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第二章
第一夜 青(あを)より藍(あお)く赤より紅い宴 〜 Implausible Night.
♪人を喰った妖怪 〜 Purple Hate
何事も心から信じるということがなければ、正しいものでもまやかしのように思えてしまうんです。医学がつまらぬ形で発達して「そんなに生きるわけないじゃないか」と言うから、不老不死の人達はまやかしの世界の人達になって、僕等の目の前から消えたんですよ。単にそれだけの話しで、本当は今でも不老不死の人はいるんだと思います。
明石散人、池口恵観 共著『日本史鑑定 宗教編』より
頭が痛い。嫌な予感がする。足取りが重い。
医者の不養生ね、と心の中で自嘲してみるが、もっと根源的な不安が自分を取り巻いているとはっきりとわかっている。
視界が少しぼやけているのか、物事の輪郭がはっきりしない。そのせいか、メイド服を着た妖精達の慇懃なお辞儀の群れが、やたらと幻想的に感じられる。メイド達の歓迎を抜け、広い図書館に入ると、黴臭い風が吹いた。
「あら?」
思わず立ち止まる。
「どうしたの永琳」
後ろをしずしず歩いてきた姫が尋ねる。
この光景を以前にも見たような気がしたのだ。デジャヴュだろうか。いや、前にもこの図書館に姫と二人で入ったことがある。それを思い出したのだろう。そのように、私、八意永琳は判断した。
「なんでもありません。参りましょう」
「心の病かしら?」
「あるいは、そうかも」
たわいのない会話を交わしながら巨大な本棚の列の下を通ると、突然視界が開けた。
そこには水があった。『星の井戸』という言葉が咄嗟に浮かぶ。天に輝く星々を水面に映すための井戸である。だが、傍らに佇む水着姿の人間と妖怪を見て、そんな予想は吹き飛んだ。後ろにいる輝夜が、ぷっ、と吹き出す。思わず口に出た。
「え? 宴会って聞いて来たのに、温水プール……?」
「海よ」「冷水プール」
レミリアと霊夢が同時に答えた。後ろで輝夜が大笑いしているのがわかる。
「お待ちしておりました」
これは八雲紫である。
私はレミリアの方をちらりと見る。レミリアは微笑を浮かべてなにやら考えている様子だ。どうやら、私達を宴会に招いた妖怪と、宴会を開いた妖怪の思惑は異なるらしい。いずれ、紫とレミリアのそれぞれの目的がはっきりしてくるだろう、と思う。また、嫌な予感がする。
笑っている輝夜が霊夢と魔理沙に色々尋ねている。
「その水着も誰かのプレゼントなのかしら?」
「失礼ね、これは自前よ」
以前、この紅魔館で開かれたパーティに霊夢が着てきた服は、魔理沙がプレゼントしたものだったらしい。神社の家計は相当苦しいようだ、と人里で聞いたことがある。
「私だってそうそう霊夢に服をあげるわけにはいかないぜ。でもそんなダサい水着なら考えないとな」
「あんたのだって人のこと言えないでしょ」
「その植物は何?」
「羊歯(しだ)だ。レミリアの海のイメージってシダ植物なのか」
こう言って、魔理沙がふん、と笑うと、レミリアが笑って言い返す。
「じゃあ次の機会に魔理沙には本物の『亜阿相界』を持ってきてもらおうかねえ」
シダ植物とは、なんという凡庸なイメージだろうか。月で海を見たのなら、桃の樹を用意してもらいたいものだ、と私は思った。
少しばかりの挨拶を交わした後、八雲紫が酒を勧めてきた。私は素直に受け取った。
「あら、有難う」
「失礼ね。毒なんて入っていないわ」
八雲紫が妙な言い回しで答えた。その時、またあの感覚が甦った。その言葉をどこかで聞いた記憶があるのだ。一体どこで聞いたのだろう?
