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第三章

夜明け2 蝙蝠のクォリア 〜 A Study in Scarlet.

♪月々抄 〜 Oriental Orienting toward Orientation‐Oriented Orient

 

第二星 邪眼の堕天使

 

禍々しい光が心地好く照らすという魔界、その中にある一つの都市、おぞましい瘴気が薫る街角にスカーレットの館はあった。私はその館の中で五百年ほど前に姉のレミリアと吸血鬼になった。もともと生まれてから五歳になるまで私は人間だったらしい。そして二人の吸血鬼、つまり悪魔としての両親から血を与えられて吸血鬼になったのだ。吸血鬼の年齢は人間として生まれた時から数えるか、悪魔になってからの年数を数えるか二通りあってややこしい。

人間の頃の記憶はほとんどない。私が吸血鬼になった時に私は館の地下の一室に隔離されたらしい。物心ついた頃には私の視界に部屋の床と壁と天井以外のものはなかった。いや、視界はずっと暗闇のままだった。ただ壁からの反射音が幾重にも波紋のように広がる中、幽かに外から伝わる外界の音が満たす聴覚空間、それが私の部屋であり私の世界だった。私の心にはいつもどこかに冷たい石の壁の感触がまとわりついていた。

姉のレミリアはというと、私とは違い最大限の自由が与えられていた。召使も友人も沢山持っていて、よく屋敷に友人を招いては屈託のない遊びに興じていた。そして、パパやママと時々私の部屋を訪ねてきて一緒に食事をした。

パパは金髪の髪に大きな羽根を持った悪魔で、左頬に星型の痣(あざ)があった。ママも美しく長い金髪に金色の眼をした悪魔だ。二人とも強大な吸血鬼で、魔界では有名な夫婦だった。

私は吸血鬼になってからずっと、パパから事あるごとに「部屋からも魔界からも出てはいけない、出るときっと死ぬことになる」と言われていた。部屋には私が出られないようパパが強力な魔法をかけていたので、部屋から出られないなら魔界から出られるわけがないじゃない、と思ったものだ。隔離されていたとはいえ、吸血鬼はエコーロケーションで会話ができるから、吸血鬼同士屋敷の中の者とも外の通りを行き交う人ともおしゃべりをすることだって出来た。そう、あまりにも部屋から出られないことが自然だったのでずっと不自由を感じてはいなかったのだ。あの晩までは。

レミリアの口癖を借りるなら、運命が変わったといえる出来事は今から二十年ほど前のある夜に起こった。両親の元に魔界を監視している堕天使、サリエルが訪れたのだ。サリエルは一瞥(べつ)しただけで相手に死をもたらす邪眼の持ち主としてひどく恐れられていた。サリエルに比べれば、この魔界を統括する神綺(しんき)の方がよほど親しみやすい人物だろう。サリエルと私の両親は外部に音が漏れない特殊な応接室で長い間話し合っているようだった。私とレミリアは緊張していた。

