のある地方で民衆の蜂起があったという噂まで届くようになった。そんな十二月も終わろうとする二十一日のことだった。

 

その日は眠れなかったのか、日が出た後も遅くまで起きており、映像の写る霊気入れの箱をベッドの近くにおいてパチュリーと二人で毛布をかぶりボーっと映像を眺めていた。その横ではレミリアが、暇つぶしには運動が良い、とナディア・コマネチなる少女、当時は妖精だと呼ばれていたので私は本当に妖精なのだと信じて疑ってなかったが、その真似をして体操ごっこをしていた。そうこうしているうち箱の画面におなじみのチャウシェスクが映った。どうやら、この国の首都、ブクレシュティの旧王宮広場に大量の国民を集めて演説をぶとうとするらしい。

聞き飽きた「共産主義」の呪文がまた垂れ流されるのか、とうんざりして箱の電源を落とそうとしたその時、ハっとした。広場のある一点に、「目」が見えたのだ。今まで見当もつかなかったチャウシェスク政権の破壊方法、それがこの目だ、と直感的に理解した私は、旧王宮広場に感じ取った「目」を即座に自分の手の上へ移した。その「目」 は真っ赤で生き物の心臓のようだった。その時の私は残虐な笑いをしていたのかもしれない。とめどない高揚感とともに「目」を握りつぶした。

同時に広場で爆発が起こった。そして、集まっていた万を超えるであろう群集がどよめいた。

成功だった。

ベルリンの壁とは違って、今度は間違いなく破壊したと確信した。がばっとパチュリーが跳ね起き、レミリアも寄ってきた。パニックになった群集が四方八方に逃げ惑い、広場は怒号と絶叫の場となったようだ。そして、映像がプツっと切れた。

「妹様も腕が上がったのね」

「映像を切られたけど、やったねえ。これでチャウシェスクをぶっ飛ばすことになったら、我々はこの国の英雄だな」

実際、その後のロムニア情勢は激変した。首都に居られなくなったチャウシェスクは機械仕掛けの箱で空へ逃げ出したが、すぐ革命派に捕まってしまい二十五日に銃殺された。

国内はお祭り騒ぎになった。ア*フ村も祝祭気分のどんちゃん騒ぎになり、テレビには外国の番組が映るようになった。

レミリアはさっそくア*フ村の酒場に行くと、チャウシェスクを倒したのは自分の魔法だと村人達に吹聴して廻り、気に入られた村人達からブラド・ツェペシュの再来と呼ばれるようになる。

ロムニアではブラド・ツェペシュ、つまり小竜公(ドラクレア)は救国の英雄として尊敬される存在だったが、チャウシェスク政権では様々な伝説も含めて否定されていたため、その政権を自分が倒したと言い出した不思議な少女に人間の大人たちはツェペシュの再来という言葉を贈ったのだろう。だがここからが面白いところで、部下の蝙蝠の報告によると、レミリアは「ツェペシュの再来」という称号に満足せず、「ツェペシュの末裔」 の称号が良い、と切り出したそうだ。どういう理屈かわからないが「再来」と「末裔」では「格が違う」らしい。それを聞いた村人は、ア*フ村には実際に「ツェペシュの末裔」がいるが、お前はその娘かい? とレミリアに返したので、レミリアはもっとびっくりすることになった。なんでも、ブラド・ツェペシュは敵国の軍勢に追われて逃げる際に一人息子を馬から振り落としたことがあったそうで、その息子の子孫を名乗る人物が村にいるらしい。

 

レミリアは酒を手にパチュリーとともに「ツェペシュの末裔」 の家を訪れた。出てきた人物を見て、パチュリーはすぐに、よく潜りに行っている高校の先生だとわかったという。ごくごく普通の人間の男性だったが、ともかくも、レミリアはロムニアのチャウシェスク政権を倒したのは私であり、ロムニアの英雄として「ツェペシュの末裔」を名乗りたい、と無茶なことを要求したらしい。それに対しドラキュラ(ドラクル)先生は、子どもはそんなにお酒を飲んではいけないし、夜遅くまで起きていてもいけない、と諭した後、共産主義の総本山であるソヴィエト連邦があるうちは、まだどうなるかわからない。ソヴィエトを倒すくらいの実力があれば、「ツェペシュの末裔」を名乗ってもいいだろう、と話した。

おそらくドラクル先生はソヴィエトが崩壊するのは早くても数十年先で、レミリアに対し大人になるまで勉強しろ、と言いたかったのだと思う。が、レミリアは、次はソヴィエトを倒すつもりだった、しばらく待ってなさい、と告げたそうで、城に帰って来るとさっそく私にソヴィエト連邦破壊の策を持ちかけてきた。蝙蝠の部下から逸(いち)早く事の一部始終を聞いていた私は、政権を倒したのは私であってレミリアではない、と抗議し、すぐさま姉妹喧嘩になった。