「? 多少の毒は薬ですわ」
そうか、以前冥界の白玉楼で、毒入りの茶を飲まされたことがあったんだった。ラテン名、ゲルセミウム・エレガンスという猛毒の草だが、また冶葛という名で喘息などの治療に薬としても使われる。そのことを指していたのか。
だが私の頭脳は、それだけではない、と明確に警告を発していた。理由はわからないが、紫が言っていることはもっと重要な何かだ。
その瞬間、この酒を飲むべきではない、と閃きのように意思が駆けた。根拠などないが、飲むと自分の世界が崩れるような気がしたのだ。毒が入っているのだろうか? いやそれはあり得ない。あらゆる薬を作り出せる私には、液体に毒が入っているかどうかなど簡単に判別できるのだ。それにいかなる毒であろうと不老不死の私には意味がない。そう理性的に思い直し、私は平然を装った。
だが、そんな思考とは関係なく、私はその酒を口に持っていった。自動人形(オートマータ)のように。まるで私の行動は既に決められているかのようだった。背後で輝夜と霊夢がなにやら議論しているようだ、とちらりと意識の隅に浮かぶ。
私は酒を飲んだ。動転した。
この酒は月の都の酒だった。間違いない。私は須臾の間に推論を進め、多くの不可思議に直面した。
最初に浮かんだのは、賊はどうやって月の都に侵入したのか、ということだ。
この酒は盗み出されたものだろう。現在月の使者のリーダーを務めるあの姉妹が、霊夢に土産として酒を持たせた、という可能性も考えられたが、私の教育を受けて育ったあの二人がそんな愚かなことをするはずがない。持たせるならば必ず玉匣(たまくしげ)であっただろうが、私は封書の中で、霊夢には何も土産を持たせないよう指示してあったのだ。私の頭の中には昔、月の都に匿われていた地上の民、水江浦嶋子のことがあった。浦島子は今では神として信仰されている一方、浦島太郎という名でも昔話の主人公に納まり、この国の人気者になっていた。その昔話では、亀を助けたお礼に浦島太郎は竜宮城に行くことになっていた。となると、亀を助けて竜宮城に行った浦島太郎と兎を助けて月の都に行った霊夢は同じ運命を辿るのが道理なのだ。そして霊夢が人工冬眠(コールドスリープ)をされた後に地上へ戻れば、霊夢もやはり神として崇められる存在になるだろう。私は、それは可哀想だと思った。地上の穢れを受けて私も変化しつつあるのかもしれないが、霊夢にとっても幻想郷にとっても良い結果にはならないだろう。そう考えて封書の中で厳命しておいたので、この月の酒は霊夢が持って帰ったものではない。
なにより、霊夢が土産を持ち帰ったか否かを確実に判別するため、私はあらかじめ霊夢に「イルメナイトを一握り」お土産に欲しいと頼んでおいたのだ。だが、霊夢は月から帰ってきても私のためにイルメナイトを持ち帰った様子はなく、私の期待通りすっかり忘れているようだ。ならば他の土産も持ち帰っていないだろう。
であれば、盗人がいたのだ。
