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第三章

夜明け2 蝙蝠のクォリア 〜 A Study in Scarlet.

♪月々抄 〜 Oriental Orienting toward Orientation‐Oriented Orient

 

時刻(とき)が過ぎた……世界はめまぐるしく回った……時は動きが無く……

じっと立ちどまって――千年をすごした……

 

……いや、一、二分たっただけだった。

アガサ・クリスティ著 清水俊二訳『そして誰もいなくなった』より

 

第一星 初明星(はつみょうじょう)

 

ゴーン、と音が鳴り響いた。

年が明けようとしている。またどこかでゴーン、と不思議な音が鳴り響く。日本の仏教徒の風習かと思うも、この幻想郷に寺院はないのだと思い直した。我が紅い館の時計台の鐘も真夜中に鳴るものだが、その音とも少し違う。幻想郷全体に鳴り響く不思議な音だ。ひょっとすると異変の前触れかもしれない。

私の心配をよそに、ここ紅魔館はワイングラスを持った妖精達の明るい声で溢れている。私の部屋にも、紅魔館のメイド長、十六夜咲夜(いざよいさくや)がワインを運んできた。

咲夜は、さりげなくしかし気持ちの良い瀟洒な仕草でグラスにワインを注いだ。その静かな音の後、香りが私の鼻腔にまでやってきた。

「あれ? これは貴腐ワイン? まだ残っていたんだ」

「はい、お嬢様のご活躍の御蔭で作ることができたワインですから、最後の一樽はお嬢様のために、と」

思わず笑みがこぼれる。私、紅魔館に住む吸血鬼のフランドール・スカーレットは、さっと椅子に座り、咲夜からワイングラスを受け取った。並ぶお側の者たちが平伏(ひれふ)す。

「一樽分あるなら、お前達も飲みなさい。ちょうど足りるでしょう。それと……顔をあげて」

私付の妖精メイド達が一斉に面を上げる。

「今年もよろしくね」

暗闇の部屋の中で、妖精達の顔がぱっと明るくなる様子が「聞こえた」。

新年の挨拶は、先ほど大広間の方で行われた。しかし私は出ないことにしている。大勢のメイドがいっせいに「あけましておめでとうございます」と絶叫する様は、私の破壊衝動を呼び起こしそうだったし、私の耳ならこの館内で交わされる会話を全て聞けるのだ。

恐縮するお側のメイド全員と貴腐ワインの乾杯をすませると、咲夜にそっと言った。

「もう一杯残っているから、最後の一杯は麗しきお姉様に差し上げなさい」

そして全員を下がらせた。

私は部屋で一人になった。しかし、私には、部屋の外、紅魔館の周りの様子まで立体的に把握することができた。エコーロケーションといって吸血鬼は超音波を発し、その反射を聞くことで周りのさまざまな物事を把握できる。つまり一種のソナーであり、弾幕ごっこも、目を瞑っていようと楽しむことが出来るのだ。それだけでなく、紅魔館中の廊下や部屋の天井にぶら下がる、僕(しもべ)の蝙蝠達のエコーロケーション網から常時情報が送られてきており、この館に存在する者のあらゆる位置情報が手に取るようにわかる。私は紅魔館に侵入した泥棒達に館の者がいつ気づくか、姉のレミリア・スカーレットと賭けをよくするのである。妖精メイドに顔を上げさせたのも、コミュニケーションのためだ。それは最近学んだ。

貴腐ワインを口に含む。強烈な甘味が口腔を満たし、芳香が鼻に抜けて行く。貴腐……高貴な者が腐ることによってますます良くなる、とはまさに悪魔の在るべき姿じゃないだろうか。そして、腐るということには下々の者とのコミュニケーションを取る、ということも含まれるのだろう、そう最近考えるようになった。