♪あの人、パパやママと何を話しているのかしら†

♪それはあれじゃないかしら、魔界の軍勢が地上に侵攻するという話†

♪ねえレミィ、その噂何度目よ。四十年前にもそんな噂が流れなかった? 地上を支配している強大な妖怪がもうすぐ倒れるから、その隙を突いて攻め込むんでしょ? †

♪今回のは本当らしいよ。パチェの話に寄れば、何人かの魔法使いが地上へ偵察に出ているって。お前たちもそんな話を聞いたんだろ? †

♪ええ、最近、地上の町がどんなだったか噂で流れることが多いですね†

私たち姉妹に付いている使い魔の蝙蝠たちが、噂の詳細について解説をやり出した。

その時、応接室からサリエルが出てきた。そして静かに言った。

「お子さんのレミリアとフランドールに会っておきたいのですが、よろしいですか?」

私とレミリアはびっくりした。

「わかりました。ご存知の通りフランドールは部屋から出られませんから、フランドールがいる部屋まで案内いたします」

パパが答えるとサリエルが頷くのが聞こえた。

♪レミィ、お前もフランの部屋へ行きなさい。フランは身だしなみを整えなさい†

♪待って、血まみれの服を着替えないと†

ママがため息をついた。

♪レミィ、そのお行儀の悪さは直さないと。着替えはいいわ。そのままフランの部屋へ行きなさい†

えー、とレミリアがこぼした。

♪パパ、あの人はどうして私の部屋に来るの? それから、何をお話すればよいのかしら? †

♪サリエルは、ただ二人の様子を知りたいと言っている。私もママも外にいるから、何か訊きたいことがあれば恐れずなんでも話せばよい†

♪だってさ、私は黙っているからレミィに任せる†

♪あらかじめお客様が来るって言っといてくれれば良かったのに! †

レミリアが風を切り廊下を飛翔して来た。そのゴオオオオという音が館中に轟く。

その時、部屋の扉がノックされた。

「どうぞ」

私は空中から床に舞い降りサリエルが入るのを待った。目が開いていたらとふと思い、動悸が激しくなった。

真っ暗な部屋の、いや私の聴覚空間の中に青白い堕天使が入ってきた。超音波の反射で聴くと、予想したよりも温和な顔をしており、目は閉じたままだった。安心した。サリエルの後ろからレミリアが飛び込んできた。臭いを嗅ぐと、予想したよりも激しく汚れた服を着ていた。あのバカ、今夜はまた盛大に血をこぼしたわね、と顔をしかめたのを今でも憶えている。

「遅れてごめんなさい、私がレミリア・スカーレットよ」

レミリアは足を器用に扉へ引っ掛け、ドーン! と勢いよく閉めると、サリエルの頭上を越え、私が座ろうと用意していたソファーの上で翻(ひるがえ)り、そのソファーにすとんと座った。

♪レミィ、いい加減にしてよ、スカーレット家のお嬢さまなんだから! †

♪ああ、いつもの癖で、足を使った方が便利だから†

「初めまして、サリエルです」

サリエルの羽が左右に広がった。私は部屋の隅にあった椅子を自分で運び、サリエルに勧めた。

「あなたがフランドールですね」

「はい」

「私たちに何の用かしら?」

音を立てず椅子に腰掛けたサリエルに対し、レミリアは物怖じせずに訊いた。私もソファーに座った。

「二人と話す前に、この部屋の情報を遮断しましょう。ご両親に会話が筒抜けでは自由に話せないでしょう?」

そう言って、サリエルは空中に魔方陣を描いた。部屋の外の音が消えた。サリエルは続けた。

「二人には何か望みがありますか?」

唐突な質問だった。望み? 望みとは一体何を指すのだろう? そう私が思った時、レミリアが即答した。

「外の世界に出て暴れることよ! サリエル、あなたは私の望みを叶えてくれるのかしら?」

サリエルは顔をこちらに向けた。

「フランドール、あなたの望みもレミリアと同じでしょうか?」

私は答えに窮した。

「ん、いきなり言われてもよくわからないわ。私は部屋から出られないから」

その時、サリエルに対し少しむかついた感じを覚えた。私が部屋から出られないのは魔界でも有名なのだ。それを知りながら、私にレミリアと同じことを望むのかと聞くなんて! そして私は別のあることを思いついた。サリエルはその邪眼で相手を死に至らしめるということだが、私が自分の能力でサリエルを破壊するのと、どちらが速いだろうか。その瞬間、私はその考えの虜になって、他のことが頭から抜け落ちた。

 

♪……フラン、ねえ、今の本当かな? 私たちが特別な悪魔だって話、凄いことだと思わない? ……って聞いてる? ちょっと! †

♪え? ああ、レミィごめん、ずっと自分の望みが何か考えていて……†

♪お前、危ないことを考えたんじゃないだろうね。止めてよ、サリエルに睨まれたらイチコロなんだから†

はっと気づいた時、レミリアとサリエルは会話に花を咲かせていた。今でも会話を弾ませることにかけてレミリアより達者な者は知らない。魔界の誰からもあの子は大物に育つと言われていたのはこんな一面があったからかもしれない。サリエルの方を見ると、目を瞑ったままのサリエルが微笑した。私は自分でも赤面したのがわかった。