そしてそれは冥界の主、西行寺幽々子とその従者だろう。あの亡霊なら月の都で隠密行動をするにはうってつけである。私は昔、従者の魂魄妖夢の目を治療するため冥界の白玉楼を訪れた時、そのことに気づいていた。穢れの少ない亡霊を月の民が感知するのは困難だろうと。なぜなら、穢れを持った人間が月の都に侵入すれば、すぐさま優曇華(うどんげ)の花が咲いて月の民に知らせるからである。綿月姉妹が水江浦嶋子を匿った時も、私を含め月の都の上層部はすぐに気づいたものだ。しかし、優曇華の花に頼りすぎている月の民は侵入した亡霊にすぐには気づかないだろう。おまけに幽々子は、私に毒入りの茶を飲ませて殺し、自分の配下にしようと企んだことのある妖怪である。何かしらの遺恨があってもおかしくはない。そういえば私はその頃、亡霊に向かって「発酵の能力は神の力。貴方達亡霊は神も見捨てたって事よ」と言い放ったことがあった。そう言われて悔しかったのだろう、冥界の主は従者に漬物を作らせようと奮闘したようだが、当然ながら冥界で漬物が漬かるはずもなく大失敗に終わったと伝え聞いた。神に見捨てられたことが実証されてしまったと思いたくなくて、それで酒を盗んだのか。そこで私はさらに、この館で催されたロケット完成記念パーティの幽々子の不審な動きのことも思い出した。あの時ははっきり意識出来なかったが、西行寺幽々子と魂魄妖夢はパーティを途中で抜け出していた。その時、幽々子の着物がわずかに膨らんでいた気がしていた。そうだ、あの時も幽々子は酒を盗み出していたのだ。きっと月の都で酒を盗む予行演習だったに違いない。
だが、幽々子は紫の親友だという。当然、月に侵入する可能性はあった。吸血鬼を囮にし、紫も囮にした二重囮作戦、そんなものは私にとって完全に予想の範囲内だったのだ。おまけに、西行寺幽々子はただの亡霊ではない。ごく最近――とはいっても千年近くも昔だが、この地の全ての幽霊を統括し管理する、強大な権力を持った人物として白玉楼の建立とともに抜擢されたという少女。その政治的立場を考えれば、余りにも無思慮に日々行動しているように感じるが、とにかく西行寺幽々子という存在は私にとっても月の都にとっても注目に値する人物であるのは間違いなかった。問題なのは、ではどうして幽々子が月の都の中に侵入できたのか、ということなのだ。
月の都には、物理的な存在も心理的な存在も論理的な存在も含め、あらゆるものの侵入を防ぐ巨大な注連縄が張り巡らせてある。これを突破する術はあり得ようはずがなかった。月の都の王、月読見(つくよみ)様の弟に素戔男(すさのお)様という困った方がいらっしゃるのだが、その素戔男様の侵入に懲りて以来、外部の敵を防ぐために作られた注連縄は、何度も反乱を起こしてきた数百万の土着神が、あるいは近代兵器を持った地上の民が、一度として破ったことのない完璧な防御策だった。そして「満月の夜に月の都に入り込める穴が空く」という偽情報に踊らされて月にやって来た敵を一網打尽にするための罠でもあった。
もちろん、確率的偶然によって月に外界のものが入ってくる可能性はあった。五色の亀を追って月にやって来た水江浦嶋子のような例は枚挙に暇がない。また、幻想郷の人里で情報収集をしたところ、幻想郷には「可能性空間の中を自在に移動できる船に乗ってやって来た二人組の未来人」の噂が伝わっていると知った。その話の真偽は不明だが、幻想郷の者が月に侵入する方法は色々なものが考えられたのだ。しかし、月に侵入することと、月の都に侵入することはまったく別の話である。冥界の主としての絶大な権力を持つとはいえ、神霊になった亡霊ならまだしも、亡霊になって千年程度しか経たない幽々子ごときに月の注連縄は破れる代物ではないはずだ。