 

だが、喧嘩が収まると、レミリアは尋ねた。

♪フラン、お前の能力は、象徴にも効くんだっけ? †

♪象徴ってどういうこと? † 

♪例えば、国旗を破壊することで国家も破壊するとか†

♪それは無理なんじゃないかなあ†

♪じゃあさ、地図上の国家を破壊するのは†

♪うーん†

しかしこの提案は試してみる価値があった。鉄のカーテンはまだ見えていたし、親玉の妖怪は地上で最も巨大な国家ソヴィエト連邦に住んでいるのだ。パチュリーがメルカトル図法で描かれた世界地図を持ってきた。

「これがソヴィエト社会主義共和国連邦だけど」

パチュリーの指先に広がる国家は世界地図の中でも圧倒的な存在感を見せつけていた。

「真っ赤ね」

「真っ赤だわ」

私は、一目見て、世界地図上の真っ赤な巨大国家が気に入らなくなった。紅い色によりふさわしい存在がここにいるのだ。今思ってみると、その時の破壊衝動はレミリアのいう「格の問題」、つまりスカーレット家のプライドが作用したのかもしれない。だが一方で、異様に大きく見えるのがメルカトル図法の製図上の欠点によるものだということも、なぜか私を一層いらだたせた。ともかく私は造作もなく地図上のソヴィエトを能力で破壊した。紙の上の巨大国家はズタズタに切り裂かれた。

「私も加勢するわ」

レミリアは屋外に出ると、グングニルの槍を思いっきり東の空へ投げた。レミリアも自分の手柄が欲しかったのかもしれない。ともかく、こうして、初めての姉妹共同作戦が終了した。なんとアバウトで出鱈目な作戦かと思ったし、さすがにこんな行動ではソヴィエトも共産主義という名の妖怪も倒れたりはしないだろうと思った。

しかし翌日、ソヴィエト連邦は崩壊し、レミリアの手元にグングニルの槍が戻ってきた。

本当に自分たちの力だったのだろうかと信じられない気持ちだったが、しばらくして崩壊した旧ソヴィエト連邦構成国の国境線が、私が破壊した地図の引き裂かれた裂け目にぴたりと一致していることが判明した。

パチュリーは鉄のカーテンが消失したことを確認し、「共産主義という名の妖怪」は中国(キネザ)へ逃げて行ったようだが力が相当弱まり、キネザにも留まっていられなくなるだろう、と言った。レミリアは、それほど力のある妖怪なら是非自分の部下にしたいものだが、と真剣な顔で適当なことを言った。この事件はすぐさま地上を熱狂的な祝祭で包んだ。そんな冬のさなか、ついに怨敵が現れた。

 

ソヴィエト崩壊からしばらくした雪降る昼に、私は蝙蝠たちのアラームで叩き起こされた。

♪大変です。雪に交じって羽根が降っています。天使どもです! †

アラーム(武器を取れ!)に従い私はレーヴァテインを取ったが、そこへ能天気なラッパが聞こえてきた。

「おいおい、まさかあんな音色でジェリコ(イェリホン)のように城壁ごと崩壊しないだろうな」

レミリアがぶつぶつ言いながらやってきて、続いてパチュリーも駆け込んで来た。

「天使用の防御魔法をあちこちに仕掛けてあるから大丈夫だと思うけど」

「どうでもいいけど、防衛戦を私の部屋でやろうとするのはやめてくれないかしら。たまには自分の部屋で戦いなさいよ」

「だって本が破損するじゃない」

「淑女の部屋を他人に見せるなんてねえ」

二人は身勝手なことを言って、当たり前のように私の部屋の真ん中で身構えた。

 

廊下の向こうから、ハレルヤー、ハレルヤー、ハレルヤーと忌まわしくかつ間抜けなカノンが聞こえてきた。

私たち吸血鬼や蝙蝠にもしっかり聞かせようというのか、人間の耳には聞こえない超音波までカバーしているため、百を超える声部が低音から超高音まで積み重なっている。端的に言って五月蠅(うるさい)い。

レミリアが配下の蝙蝠たちへ、ただちに歌い返すよう命令した時、私は嫌な予感がして耳の穴を指でふさいだ。その瞬間、蝙蝠たちが負けじと合唱を始めた。

不協和音が混ざり合って、ガラスを引っ掻くような音の渦が城を囲む広大な空間に炸裂した。

たちまち、歌っている天使と蝙蝠の双方は大混乱に陥った。

♪ぎゃああああ†

自分たちが発した歌声のせいで、蝙蝠がばたばたと天井から落ちて床に倒れた。城外に並んでいたらしい天使たちも悲鳴を上げ、ハレルヤコーラスはぴたりと止んだ。私は耳を塞いでいたため気絶を免れたが、骨を伝わってきた振動で頭痛がしていた。レミリアはまたもや床に倒れていた。