「今から五百年ほど前から、地上でキリスト教を信仰する人間が急激に増え始めたのです。同時に魔界に対して恐怖する人間も急増しました。それは魔界がヤハウェと争う世界だからだというだけでなく、キリスト教そのものが暴力的に布教を行ったためです。魔界に流れ込んだ大量の恐怖は魔界そのものの力を膨張させました。その充満したエネルギーを吸収するために、このスカーレット家で特別な悪魔を育てることになり、結果あなたたちが姉妹の吸血鬼として誕生することになったのです。二人に特別な力が備わっているのはそのためです」

  驚くべき話だった。しかしレミリアの関心は別のことに向かっていた。

「私たちが特別だってことは、そんな理由がなくても明らかよ。それより、どうして地上の人間と魔界が関係あるのかしら」

ふむ、とサリエルは少し思案すると、さらに驚くべき事実を語り始めた。

「なぜ地上の人間が魔界に関係するのか。それは我々魔界に住む者、そして魔界それ自体が、人間の脳に左右されるからです。それだけではない、魔界に住む悪魔、楽園を支配するヤハウェや天使、仏教徒の考える地獄や如来、オーディンの信徒が崇拝するヴァルハラ、そうした異界と呼ばれるもの、異界に住むもの全ては、人間の脳が創り出している存在なのです」

「そんな馬鹿な! 人間は私たちの餌じゃないか。それが造物主のように私たちを造りだしたなんて!」

レミリアがそう言ったのと同じように、私も混乱した。今の話ではその造物主すら人間が創り出しているというのだから、一体どうなっているのか。

「人間が悪魔の餌だというのはその通り。なぜなら、人間は悪魔に恐怖を抱くからです。同じように人間は神に信仰を抱く。だから悪魔も神も存在できるのです。物理的な面において人間の脳がこの宇宙の根柢となり、様々な現象や考え方に対応した異界と我々のような異界に住む者を生み出し、一方我々は人間に対し上位の存在として振舞う、それがこの宇宙の理です」

「どうして人間なの? 他の生き物や物体は、悪魔に恐怖しないのかしら?」

「人間だけなのです。脳という単純で化学的な思考中枢が必要なのは。他の存在は思考する力を持たないか、我々のように化学的な媒介を必要とせず思考できる上位の存在であるか、どちらかです。だから我々は人間の脳を刺激してやらねばならない。上位の存在は、人間に恐怖を与え、あるいは信仰の拠り所となり、また憧れや羨望を引き起こすことが必要なのです」

なるほど、そう言われると、悪魔が人間に恐怖を与えることで生命を得ていることが理解できた。

「なるほどね。あなたが天から堕された理由も、人間が関係していたんだとか」

レミリアが言う通り、サリエルは地上の人間に「月に関する重大な秘密」 を教えた罪で、ヤハウェの怒りを買い、魔界に堕されたという話だ。

「前から聞いてみたかったんだ、サリエルが知っている、月の秘密って何?」

レミリアの不躾な質問にもサリエルは答えた。

「良い質問です。特別に教えてあげましょう。人間が脳で創り出すことによって異界が存在するという話をしましたが、地上にはさまざまな人間がおり、創り出される異界も様々です。例えば、とある人間は月に兎が住んでいる世界を創りだした」

「月に兎、妙な組み合わせね」

「その人間たちには月で兎が米のパンを搗いている様が実際に見えるそうです。同じように太陽には三本足の烏が住むという。しかしそれだけではありません。兎の住む月には一つの都があり、その都には……」