瞬間的に、私はかの亡霊、西行寺幽々子を見た。扇子で口元を隠しているものの目が笑っている。やはり実行犯は幽々子で間違いない、と確信した。しかし、それを意識すると同時に、さきほどから曖昧な私の視界の隅に、別の物が映った。ふわふわと白いものが宙を舞っている。 魂魄妖夢の半霊だ。
私はドキリとした。思考を進めることに堪らない悪寒がした。しかし私の本質が、思考を止めるということを許さなかった。
魂魄妖夢は不思議な踊りを踊っていた。幻想郷で開かれる宴会で時々見せる妖夢の狂態、というのがここの住民の一致した見解である。その人間側の踊りに合わせて、霊魂の方もくるりくるりと渦を巻く。今まで注意したことがなかったが、なぜあの娘は半人半霊なのだろうか。一体、あの霊の存在はどこに由来しているのだろう……そう考えたとき、妖夢の踊りに見覚えがあることに気づいた。それにそうだ、あの夜、私が月を隠した夜に、永遠亭に忍び込んだ者の中で唯一、満月の光に感応したのが魂魄妖夢だった。あの時、なぜ妖夢だけが目を赤くして、あたかも月の兎のようになったのか。私が治療している時、患者は刀を持って暴れた。特に次の満月の前の夜、半人半霊は危険な両刀遣いと化し、「待宵反射衛星斬」なる技を繰り出して暴れ、私はさんざんな目に遭った。その甲斐あって妖夢の眼の病は完治したが、あまりに斬られすぎて私は久しぶりに自分で薬を飲みつつ寝込み、次の晩に輝夜が仕掛けた肝試しには参加できなかった。このように、まさにルナティックな力を発揮した妖夢だったが、霊夢や魔理沙、咲夜の三人がそんな症状を見せたとは聞かない。肝試しの時その三人に会った輝夜からも、三人は平常だったと聞いた。そこまで思考が巡り、私は再び酒を口に含んだ。
「こ、このお酒は……?」
自分でも狼狽しているのがわかる。またもや自動人形のように、勝手に口が開き言葉を発してしまう。
幽々子がさっと扇子を閉じた。そして聞こえるか聞こえないかの幽かな声でこう言った。
「この御酒は我が御酒ならず、
酒の司(かみ)常世に坐(いま)す石(いわ)立たす少名(すくなの)御神の
神寿(ことほ)ぎ、寿ぎ狂おし、豊寿ぎ、寿ぎ廻し、献(まつ)り来し御酒(みき)ぞ。
乾(あ)さず食せ。ささ」
私は言われるまま杯を乾した。それを見て幽々子は続けてこう言ったように感じた。
「発酵の神……酒の司が『寿ぎ狂おし寿ぎ廻して』醸(か)んだ酒、見事ですわ」
そう、月の民が最上級の酒を醸す時、狂ったように輪舞するのである。その舞いが醸す者に神霊を降ろし、酒に神の力を呼び込み、極上の御神酒へと変えるのだ。妖夢の踊り、不恰好なため懸(か)け離れているように見えるが、まさしくあれは月の民が醸造する時の舞いではないか。
まだ方法はわからない。わからないが、月の都を守る注連縄を破ったのは、幽々子ではない。妖夢だ。
そこまで思考が行き着いた時、目の前の妖怪、八雲紫が何か言っているのに気づいた。
「……月の都をイメージしたお酒の席を用意致しました」そう言って紫は
にやり
と笑った。
私はその笑みを見て「月の都をイメージしたお酒の席を用意致しました」という言葉も、確かに過去に聞いた覚えがあったと感じた。それは先ほどから頭に引っかかったままの「毒なんて入っていないわ」という言葉と呼応した。そして唐突に、誰がいつどこでその言葉を吐いたのか、はっきりと思い出した。
それはかつて私が吐いた言葉ではないか!