部屋がノックされ、こちらの返事を待たずに扉が開いた。ソフトハット(フェドーラ)を被ってトレンチコートを羽織った気障ったらしい恰好の天使が一人、こめかみを押さえ涙を流しながら長剣を杖にしてよろよろ入ってきた。

「天使の音楽と悪魔の音楽を合わせると酷い曲になるということがよくわかりました」

気絶していたかに見えたレミリアは気障野郎目掛けてさっと槍を突き出したが、よろよろ歩いていた天使は、よろよろ飛び上がって、しかもレミリアの槍をしっかり避けていた。かなり力のある天使のようだった。

「悪魔の家を訪問するのに、天使に歌わせるなんてマナーがなっていないね。とにかく、出すもの出したらさっさと帰りな」

そう言ったレミリアも後ろで黙っている私も無視して、トレンチコートの天使はパチュリーに向かって言った。

「あなたが保護者ですか?」

「私は保護なんてしてないわ。ここには護る者と護られる者の区別なんてないの。あなたはミカエルね」

それを聞いて、私とレミリアはびっくりして跳ね上がり、ドアと反対側の部屋の壁に張り付いた。悪魔の宿敵にして、ヤハウェの横に座る、天使長ミカエルである。

「そうです」

そうミカエルが答えると同時に、ミカエルの頭の後ろから光背が射し、部屋が光で満ち溢れた。私とレミリアは紅い霧を出して光を防いだ。だがミカエルは温和な口調を保って言った。

「私はあなたたちに勧告をしに来たのですよ。ソヴィエトを潰した功績を我らの主は認めて、あなたたちへの討伐は当分行われないことになりました。今のうちに魔界へお帰りください」

それを聞いて、私たちの緊張が解けた。天使はまず嘘をつかない連中なので、討伐を行わないという言葉は信じて良い。たちまちレミリアがその図太さを取り戻してミカエルの眼前に舞い戻った。

「私たちがチャウシェスク政権を倒さなければロムニアにおいてすら力を失ったままだったくせに、よくいうわ」

「もちろん、ただで、とは言いません。あなたたちに素晴らしい贈り物があります」

ミカエルは帽子を取ってコートを脱ぎ、さらに黒い革手袋を外した。するとミカエルは真っ白なセーターに真っ白なウールパンツという服装になった。そして後ろに控える低級の天使に、捧げものを載せた銀製の盆を持ってこさせた。

「まずはこれ」

ミカエルが盆の上の布の覆いを取り去ろうとする前にパチュリーが言った。

「それは要らないわ」

「はて、この世界の最高の書物ですよ」

ミカエルは笑った。そして覆いを取り去った。予想通り、二冊の書物が載っている。

「南米の言語であるグアラニー語で書いた旧約聖書と、北米の言語であるオジブウェー語をカナダ先住民文字で書いた新約聖書です。あなたのお気に召しませんか? パチュリー・ノーレッジ」

パチュリーがちょっと困った顔をした。

「床に置いておくといいわ。クルアーンは?」

「ここはキリスト教圏ですし、あれは翻訳がよろしくないのですよ」

そういってミカエルが指示すると、銀の盆がふわりと床に着地した。

「年頃の御嬢さん方には、装飾品が良いでしょう」

続いて持ち込まれた盆を見ると、上にかかった覆いがXの形に盛り上がっていた。

「それは要らないよ」

レミリアが言った。ミカエルは、きっと気に入りますよ、と言って二つの盆の覆いを開けた。おそろいの金製の十字架がついた首飾りである。私もレミリアも、十字架は苦手でもなんでもないが、悪魔にとっては明らかに喧嘩を売られた状況だ。そしてミカエルの方には悪意など微塵もないのだ。確信犯である。

おそらく腕の良い天使が丹精込めて作ったのだろう、身に纏っただけで神聖な光に包まれるんじゃないかというほど、正義の威厳が込められた十字架だ。私はうんざりして言った。