サリエルが間をおいた。レミリアが前のめりになった。

「その都には、全宇宙のあらゆる善き神々が住んでいます」

「あらゆる!」

流石にこの話には疑わしさを感じた。そもそも様々な異界に存在する神が一堂に会することなどありえるのだろうか。

「嫉妬深いヤハウェが、他の神と共存するなんて、考えられないわ」

私は思い切って発言した。レミリアがうんうんと同意した。昔の主であるヤハウェの話題を振ったにも関わらず、サリエルは動揺もせず静かに応じた。

「人間が我々の存在を左右するということは、人間が滅びないように、かつ人間の脳が退化しないように、我々が適切に管理してやらねばならないということです。そして、様々な異界のさらに上位の存在として、神々の居住する場所『月の都』が設置され、そこに住む『月の民』が神々の代理人として人間の思想や技術を全体的に管理しているのです。しかしフランドールの言う通り、神々の間の対立は根深いものがあり、その軋轢が月の民同士の闘争を生んでいます。それが地上に投影された時、地上で宗教戦争が起こるのです」

あまりに話が突飛だった。述べられたことを理解しようとして私が黙っていると、レミリアが発言した。

「わかった。月の都へ行って神々をみんなとっちめてやれば、全宇宙は私たち悪魔のものになるということね!」

「ふむ。確かに間違ってはいません。悪魔が神々を支配下に置き信仰と恐怖を一体化させれば人間を支配することはたやすい。ちょうど今地上で大きな勢力を持っている妖怪も同じようなことをしています」

「最初に言った望み、外の世界で大暴れしたいと言ったけど、まず月に行きたい。どうすれば行けるのかしら」

「月に行くなら、地上を通って行くのが近いでしょう。焦ることはありません。今より十年後、魔界の軍勢が地上に攻め込みます。その時二人にも軍令が出るでしょう。もしかすると月へ行くことになるかもしれません」

「私が? 部屋の外に出られるの?」

サリエルの話はどれも信じられないような内容だったが、一番衝撃を受けたのがこの話だった。

私は、部屋の外へ出ることがどういうことかよくわからず、そのことを考え出した。

 

♪フラン! 聞いた? ある地域では明けの明星はルシファーじゃなく、神様扱いなんだってさ! †

私はまだ考え事に熱中していた。

♪ええと、ルシファーが神様? よくわかんないけど……†

♪もう……面白い話なんだから聞いてないと損するよ†

サリエルの話では、明星を天香香背男命(あまのかがせおのみこと)と言う名の神として祀る人間もいるという。

ただし話を良く聞いてみると、悪魔と大して変わらない性格のようだ。なんでも、地域によって同じものが別々の上位の存在として信仰されたり恐怖されたりすることがあるのだという。いわばそっくりさんだ。

「へえ、じゃあサリエル、あなたにも別の世界にそっくりな存在がいるのかしら? 医術の才を持ち、月の運行を司り、堕天した者を管理する役として絶大な権勢を誇っていたにも関わらず……自ら楽園から堕天してしまった、そんな風変わりなあなたにそっくりな人が?」

レミリアはかなり挑発的なことをサリエルに言った。この女は肝が太いのか調子に乗りやすいのか、いつもだんだん言いたい放題になっていく。サリエルは苦笑しながら答えた。

「ええ、確かにいますよ。私にそっくりな者がね。もっともその者は私のような眼は持っていませんが。あれは今ごろ何をしているか……」

「へえ、会ってみたいものだね、あなたにそっくりな人にも」

 

扉がノックされ、両親が入ってきた。随分長く話していたので心配したのだろう。サリエルは、今夜話したことを忘れないように、といって会釈して出て行った。両親がサリエルを送りに屋敷の外へ出たのを聞くと、私たちは興奮を抑えられなくなった。

♪聞いた? あと十年で地上に攻め込むんだって。私が部屋から出られるなんて! †

そう感動していた私を尻目にレミリアはとんでもないことを言い出した。

♪どうだかね、四十年前だって攻め込むと言って攻め込まなかったじゃないか。それより、私とフランで今すぐ地上に攻め込んで、十年後のこのこ地上に出てきた魔界のみんなをびっくりさせてやろうよ! †