その時、あの夜のことを鮮明に思い出した。笑い声も杯を交える音も無くなった静かな部屋、その部屋を満たす百近い人の形をした者たち、しかし、その者たちは皆虚ろな目をしていた。こときれた口から流れ落ちる月の酒……。そう、その言葉は、私が月の酒に毒を入れ、部下である月の使者を皆殺しにした時の言葉だった。
私は、自分でもはっきりわかるほど動揺した。紫の禍々しく細い笑みがどんどん広がって行く。紅い唇が描くその笑みは、まるで真っ赤な三日月のようだ。私は、八雲紫にやられた、と思った。この妖怪に心が喰われた、とはっきり感じた。不老不死であるのだからおかしな表現だが、「致命的」なダメージを受けたのだ。どうして八雲紫はあの夜のことを知っていたのだろう? わからなかった。しかし、妖夢が半人半霊である理由が私の推測通りなら、八雲紫は最初から全て知っていたのだ。そしてだからこそ、私が地上に降りた月の使者、綿月豊姫(わたつきのとよひめ)に絶対に会わないだろう、ということもわかっていたのだ。私があの姉妹を絶対に殺せないということを。
だが、精神に傷を負った自覚を強烈に抱きつつ、別のことが瞬時に頭脳に立ち上った。思考を続けることを止められない自分の性質に自己嫌悪を抱き、そして同じような自己嫌悪を抱いたことが過去にもあったな、という朧気な意識をも僅かに感じながら、私の頭脳は同時にまったく別の思考を辿った。
それは、亡霊と半人半霊の二人が月の都に侵入し注連縄を破る手段を持っていたとして、月の都の上層部はそれを黙認したのか、ということだ。月の都の上層部は、月面のあらゆる確率的偶然を正確に操ることが出来る。さらに地上の全ての生き物、あらゆる事象、それどころかこの世の全ての素粒子の一粒々々まで監視している連中のことだ、いくら穢れが少ない亡霊とはいえ、月に住む一般住民ではなく月の都を高度に支配する上層部のメンバーにはその一挙手一投足まで筒抜けであったはずである。もちろん月の都の監視から逃れる方法もある。それは、幻想郷のように強力な結界を張ることにより、月の光による確率操作(狂気)を遮断することである。しかしそれも月に行ってしまえば通用しない。であるなら、なぜ月の都は一度として開けたことのない月の注連縄を破らせるなどという暴挙に出たのか。どうしても私には理解出来なかった。突き詰めて考えれば、結局わからないことだらけだ。眩暈がする。
この時、背後で何か物事の動き出す予感がした。私には、それが霊夢と何か話し合っている輝夜なのだとわかった。あの夜、私の「地上密室の術」と地上の民の「永夜の術」、二つの永遠の術を互いに破り合った後の宴会で、私を救済したのは輝夜の言葉だった。その言葉があるからこそ、今の私がいる。ついさっき私は、紫が差し出した酒を飲む時、世界が崩れるのではないかと予感を抱いた。しかし予感に反して、致命的なダメージを受けてもかろうじて私の世界は崩れていなかった。心に希望が沸き起こった。そして再び輝夜の言葉を、輝夜が私を救済してくれるのを待った。……しかし輝夜の発した言葉は私の予想を完全に超えた言葉だった。
「だから地上の人間はいつまでも下賤なのよ。(霊夢が何か答える)気温は一定で腐ることのない木の家に住み、自然に恵まれ、一定の仕事をして静かに将棋を指す……。遠い未来、もし人間の技術が進歩したらそういう生活を望むんじゃなくて?」
私の世界は、完全に、崩壊した。
…………………………
慌しく妖精メイド達が行き交う。それらへ向かって小さな悪魔が必死に指示を出している。その向こう、プールサイドのパラソルの陰でレミリアと紫がなにやら話し合っている。
ここにはこれ以上大きな杯はない、というようなことを咲夜が言うと、紫の式神で九尾の狐の八雲藍(やくもらん)が何か提案した。
「あんたが招いた客だろう? あんたが最後まで付き合うなら仕方ない。こちらにも面子ってものがある」