「処刑台を年頃の女の子の装飾品にプレゼントするなんて、悪趣味極まれりね。キリスト教徒の女性はそういうのが好きなのかしら」

「同じ処刑台なら十字架よりもギロチン台や絞首台を手に入れたいわ。この場であなたたちを処刑するために」

レミリアが言うと、ミカエルは、ほう、っと表情を変えた。

「なるほど、本物志向だったのですね。ではこちらを……」

続いてミカエルは、カーテンのような大きな紫の布が被さった家具のようなものを二セット持ってきた。さっと布を取り払うと、木製の巨大な十字架だ。

「これは、キリストが架けられた十字を完全に模して材質も製法もまったく同じく作った、ローマ時代の十字架のコピーです。装飾品としても使用できます」

「おい、ふざけるなよ。それをどうやって身につけるんだよ!」

レミリアがどなった。

「もちろん、背負うのです。お二人には良く似合うと思いますよ」

私はレミリアと二人で頑張って十字架を背負う姿を想像して、ちょっと可笑しくなった。

「そしてご自身が十字架に磔(はりつけ)られることで、キリストの苦しみを味わうこともできる逸品です」

レミリアは、うーむ凄い趣向だなあ、と唸っていた。この時の着想が、のちのちになってレミリアの紅符「不夜城レッド」に結実するのである。私はミカエルに訊いた。

「ねえ、ちなみにあなた、プレゼント用にどれくらい十字架を用意したの?」

ミカエルの顔がぱっと輝いた。

「それはもう沢山」

「じゃあ、全部床に置いて。私が自分で選ぶから」

私はさっさと天使たちに帰ってもらいたかったのだ。だが。

「ちょっと待って!」

パチュリーが止めようとしたが、ミカエルはうんうんと頷くと、天使に向かって、用意していたらしい十字架を私の部屋に入れるよう指示した。

私はすぐに後悔した。プレゼントに用意されていた十字架の数は、百や二百じゃなかったのである。

たちまち私の部屋は金銀に香木、ガラス細工に人骨、ありとあらゆる素材で出来た、ありとあらゆるデザインの十字架で埋め尽くされた。まるでインカの皇帝の部屋を金製品が埋め尽くす図である。このままでは、部屋から出られない私は十字架に溺れてしまう。

♪フラン、うっかり相手の策にはまってしまったね†

♪困ったわ。十字架を外に排出しないと†

「ミカエル、きりがないから、自分で選び始めるわ!」

そういうと私は、手当たり次第十字架をドアの向こうへ投げつけ始めた。たちまち、部屋の中を十字架が乱舞した。美しい十字架がくるくると回転して飛び、いくつかは下級の天使に突き刺さる。ドアの向こうに落ちた十字架はレミリアとパチュリーが城の外へ投げた。ミカエルは、こんなに美しいのに、と残念そうな顔をして佇(たたず)んでいた。多分こちらの意図はまったく通じてない。

 

こうして、十字架を運びこむ天使と、十字架を投げ返す悪魔の遣り取りは三日三晩続いた。

三日目の晩には、もうへとへとになってしまい、私にもレミリアにもパチュリーにも投げ返す気力がなくなってしまった。

十字架を投げることは楽でも数があまりに多すぎた。結局、溺れることは避けられても部屋にはまだ多数の十字架がうず高く積みあがっている。

疲れて動けなくなった私たちの様子を見て、ミカエルは満足そうに言った。

「そちらにある十字架は全て受け取っていただけるのですね。主も喜ばれることでしょう」

策士なのか天然なのかわからないが、私たちはミカエルの思惑に嵌ってしまったようだった。ミカエルはにこやかにポン、と手を打った。

「私たちの贈り物を受け取っていただいたところで、この地の聖人からもお礼があります」

天使には時間感覚がないのか、三日間続けられた激闘などどこ吹く風で、次の儀礼的行為に進もうとする。

「アンドレイ(アンドレアス)です」

朴訥そうな中年の男がのっそり入ってきた。古代風の質素な麻の衣を纏い、顔つきはどこか西アジアだ。

壁にもたれかかっていたレミリアが空中に舞いあがり、アンドレアスと名乗る男の顔を覗き込んだ。

「どこのアンドレアスよ」

ミカエルがアンドレアスに代わって答える。

「十二使徒の一人の、聖アンドレアスです」

エウロパ系アンドレアス、つまりアンドレやアンドリューたちのオリジナルである。

「ああ、ロムニアの守護聖人だったわね」

パチュリーが言った。

「ロシア(ルサ)も守護しています。三人のお蔭で、この地に再び神の御威光が戻ることになった。おお、主に感謝を」

レミリアが空中でずっこけた。

「言うことは主に感謝か、何しに出て来たんだこのトウヘンボクは」

「ロムニアが解放された記念にワインはいかが?」

「いただくけど、主に感謝はないわ。悪魔に感謝なさい」

聖アンドレアスはきょとんとして、なぜ? という顔をしたのでレミリアはうんざりした顔でこちらを見た。

「ミカエル、十字架の選別で疲れたわ。この間やってきたオーディンはエールの樽を百も振る舞ってくれたわよ。ちょっとぐらいのワインじゃ足りないわ」

ミカエルと聖アンドレアスは、ふむ、と頷きあい、聖アンドレアスは外に出て行った。

「なるほどオーディンのエールと聞かされては、こちらもビールを出さねばなりますまい。聖ベルナルドゥス!」

呼ばれて飛び出て来たのは、いかつい顔した中世風の出で立ちの男だ。

「クレルヴォーのベルナルドゥスです。私が組織した修道院会の修道士たちが作ったビールを、あなたたちに与えましょう。異教の神々の醸した古臭いビールなど忘れてしまうほどの極上のビールをね」