♪ええっ? あんたはともかく、どうやって私は地上に出るのよ†

♪十年後に出られるなら、何かパパの魔法を解く方法があるのさ。それを見つけて連れ出してあげるよ†

♪私より魔法の下手なあんたがパパの魔法を解けるとは思えないけど†

♪パチェにやらせるから大丈夫よ†

♪またパチェを泣かせる気? 以前もこの部屋の魔法を解いてもらおうとして防壁に襲撃されてパチェは死にかけたのよ†

♪まあまあ、待ってなさいよ†

 

パチュリー・ノーレッジはこの頃すでに私たちの百年来の友人で、なかなか面白い魔法を使う少女だ、と私は思っていた。パチュリーは絶対に無理だと最初断ったそうだが、数日後に最近外の世界に行ったという知り合いの魔法使いの娘を一人連れて部屋を訪れた。もちろん両親がいない時を見計らって、である。

「妹様、久しぶりね。この部屋の魔法は残念ながら私には解けそうにもないの。でも、地上に行きたいのなら、この人に相談すればいいかもしれない。アリスさんよ。最近、ロッポンギという地上の世界の町へ行ってきたとのこと」

パチュリーは来客用のランプを灯した部屋に入ってきながら、紹介をした。パチュリーの後ろから出てきた娘は、抜けるように白い肌と見事な金髪を持っていた。正真正銘、北欧系の淡い金色の髪だった。瞳は金――フィヨルドの海に射す夏の朝日を思わせる輝かしい黄金色。肌はクリームのようになめらかで、頬にほんのりと薔薇色がさしている。まさに一幅の清涼剤のような幼い少女だった。

「初めまして。アリスといいます。フランドールさんとレミリアさんね。お二人のお噂はかねがね聞いております」

アリスは魔界でアーケードゲームなる視聴者参加型の人形劇を演じることで名の知られた魔法使いだった。視聴者はコインを投入して人形を操作して戦い、人形が倒されると終演になるが、コインいっこいれる、と舞台の幕に文字が浮かび上がっている間にコインをもう一つ投入すると、コンテニューすることが出来る。つまりコイン一つで楽しむには、視聴者にもそれなりの人形操作の技術が要求される。レミリアがそれを邪悪な人形遣い増殖計画だ、と笑って話していたのを憶えている。

私は聴覚空間の中で、アリスの音像の意外にも幼い容貌を興味深く捉えつつ、部屋からも魔界からも出ることを禁じられていること、部屋から出られない魔法がかかっていることを伝えた。

アリスは、なるほどと言った後、パチュリーを向いてこう言った。

「ならば、部屋ごと外の世界へ出てしまえばいいんじゃないかしら」

「そんなことが可能なの? この部屋を魔界のゲートまで運ぶには相当の魔力が必要だという気がするけど」

「この世界の時間と空間は連結しているから五次空間から見れば距離というものはほとんど意味が……」

なにやらパチュリーとアリスが難しい話を始めたので、私とレミリアの方は召使に持ってこさせるケーキは何が良いか議論し始めた。トルテ、プディング、マカロン、エクレア、グラニテのどれか、まで決まったところで、パチュリーとアリスの話の方もまとまったようだ。

レミリアは、私の制止も聞かず召使にトルテ、プディング、マカロン、エクレア、グラニテを全部持ってくるよう命じると、アリスに意見を述べさせた。アリスの結論によれば、ゲートは通せるがゲートを開ける力がないとのことだった。

実は、アリスは元々人間であり、地上の美しい魔法都市ブカレスト(ブクレシュティ)に住んでいたそうだ。その都市が最近になって破壊されることになり、都市に住んでいた悪魔達が都市ごと魔界に引っ越したのだという。

ところが、どういうわけかその時不幸にも人間として、ただ一人道連れにされてしまったのがアリスなのだそうだ。アリスはその後魔界で人間の生命を捨て魔法使いになったが、地上の世界と近しい性質を持つためか、地上との行き来を一般の悪魔よりも容易に行えるようだった。それだけでなく地上のあちこちでアリスという名の少女を見かけるので謹慎しろと、魔界の創立者である神綺に怒られたばかりだという。地上侵攻の偵察が始まっているという噂の元が、実はアリスの地上遊覧だったと知って、私は噂がいかに当てにならないか理解した。続いてアリスは、一般の悪魔は部屋程度の大きさのゲートを通すには特別な許可が必要だが、自分なら元々住んでいた地上のブクレシュティ近くにゲートを通すことを許可なしで行える特権があると言った。ただしゲートを開けるために空間を破壊するエネルギーが必要だから、今の自分には難しいだろうとも。