レミリアが答えたところで協議がまとまったようだ。藍の提案に紫は目を丸くして驚いていたようだが、くるりと向きを変えて空中を滑りこちらに向かってきた。
「わかりました。あなたの希望を叶えます」
紫は私にそう言った。水着姿のパチュリーがざぶりと水に飛び込む。泳げるのだろうか、と思う間もなく、ズズっという音が聞こえ始める。プールの底の栓が抜かれたようだ。同時に、妖精メイド達が、運んできた大きな樽を幾つもプールサイドに積み始めた。
「お二人とも、もちろん泳ぎますよね? 頼みますよ」
新聞記者の射命丸文が写真機を構えて営業的な笑みを浮かべる。
「おいおい、冷水プールで懲りごりなのに、こんな酷いプールに入れるか。なあ霊夢」
ビート板を抱えた魔理沙が応じる。しかし、霊夢は泳ぐつもりのようだ。
「泳いだら水着がとんでもなく臭くなるわね」
「でも、溺れて水を飲んでも楽しめますね」
すっかり酔っ払った妖夢は自分が水着を着ていないことも忘れている。
そうこうするうち、水が抜かれて空になったプールの上空に、メイド妖精が樽を持って集合し始めた。
そして、目の前に紅い滝が出現した。樽の栓が抜かれ、大量の赤ワインがプールへと注ぎ込まれたのである。
月には「神酒の海」と呼ばれる海がある。それに倣ったのだろうか? 飛沫を上げるプールから濛々と豊穣な香りの紅い霧が立ち込める。
「紅霧異変が再び発生したじゃないか」
はしゃぐレミリアに咲夜も同調する。
「この紅い光景は魔界を思い出しますわ」
咲夜が魔界に行ったことがあるという話は初耳だ。
「ほらほら、これを飲み干さないと異変は解決しないよ」
レミリアが魔理沙の尻を蹴っ飛ばして赤ワインのプールに叩き落す。
「ひどい奴だな、こんなもの飲み干せるかよ」
魔理沙はビート板にしがみつきながら涙目で言い返した。ワイン塗れになった金髪がキラキラと光っている。
「まるで血の池地獄に落とされた罪人のようですね。よく似合っていますよ」
さっそく文は写真を撮り始めた。ベストショットを撮れて油断したのだろう、その文を霊夢が突き落とす。文はとっさに、写真機を濡らすまいとプールの外に投げた。
「あんた、私がちょっとばかり月から帰るのが遅れたからって、そろそろ新しい巫女を捜す時期だ、とか記事に書いたんだって?」
「御無体な、留守にする方が悪いんじゃないですか。私の筆は幻想郷の正義のために動いたのです」
魔理沙に足を引っ張られてもがきながら文が答える。空中では無敵の烏天狗も水中では形無しのようだ。その様子を眺めていた紫が背後の藍に言った。
「烏の行水なんて見ても面白くないわね、あなたも飛び込みなさい」
「ええ? 無茶ですよ、月の海に飛び込んだ時も死ぬ思いだったんですから」
「あら、そうは見えなかったわ。それに言いだしっぺのあなたが酒の池を味わわなくてどうするの。弱点を克服してらっしゃい」
朗らかにそう言って紫は藍をプールに押し出した。派手に水柱を立てると黄色い獣が深紅の海に浮かび上がる。藍は「しくしく」と泣きながら仕方なく泳ぎ始める。九本の尻尾を使って黄色い塊が器用に泳ぐ様は文字通り海月(くらげ)のようだ。
「さっき藍が『もう大きな杯が無いというのなら、プールにワインを満たすというのはどうでしょう』と提案したのにはびっくりしちゃったわ。藍の記憶が戻ったのかと一瞬思っちゃった」
「肉の林まで要求してきたら要注意ね」
紫と幽々子がひそひそ話し合っている。基本的にこの二人はひそひそとしか話さないが。
一方、水着を着ているわけでもないのにざんぶと威勢よく飛び込んだのは妖夢だ。
「刀が錆びるんじゃないかしら」
「あのワインまみれの服の洗濯もうちでやるハメになりそうです」
砂浜の上のパチュリーと咲夜が呆れた顔で話し合う。
そうした大混乱の中、私は静かにプールの中へ体を浸した。そして潜った。しばらくして、プールの中で泳いだり弾幕を飛ばしていたりしていた酔っ払い達が何事かに気づく。
「あれえ? プールの栓が抜けているんじゃないか?」
魔理沙が声を上げる。
「抜けてない。あれの仕業よ」