館の上方から、この館の主でもあるレミリアの声が聞こえてくる。あいつも腐らせたら良くなるだろうか、と思うとおかしくなった。

「今年こそは日が完全に昇っても明星の光で地上を照らして見せるよ!」

レミリアは、咲夜が用意した蕎麦焼酎を飲み干してご機嫌のようだ。なるほど年越し蕎麦に蕎麦焼酎は合うのかもしれない。年を経るごとに姉は日本風に染まっていくような気がする。一方、レミリアの後ろで、この館に住む魔法使い、パチュリー・ノーレッジが困惑している様子も明瞭に聞こえる。

「……どうやって?」

今日は正月一日、新しい年が始まる日だ。悪魔は、初明星といって悪魔の星ルシファーが初日の出を圧倒するよう祈願するのである。しかし、私が知る限りそんな素晴らしく凶悪な出来事は起こった試しがない。運命を操る能力が不完全な証拠だ、と私は毎年元日に寝る前、レミリアをなじって楽しむことにしている。私はさっそく野次を飛ばした。

♪おい、レミィ、月で太陽神に敗れたんだろう? ルシファー様がきっとお前の仇をとってくださるよ! †

私達吸血鬼は、情報の収集のためだけでなく、超音波を使ったコミュニケーションもできる。これを使って、使い魔の蝙蝠に指示を出すだけでなく、姉妹間でひっきりなしにおしゃべりをしているのだ。口から言葉を発するとき、つまりこの国の言葉「日本語」を使うときは「お姉様」などと敬語という変ちくりんなシステムに準じて話すものの、超音波で会話するときはそんな堅苦しい話し方はしない。ヨーロッパ育ちは兄弟姉妹間でも呼び捨て――日本語では愛称というらしいが――にするのが習慣だ。

♪フラン、笑わないで良く聞けよ、今年こそはね、明星(ルシファー)が太陽に勝つ気がするんだ。おい笑うな、本当だぞ†

♪アハハハハハ、まるで、ミシェル・ノストラダムスが予言に失敗した世界の破滅が、十年遅れてやってくるような言い草ね。日本かぶれのレミィは、冗談言って私を福笑いのような顔にするつもりなんだろ! †

♪そう、……いや世界が破滅するような酷いことにはならないよ。それにルシファーは偉大な悪魔だからそんな簡単に来られないかもしれない。もっと可愛くて楽しくて面白い悪魔が復活するかもしれないよ。ここは幻想郷なんだし†

♪あらあらもうトーンダウン? じゃあレミィが逃げる算段を考える前に、一つ賭けようよ。お前の言う通り明星が日に勝ったら、今年一年お前が紅魔館の当主を務めると認める! †

♪待て、それは別の話で……†

♪あらオネエサマ、混線させないで下さる? で明星が負けたら今年は私が紅魔館の当主に就任するというのはどう? まさか運命を操ることの出来るレミリア・スカーレットとあろうものが、この賭けを降りるなんてことはないよね? †

紅魔館全館の蝙蝠達がこの賭けにびっくりして一斉に騒ぎ出す。

♪異議あり! †

♪一年ぐらいは妹様が務めても……†

♪派閥争いするなよ†

メイド達との新年の挨拶を終えると、私達姉妹と蝙蝠達の間でこのように新年の交わし言が始まるのだ。だが、賭けを持ち出すのはちょっと変則的だったかな、とも思う。契約を命より大事にする悪魔が、この話に乗るわけがないことはわかりきったことだ。

「それを考えるのが貴方の仕事、……でしょ?」

レミリアがテラスのテーブルの向かいに座ったパチュリーに無茶振りをする。私は、そういうと思った、と嗤(わら)う。

♪また、パチェに頼るの? うちの当主は他力本願で困るよ†

♪他力本願、なんて仏教徒みたいなことは言うな。タタールがヨーロッパに攻めてきてもうだめだと思った時も、(ハン)が死んで助かったことがあるというじゃないか†

ヨーロッパにタタール? 私も聞いた覚えがある。どこだったか。

♪それを他力本願と言うんだ。歴史の先生に日本語も色々教えてもらったんだから間違いない。レミィは悪人だからきっと浄土に行けるよ†

♪浄土なんて新年からおぞましいことを言わないでくれ。日本人はモンゴルを防ぐのにカミカゼに頼ったんだろう? じゃあ他力本願じゃなく神徳じゃないか。ふん、マルコ・ポーロの嘘つきめ、日本は黄金だらけでもなかったし、モンゴル軍が日本の都を占領したという話も嘘だった! † 