アリスやパチュリーには聞こえなかっただろうが、アリスの一連の話が始まると屋敷中の蝙蝠が動揺し始め、話が終わる頃には渦のような超高音の怒号が沸き起こっていた。

♪いけません、その魔法で外へ出てしまえば、ご両親がどれほど悲しむか†

両親に付いている蝙蝠が諌めて来たが、レミリアはそれを無視した。

「なるほど、空間を破壊するのがネックなら、我が妹フランドールが行える。ただちに外へ向かおうじゃないか。フランとパチェはさっそく準備をするんだ」

「レミィ、せめてケーキを食べてからにしたら?」

不安を感じたのだろう、パチュリーがそう言った。

♪本気ですか? おい、誰か止めろ! †

「ぐずぐずしていると、蝙蝠どもがパパとママに言いつけるからね。アリスさん、地上にケーキはないの?」

「地上にもケーキはあるけれど、今のルーマニア(ロムニア)で沢山食べられるかどうか……」

「存在するなら問題はない、ただちに移動したい。パチェは部屋の中に。フラン、出来るだろう?」

アリスは部屋の外に魔方陣を布きに出て行った。蝙蝠がアリスを妨害しようと大群で向かって来たが、レミリアは紅い霧を廊下に充満させて防いだ。私は自分でも驚くほどはっきりと、ゲートを開くために破壊が必要な空間の「目」を感じ取っていた。

♪あの、お嬢様、本気なのですか? 失敗するかもしれませんし、地上で何が起こるかもわかりません。なによりご両親からどんな罰を受けるかも。妹様、どうかゲートを開けないよう†

私たち姉妹付の蝙蝠たちも不安を隠せないようだ。私はレミリアの勢いに圧倒されてずっと黙っていたが、すでに自分の手の中へと空間の目を移していた。確かにこのチャンスを逃したら、魔界から出る機会はそうそうないかもしれない。十年後に外へという話は、私もレミリアも直感的に胡散臭いものを感じていたのだ。なぜなら、その後パパとママにその話をしても、そんなことはさせない、と突っぱねられてしまったからだ。

♪大丈夫、運命が私を導く。絶対に失敗はしない。パパの腹心の蝙蝠があれだけ慌てているのがその証拠だ。フランドール・スカーレット、運命の扉の叩き方を蝙蝠どもに見せてやれ! †

「まさか、こんな急な話になるとは思わなかったけど、本当にいいの? 私はあなたの命令に従っただけだと言うわよ?」

「それは大丈夫だ。館の蝙蝠が証人になってくれる。おい、お前ら、パパとママによろしく伝えておいてくれ」

「全然大丈夫じゃない。こんなことになるなら蔵書を持ってくるんだった。地上に本がなかったらどうしよう」

今思えば、この時、あまりにも事態が急展開したことを良く考えるべきだった。しかしその時の私は、いつ掌(てのひら)にある目を潰せば良いのかだけを考えていた。アリスが扉をノックした。

「ゲートが開いたわ。後はご自由にどうぞ」

その時、両親付きの蝙蝠達が何か叫び始めた。

♪これをお二人に話すのは我々の契約違反になりますが、緊急事態なので仕方ない。あなた達のご両親スカーレット夫妻は、フランドール様を部屋と魔界から永遠に出さない契約を魔界神の神綺と結んでいます。それが破られれば、最悪の場合ご両親は処刑されることに……†

 

私は手の中の目を思いっきり握り潰した。

 

その瞬間、部屋全体が落下し、蝙蝠達の声が消えた。

三人は、部屋ごと地上に現出した。

私とレミリアはしばらく動かなかった。 

 

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