パチュリーが指差したのは私だ。
「ええーマジかよー……って、ぶわっ」
魔理沙が素っ頓狂な声を出してひっくり返る間に、私はプールに満たされていた赤ワインを全て飲み干していた。怒涛のような音が消えた後には、ガランとしたプールに真っ赤に染まった人間と妖怪が残された。私に向かって流れ込んだ水流に引きずり倒され、皆横たわっている。
「第二弾、投下!」
咲夜の号令が図書館内に響き渡る。いつの間にか再び上空に夥(おびただ)しい数の妖精メイドが結集していたのだ。さきほどに比べて十倍はいるだろうか。そして、巨大な紅い滝が、プールの中央にいる私の視覚と聴覚と嗅覚および皮膚感覚を覆い尽くした。酒の正しい味わい方とはこうあるべきなのかもしれない、と柄にもなく思った。
妖精達はなぜか手馴れた手つきだ。そういえば、この図書館を警備する妖精達には、滝のように太いレーザーを真下に撃つ癖があったことを思い出した。背の高い本棚が並んだ図書館では、真下にレーザーを放ったまま本棚と本棚の間を飛び回れば、大抵の侵入者は逃げ道がないので降参するしかないのだ。私から見れば古代の力をコピーしてこんな微笑ましい警備システムを作り上げるとは、と感慨深かったが、とにかく妖精達の認識では日ごろ真下に放っているレーザーが赤ワインに変わっただけなのだろう。プールのあちこちから悲鳴が上がる中、一人ワインの滝行を楽しみながら私はそんなことを考えていた。
一方、レミリアは予想以上のワインの消費量に唖然とした様子だ。パラソルの下に避難すると、使い魔の蝙蝠(こうもり)を大量に呼び出して黒雲のようになりながら飛沫を避けている。そして横で同じく飛沫を避けようと扇子を額にかざしている紫を一瞥する。
「酒が尽きてしまったら年が越せなくなるじゃないか」
「こんなことを言うのもおこがましいかもしれないが……」
紫はいかがわしいほど演技臭い調子で床にぺたりと座った。
「すべては愚かな一妖怪の所行、あの『人間達』に罪はない。どうか酒を出し惜しむのは勘弁願えないだろうか」
紫は「人間達」という点を強調した。私は、今回の騒動で紫が何を目的としていたのかようやく諒解した。そして、私はこの妖怪と初めて会った時の会話を思い出した。あの時、「あいにく私は、永遠に遊ぶ力は持っていないけど……」と言ったのに対し、紫は「永遠に遊んでみたい物ね。でも、それはまたの機会にでも……」と答えたのだ。そうか。それが狙いだったのか。
プールから泣きべそを掻きつつ上がってきた藍が憮然として言う。
「……どこかで聞いたような台詞ですね」
「藍、余計なことを言ったらもう一度沈めるわよ」
「あらあら紫、それで土下座のつもりなのかしら。土下座はもっと頭を下げなきゃだめよ。それこそ額を床に擦りつけるぐらいじゃないと」
幽々子が土下座の仕方を指導し始めた。
「こうかしら?」
紫の頭が若干下がる。
「まだまだ」
「こう?」
「もう少し」
「うーん、これくらいかしらね……」
土下座と呼ぶにはあまりに頭(ず)が高いところから紫が声を発する。
「んもう、紫はそんなだから月の連中を怒らせるのよ。礼儀作法ぐらい身につけてもらわないと」
「……この国の文化はどうにも理解できない」
レミリアが呆れた声を出した。
私は紫と幽々子を見ているうちにあることを思いつき、ざばり、とワインのプールから上がると妖怪達が集まるパラソルのところへ向かった。
一方レミリアは何かに気づいたようで、クックッと笑い始める。
「土下座をされたところで貯蔵してあるワインの量が増えるわけではないけど……ところで咲夜、flyはfliedに変形することもあるけど、皮を剥がされた(flayed)に変形することもあるのは知らないだろう?」
「だからflyはfliedに変形しませんし、flayedにも変形しません!」
「flyはfliedに変化することもある。例えば『野球でフライを打った』と言うときの変化がfliedよ」