天使たちが沢山の樽を持ち込んだ。十字架とは違って、思わず私たちの顔がほころぶ。

天使たちは椅子に長机、ベルギー(ベルジア)風のビール杯を大量に持ち込むと、天使と悪魔が酒を飲み交わす奇妙な宴会になった。

 

杯に注がれたビールが甘く豊かな香りを発散した。

これはクレヴォーのベルナルドゥスが作ったシトー修道会の分派、厳律シトー(トラピスト)会の修道院で作っているエールビールで、味・香りともに世界最高のビールだという。

持ち込まれたのは、ウェストフレテレンのブロンド、エクストラ八、アブト十二、シメイのブラック(ドレー)、オルヴァルの緑冠、ウェストマールのエクストラ、アヘルのブラウン5、ブロンド5などを十樽ずつだった。

確かに、美味しい。特にウェストフレテレンの三種は、それぞれ異なった香りと味を示しながらも、高度に複雑かつ完成された味わいをもたらした。口に含んだ時の濃厚さ、味わうに連れて進む陶酔、飲み終わった後の余韻と非の打ちどころがない。

「どうです、神への信仰の強さを感じさせる素晴らしい味でしょう」

ミカエルが絡んできた。

「あんたが余計なことを言わなければもっと美味しいんだけど」

すると、顔を真っ赤にして酔っぱらったクレルヴォーのベルナルドゥスも、呂律の回らぬ舌で何事か言い出した。

「私の、名前を、冠した、……ビールも、いかが、です……か」

私たちがはいともいいえとも言わないうちに、ふらふらと部屋の外へ出ると、青や赤、緑のラベルが貼られた瓶を持ってふらふらと戻ってきた。シント・ベルナルデュスというビールである。ミカエルと聖アンドレアスが聖ベルナルドゥスを睨んでいる。なんでも、先ほど飲んだウェストフレテレンのレシピを元に作った商業製品らしい。

ウェストフレテレン・アブト十二とシント・ベルナルデュス・アブト十二を比べると、シント・ベルナルデュスの方が苦味は弱く、甘みと炭酸が強い。ウェストフレテレンに対しては複雑さがやや欠ける大味の気がしたが、これもなかなか美味いビールである。

「悪くないねえ」

私とレミリアは白(ヴィット)、トリペル、ペーター六、ペリオール八、アブト十二とラッパ飲みでするすると空けていった。

そういえば、ベルジアという国はこれほどにもビール作りが盛んだったな、と私の心のどこかが反応した気がした。その時ふと、シント・ベルナルデュスのラベルに描かれた聖人の陽気な顔が目に写った。左手でビールがなみなみと注がれた杯を掲げ、右手の人差し指を立ててにっこり笑う聖人の顔だ。これほど美味しいビールなら、誰でもこんな顔になるかもしれない、と思った時、クレルヴォーのベルナルデュスとラベルの顔が全然一致しないことに気付いた。ラベルの陽気な聖人は真ん丸な頭で白髪だが天辺には毛がない。一方、目の前のクレルヴォーのベルナルドゥスは角張った厳めしい顔つきで、前髪がまだ残っている。

「あれ、このラベルの人が、シント・ベルナルデュスさんだよね?」

クレルヴォーのベルナルドゥスがビクリと動いた。聖アンドレアスがそっと言った。

「嘘をつくと犬に咬まれるよ」

その時、部屋の扉からセント・バーナード犬が飛び出してきた。下級の天使たちが悲鳴を上げて飛び上がった。私の背丈ほどもある大きな犬は身構えた私の目の前で跳躍すると、私の背後に座っていたクレヴォーのベルナルドゥスの腕に咬みついた。

「おお! 主よ許したまえ!」

聖ベルナルドゥスは、大声で泣きながら、腕に噛みついたバーナード犬を引きずってドアの外に出ていこうとすると、ドアから一人の人物が現れて陽気な声で言った。

「主に感謝! さあ、イースター(パーク)瓶とクリスマス(ノエル)瓶も持ってきましたよ」

出てきた男は、ラベルの瓶とそっくりな顔だ。

「あなたが本物のベルナルドゥス?」

私が訊くと、パチュリーが言った。

「なるほど、セント・バーナードね」

「ご名答。ベルナール・ド・マントンです」

「アルプスの峠に救助小屋を建て、セント・バーナード犬の名の由来にもなった、アオスタ大聖堂の助祭長ベルナール・ド・マントン。あなたがこのラベルに描かれている聖人ね」

パチュリーが色とりどりの大瓶をテーブルの上に並べながら的確に解説を入れた。

「名前なんてどうでもいいよ、美味しければ」

レミリアはベルナール・ド・マントンから差し出されたイースター瓶からポンッと小気味よい音とともにコルク栓を指で引き抜くと、間を置かずにラッパで飲み始めた。ベルナール・ド・マントンはにこりとして言った。