♪歴史の先生が言うには、捏造も揉消も権力者の意のままだってさ、だから、何が正しいのかなんてわかりゃしないよ。つい半世紀前に日本が戦争で起こしたとされる大虐殺だって、権力者が捏造しようとしているのか、権力者が揉消そうとしているのか、あの先生がわざとはっきりさせてないんだってさ†

♪それはあのワーハクタクの怠慢じゃないか。そんな奴をお前の教師にしたのは間違いだったかな。年々余計な智慧ばかりつけて生意気な! †

「そんな事言ったって何の準備もしてないんだから無理よ。星々の力は私の力だけでは簡単には……」

パチュリーが困惑して答える。ああ、パチェよ、愚かな姉に振り回されて可哀想に。私もさんざん振り回してきたけど。

♪賭けはしない。紅魔館の当主を賭けるような真似をすること自体が当主失格じゃあないか。おいお前らもそう思うだろ? †

幼き当主の呼びかけに、館の全ての蝙蝠が積極的あるいは消極的に支持を表明する。

♪そう思う†

♪どちらかといえばそう思う†

ふん、なんだよ、どちらかといえばってのは。日本人の空気を読む悪い癖がうちの蝙蝠達にも伝染したのか。そこは全員一致で支持、でいいんだ。蝙蝠達の返事に安心したのかレミリアがパチュリーの方を向いた様子が聞こえた。

「……冗談よ。でも明星の力は強い筈なのに、なんでいつも太陽に勝てないんだろう……」

「う〜ん……」

レミリアはパチュリーに向かって冗談だと言ってしまった。先ほどの、明星が太陽に勝つ気がする、という予感は何だったのか。

♪新年早々つまらないやつ! そんな覇気の無い悪魔が最初から天照や月夜見に勝てるはずがなかったんだ。道理で月に行った目的も果たせなかったわけだ! クソ素晴らしい年喰った幼稚な蝙蝠め! (Fan‐fuckin‘‐tastic over‐grown baby bat!)†

♪新年早々うるさいやつだな。お前は歴史の教訓を持ち出して一年の計でも考えていろよ†

♪……レミィの一年の計は決まってるの? †

♪今年は、探偵になって難事件を解決する! †

♪ちょっとみんな聞いて! この愚かな姉はね、どうせコナン・ドイルの『緋色の研究(A Study in Scarlet)』か何かを読んで、影響されただけなんだから、みんな振り回されちゃだめだよ! †

♪まあ、いいじゃないですか†

♪事件に巻き込まれて召喚されないよう大人しくしていないと……†

賭けがなくなって安堵したのか、蝙蝠達が自由に発言し始めた。

♪違う違う、コナン・ドイルじゃない。私はホームズのように滝に落ちる趣味はない。アガサ・クリスティだ。でも『A Study in Scarlet』は面白そうな題名だな。今度読んでみよう。スカーレットというのが気になる†

♪私の大好きなクリスティを取らないでくれる? オネエサマは恐竜のいる南米大陸探検がお似合いよ! †

♪……悪くないな†

♪げ、え? え? 本気じゃないよね? 今度こそ帰らなさそうだからお似合いだけど止めといた方がいいよ? †

♪優しい妹君の御忠告が胸に浸み渡った。女王たるもの、忠言を聞いて良く治めることが大事だ。今年は大旅行したり大暴れしたりせず、良い一年にすると誓おう、蝙蝠の諸君よ! †