「名前は重要ですよ。そう思いませんか? クレルヴォーのベルナルドゥス」

犬が離れて泣き止んだクレルヴォーのベルナルドゥスが答えた。

「しかり」

「何が、しかり、よ。美味しいか美味しくないか、それ以外の評価なんて必要ないじゃないの」

レミリアの反論に、陽気な方のベルナルドゥス(ベルナール)が、ふ、と笑って私の方を向いた。

「そちらの御嬢さんのお名前は?」

「私はフランドール・スカーレットよ」

「ほうら、名前は重要でしょう。あなたの名前がフランドールだから、フランドル(フランドラ)地方を擁するベルジアのビールを飲むことになった。これが主の思し召しです」

空になったイースター瓶をぽいっと床に投げると、レミリアが尋ねた。

「それは美味しい、の評価に含まれるのではなくて?」

「いいえ、ふさわしいか、ふさわしくないか、に関わるのです。格、の問題ですよ」

「ああ、なるほど。天使もたまには良いことを言う」

酔いが廻ってとろんとし始めたせいか、珍しくレミリアが素直に受け入れた。

「それに、味に美味しいか美味しくないか、絵に美しいか美しくないか、遊びに面白いか面白くないかの評価しかないなら、ビールの味もつまらなくなりますよ。この世には『慣れ』も『飽き』もありますからね」

レミリアがふっと笑った。

「こんなに美味しいシント・ベルナルデュスだけど、その味に熱中していた人間も、やがて慣れて飽きてしまったら飲まなくなってしまうのね」

クレルヴォーのベルナルドゥスが反論した。

「ベルナール・ド・マントン、その考えは異端ぎりぎりですぞ。ブディストじゃあるまいし。人間が天国に行くか地獄に行くかしかないように、世の中の評価は究極的には二分法以外にありえない。そうでしょう? パチュリー・ノーレッジ」

パチュリーが、ふと暗い顔をした。私は密かにびっくりした。なぜこの話題がパチュリーに突然振られたのかわからなかった。

「二値論理の有効性は認めるわ。でも、三値論理も可能じゃないかしら? 二位一体ではなく、三位一体にしたのは『精霊』がどうしても必要だったからでしょう」

パチュリーの返答で、いったいどういう話の展開になっているのかますますわからなくなった。どうやら異なるレベルでの会話が同時に進んでいたらしい。混乱している中、私はふと思いついたことを漏らした。

「人間が、キリスト教に『飽きる』ことはあるのかしら? この世に『慣れ』や『飽き』があるというなら」

場が静かになった。陽気な聖人が苦笑した。

「いや、それはありませんよ。全ては神意のままですから」

天使たちが拍手をしたが、一人ミカエルは黙ってビールの杯を傾けていた。

私は、やはり人間はキリスト教に飽きることもあるのだ、と思った。キリスト教だけではない、悪魔への興味も科学への熱中も文化の美しさも、そしてこのビールの美味しさもなんだって、飽きたので捨てようという人間の生理現象には勝てないのかもしれない。

私には共産主義という名の妖怪が敗れた理由がなんとなくわかっていたのだ。超自然的な現象としては、私たち姉妹による破壊工作の成果だった。しかしその根柢には人間たちが共産主義に倦み疲れていたことがあった。共産主義を打ち捨てる行為が、私たちの行動として顕現しただけではないのか。

「この美味しいビールはベルジアで最も広く飲まれているビールなのかしら?」

陽気な聖人は初めて、ちょっと複雑な顔をした。

「このタイプのビールは、もうベルジアでは主流ではなくなりました。美味しいのだけれどね」

そう言って、ベルナール・ド・マントンは、私の杯にシント・ベルナルデュスを注いだ。

 

こうしてもっぱら天使たちが楽しんだ宴も終わり、用意されたビールはいつの間にか全て空になっていた。天使たちも聖人たちも満足げにドアを出て行く。来たときと同じようにフェドーラを被ってトレンチコートを着込んだミカエルは最後に出ていく時こう言った。

「サリエルから聞かされていた通りの、面白い娘たちでした。しばらく待ちますから、早く魔界に帰り、悪魔としての役割を全うしなさい。そうしないと悪魔への討伐が始まります。私たち自ら手を下さなくとも、信仰に目覚めた村人たちによってね」

ミカエルの澄んだ目は、それが間違いなく起こることを言外に現していた。そして、部屋の隅にうっちゃられた十字架の山を意味ありげに眺めてから、私たち姉妹に向かって、すっ、と微笑んだ。