館全体が蝙蝠達の喝采で揺れた。超高音のため、妖精にも人間にも魔法使いや門番にも聞こえなかっただろうが、やはりこの館の新年はこれがなくては始まらない。

♪うまく逃げられちゃった。今の言葉本当に守るんだろうね? 悪魔の契約は絶対! †

♪誓う誓う。小暴れはするけどさ†

♪咲夜が聞いたら泣いて喜ぶわ†

♪泣いて喜ぶだろうね、咲夜相手に小暴れすることになるだろうから†

♪……やっぱり私が当主になるからお前は隠居しろよ†

ここ数週間はずっとこんな調子だ。要するに、最近の私達姉妹はとても仲が良いのである。

♪咲夜といえば、近頃レミィの部屋で一人になったとき、ベッドに載せた棺桶で「ヌケサクごっこ」とかいう妙な遊びをしていたわよ†

♪知っているわ。棺桶の蓋を外そうとして、その蓋が自由落下するタイミングで時間を止めて棺桶の中に入り、「な、中にいたのは、私だったー」って叫ぶアレね。咲夜もストレス溜まっているのかしら†

♪でも、レミィがまた棺桶で寝るようになるのは、ちょっと嬉しいな†

♪おかげさまで。悪いけど、フランは私が寝ている間は部屋に入っちゃだめよ†

♪はいはい。それはお姉様の仰せのとおりに†

レミリアには、吸血鬼は棺桶に寝る生き物だ、と思っていた時期があって、昔はずっとそれで通していたのだ。だがある時、レミリアが棺桶の中で眠っているのを見計らい、棺桶をバラバラに吹き飛ばすといういたずらを私が仕掛けたことがあって、その時のショックがトラウマになってしまったらしく、可哀想なレミリアはずっと棺桶で寝るのを拒絶していたのだった。それは私も申し訳ない気持ちがあったので、レミリアが再び棺桶で寝られるようになってくれるのは私も嬉しい。現状では咲夜の遊び道具にもなっているようだが。

それにしても、と思う。元旦の計が決まっているのなら、レミリアの探偵ごっこも異変の発生とともにきっと始まるのだろう。昨年のレミリアの一年の計は、月に行くこと、だった。私の計は、一ヶ月紅魔館の当主を体験してみたい、だった。そしてそれはどちらも叶ったのだ。そのせいで、私もレミリアの能力をちょっとは認めるようになってしまった。少々悔しいことだ。

私が紅魔館の臨時当主になったのは、昨年の冬頃、レミリアがロケット完成パーティを開いた夜から、レミリアの月旅行を挟み、私の離任パーティとレミリアの海パーティが同時開催された夜までの一ヶ月あまりだ。思い出しても色々と大変な日々だったし、それに至る経緯もまた複雑なものだったと思う。レミリアの能力が本物なら、月旅行は、幻想郷に来る前から既に決まっていたことだった。もしかすると、今までの色々な事件は全てそのお膳立てだったのかもしれない……いやこんな風に思うことが偉大なるレミリアお姉様の思う壺だ。私は口の中で貴腐ワインを転がしながら、歴史を私に教えてくれた上白沢慧音(かみしらさわけいね)先生から聞いた、人里に現れたという若い仙人の教えを思い出した。

何でも過去のことを逐次思い出すことが長寿に繋がるそうだ。良い機会だから私は過去を振り返ってみようと考えた。過去のことなどすっかり忘れて暮らしている妖怪にしてはずいぶん人間臭い試みだが、気分転換にはちょうどいい。自分の一年の計を決めるのはその後でいいだろう。

私はまず、レミリアと私が月に興味を持ったそもそもの発端を思い出そうとした。あれはいつのことだったかしら……。そしてまだ自分が魔界にいた頃、一人の堕天使が館を訪ねてきた時のことを思い出した。

 

 

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