村人が自分たちを本物の悪魔ではないかと疑った時、この大量の十字架を村人に見せて誤魔化せ、ということなのだ。

「それからパチュリー、あなたもこの地への興味は失っているでしょう。東に行きなさい。インド・エウロパ系の言葉を話さず、まだキリスト教が及んでいない東へ」

「キリスト教を及ぼすのに失敗した東、でしょう? まあ考えておくわ」

パチュリーは北米の文字で書かれた新約聖書をひらひらと振った。

ミカエルはさっと羽を翻すと、ドアの向こうに姿を消した。

 

こうして、天使たちとは対決することもなく別れた。私たちは、鉄のカーテンが消失した後の大変動のためにしばらく大人しくしていた。村ではキリスト教の祝祭が増え、一方で年をとらないレミリアたちを村人達が奇異に感じ始めたのだった。

私はだんだん姉に対して不満を漏らすようになっていた。地上を支配するつもりで、強大な妖怪を倒し地図を塗り替えてきたのに、ちっとも野望は達成できないし、目標だった月に行く計画も何も始まらなかったのだ。

レミリアは私をなだめようというのか、国外から入ってきたVHSというテープで映像を再生する機械を持ち込み、私の部屋で盛んに映画を観るようになった。よく覚えているのは「禁じられた遊び」という映画で、そこに出てくるポーレットという少女が非常に可愛らしくて何度も観た。その少女は無垢で、しかもキリスト教に汚染されていない。そして最後のシーンの哀しさ。私はこの少女に激しく共感した。あまりに可愛いので、後にその少女が人間だったことを知った時はショックだった。あの子はやっぱり悪魔なんじゃないだろうか。

こうして映画に夢中になったが、レミリアに対する不満が収まったわけではなかった。一番の不満は、ベルリンの壁崩壊、チャウシェスク政権崩壊、ソヴィエト崩壊という私が主導して起こした事件が結果として単に古い神々や一神教の天使どもの利益にしかならなかったということなのだ。とどのつまり、私とレミリアは、神々の駒として動かされたに過ぎないのではないか。

 

ある晩、映画を観終わった後、私はツイカを飲みながらレミリアに絡んだ。レミリアは運命を操ることなんかできなくて、いつも利用されるだけの駒になる運命を握らされているのではないか、と。

♪そんなことは絶対にない。逆だよ。あいつらが私の駒なの。運命を私に操られているんだ†

私はそれが物凄く疑わしかった。状況を見る限り、利用されたのは私たちの方なのだ。

♪レミィ、じゃあ私が今からこの土地を、エウロパ半島を破壊してみようか? レミィは困らないだろうけど、神々や天使は困るでしょう? †

レミリアは目を丸くしたが何も言わなかった。

私は、朦朧としながら、エウロパ半島の目を手の平に移すと、えいっと握り潰した。たちまち、視界がぐらぐら揺れて、続いて真っ白な光に包まれた。

エウロパ半島の全域を丸ごと吹っ飛ばしたと確信した。と同時に、私は目が覚めた。

 

「あれ?」

「起きた?」

隣にレミリアがいた。先ほどと同じ光景である。

「おかしいな。今エウロパを吹っ飛ばしたはずなのに」

「夢で? 物騒ね。なんでそんなことをしたのよ」

いつの間にか後ろに現れたパチュリーが訊いてきた。

私は今まで現実だと思ってた夢の内容を二人に説明した。二人は、夢とはいえなんて馬鹿なことをしたんだ、とか、お酒の飲み過ぎで悪夢でも見たんでしょう、などと笑って相手にしてくれなかった。私はその言葉で突然、物凄く怒りが湧いてきた。二人へ、のではない。私は、現在の正しい状況がわかってしまったのだ。私はある準備をしてから言った。

「じゃあ、今から地球を吹っ飛ばしてやるわ」

「え?」

「ええ?」

「本気よ」

「馬鹿やめろよ」

「お願い止めて」

二人が全力で制止しようとした。が、私は宣言する前から掌中に地球の目を移していたのだ。

私は目を握りつぶした。瞬時に、重力がふっと消えて、部屋の外から壊乱の音が聞こえてきたが、それも消えた。周りが静かになった。グラスの中の酒が球になって宙に浮いた。地球が破壊されたことを悟ってぽかんとしている二人に私は言った。

「安心して、運命を操れるお姉様。さっきあなたは私がエウロパを破壊するのを止めなかったわ。なのにそれは夢にされた。だから、これもきっと夢にされるわ。それにしても、地球が破壊されてもこの部屋は破壊できないなんて、パパの魔法は本当に強力だわ」

「フラン、お前は間違っている。夢にされたのすら、私の能力だったんじゃないか? 私が望んだから……」

そう言って、レミリアは宙を舞う球状の酒にがぶりと噛みついた。

パチュリーは溜息をついて、私に言った。

「もう限界だったのね。これがあなたの夢で済んだら、起きた後魔界に帰るよう私とレミィを説得してね」

そう言って、パチュリーも近くに浮かんでいる球の酒のところまで宙を泳ぐと、球に吸いついた。

私は二人の仕草を見て、なぜかうらやましくなって、自分の回りにも浮かんでいる酒の塊はないか探したが、見つからなかったので、酒の瓶を逆さにして空中に出そうとしたが出てこない。ブンブンと遠心力をかけるとようやく出てきたので、それに吸いつこうとして……目が覚めた。

 

私は、酒の入ったグラスに頭から突っ込んでいた。巻き込まれて酒瓶が何本も倒れて転がり、泡立った液体がテーブルの上に溢れた。

「ちょっと! 大丈夫?」

パチュリーが駆け寄ってきて、慌てて私を抱き起したが、抱き起した勢いで、私は椅子ごと後ろに倒れた。ガターン、という音とともに床に転げ落ちた私は激しくむせた。

「珍しいな」

レミリアは一言そういうと、酒瓶とグラスを脇によけ、テーブルナプキンを持ってきて私の顔を綺麗に拭き始めた。この時の私の顔は、涙と鼻水と涎と酒にまみれたたいそう酷い顔だったらしく、のちのちまでレミリアにからかわれることになる。

私は、茫然として、しばらく二人にされるがままでいた。びしょびしょになった私の服に気付いて、パチュリーは私の服を脱がそうとし、レミリアは私の顔を拭き終わると別のテーブルナプキンを私の髪に当てた。

私はようやく状況がわかったので、右腕を頭上に掲げてから、力を抜いた。すると、脱力した右腕はすとんと落ちて、私の髪を拭いていたレミリアの顔面にぶち当たった。

「こら暴れるなよ」

「重力がある」

レミリアは拭く手を止めてパチュリーと顔を見合わせた。

私は、くっくっく、と笑ってから、言った。

「レミィ、パチェ、魔界に帰ろう」

「妹様の頭の打ちどころが悪かったのかしら」

「これ以上おかしくなってもらっては困るんだが」

二人は酷いことを言っていたが、どこかで私の様子から察したことがあったのだろう。

「でも、確かに頃合いかもしれないな。村人も私を避けるようになったし」

「私もこれ以上この地にいる理由はないわ。読める本は全部読んじゃったから」

♪フラン、ちゃんとした理由はあるんだろうな†

♪あるわよ。私はさっきエウロパ半島を破壊し次いで地球も破壊したのよ。でもどちらも私の夢にされたわ†

♪なるほど、決まりだ。帰ろう†

こういう時のレミリアの察しの良さは流石である。だが、運命の回転の速さはそれすら上回った。

レミリアが決意したその時、テーブルの向こうに魔法陣が出現したのである。パパの魔法陣だ。魔法陣から、パパの部下の小悪魔が現れた。

小悪魔はレミリアとパチュリーが私を介抱する図と目の前のテーブルの惨状に面食らったのか、顔をしかめてのけぞったが、すぐに姿勢を正して言った。

「ようやく見つけました。お嬢様方、ただちに魔界に戻っていただきます。今魔界は大変なことになっているのです」

パチュリーがびっくりした。

「魔界にもばれないように結界を張ってあったんだけど。どうしてわかったのかしら」

「それはこちらの方から教えていただいて」

魔法陣から、美しい女性の亡霊が出てきた。赤いスカーフに真っ白いブラウスに、赤いスカートという出で立ちだ。

「初めまして。ヴラドの妻です。貴方たちがやって来たので、入れ替わりに魔界に遊びに行ってたんだけど、共産主義が倒れたって聞いて帰って来たの」

城の前の川に投身し、ヴラドの吸血鬼化を招いたと伝説に残った女性である。私たちは、そういえば本来の城主がいるらしいことをオーディンが言っていたな、と今頃になって思い出したのだった。

「そういうわけで、エリス様の命令で、強制送還致します」

エリスとはパパの名前である。小悪魔の声を聞いて、ドアから慌てて魔界の蝙蝠が入って来た。入れ違いに、ロムニアの蝙蝠たちが部屋から出ていく。

♪お前たち、今までありがとう†

♪ごきげんよう†

酔った勢いで思考がまとまらない私に代わって、レミリアがロムニアの蝙蝠と挨拶を交わした。魔界の蝙蝠が全て部屋に入った時、小悪魔の背後の魔法陣が大きく膨れ上がって、部屋の六方に張り付いた。そしてがくん、と落下するような感覚が身を襲った。

 

落下感が収まり、どこかに着地したのか地響きがすると、部屋の向こうから懐かしい魔界の喧騒が聞こえて来た。

そして、ドアが開くと、パパとママが入ってきた。数年ぶりの再会となったパパはずいぶんやつれた顔をしている。パパは無言でこちらに飛んできて、私の髪を拭く格好のまま固まっているレミリアの前に立つと、レミリアの頬を張った。びっくりするほど、良い音がした。

 

そして、一人の女性が入って来た。魔界の神、神綺だった。

 

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