私が答えると、咲夜はあっ、と一瞬恥ずかしそうな顔をした。このメイドの珍しい表情を見て私とレミリアが笑いあう。
「流石はさまよえる月人(Flying lunarian)だ。良く言葉を知ってるじゃないか。だがflayedへ変形するのは知らないだろう?」
「知らないわね。それとさまよえる(flying)、じゃなく、もう高飛び済(fled)、よ」
私はそう答えると、ワインだらけになっている九尾の狐の腕を、拱手(きょうしゅ)の形の袖ごと摑み、プールの方へ放った。
「あ、宇宙人、何をする!」
絶叫しながらくるくると綺麗に回転し落下していく藍を見送っていくと、ちょうどプールから脱出しようと空中に飛び上がった文に見事ぶつかった。狐と烏が縺れ合ってプールに落ちて行く。
「ほら、飛ばしてる記者(Flying journalist)がこき下ろされた記者(Flayed jounalist)になったじゃないか」
「本当ですわ」
レミリアの言う通りの展開に感心する咲夜。レミリアは運命を操ることが出来るらしいがこれも彼女の能力の発現だろうか? そんなことを考えていると輝夜が口を開いた。
「そういえば今ごろうちの皮を剥かれた鶏肉(Flayed chicken)はどうしているかしらね」
おそらくてゐのことを指しているのだろう。それにしても輝夜はいつの間にイングランド語を覚えたのだろう。幻想郷の住民は外界から隔絶している割にイングランド語を良く使う。その風に影響されたのだろうか。
そんなことを考えつつ、私は土下座ごっこで遊んでいる紫と幽々子の襟をむんずと摑んで吊り上げた。
「さて、『黒幕を吊り上げた』も舞台の幕を吊った(flied)で良いんじゃないかしら?」
「ちょっとちょっとあなた酔いすぎよ」
「お医者様が健康な者に狼藉を働いて患者を作り出すのはこっそりやった方が……」
「その巫山戯(ふざけ)た土下座もどきを異変と認定したの。だからあなたたちを退治するわ。私を人間にしたつもりなら文句は言えないでしょう。それから、亡霊は健康でもないし、そもそもそんな悪徳商売はやってない」
二人の襟首を摑んで吊り上げたままずるずるとプールのところまで引きずって行く。
「んもう、せっかちねえ。紫、やっぱりこの人には妖怪になってもらった方が」
「長い付き合いになりそうだし、一日目からそう張り切らなくても良いと思いますわ〜」
二人を無言でプールに叩き込む。紫も幽々子も着ている服が重いのか、とても泳げるような体勢を取れないようだ。
「皮膚からもアルコールを吸収しているのかしら、酔いがいつもより早いようよ」
「お医者様のお陰でワイン漬けになれたわ。醗酵の神から見放されてなくて良かったわ」
紅い海に漂いながら二人ともこの状況を楽しんでいるようである。
プールは惨劇の舞台になっていた。酔いすぎたのかワインの滝を必死に斬っている妖夢、目を回して泳いでいるのか溺れているのかよくわからなくなっている藍、そして霧雨魔理沙は何を思ったのか突然極太レーザーを天井に向けて発射した。極太レーザーは赤ワインの滝にぶつかると爆発するように拡散し、霧に映じて図書館のあちこちに美しい虹を発生させた。その美しさに樽を空にした妖精メイド達が思わず拍手と歓声を上げる。拍手に気をよくしてVサインを見せる魔理沙の頭を、霊夢がバコーンと殴りつけてプールに沈めた。多数の妖精たちも酔っ払った者から次々とプールに飛び込んで行く。私も再び、ワインの海へと入って行った。
なぜこんな事態になったのか。話は私が輝夜の言葉を聞いて精神が崩れ落ちた時点に遡る。
先ほどの輝夜の言葉を聞いて絶望した私の、予想外の変化に紫を含め皆驚いた様子だったようだ。あの瞬間、私から発した凄まじい殺意が図書館に充満していた。しかし、周囲が驚いたのはそれが理由ではないだろう。私の殺意が、あろうことか私の主人である蓬莱山輝夜に向いていたからに違いない。
あの時、私は、ただ一言「酒が飲みたい」と言ったのだった。
「今飲んでいるじゃない」
そう恐る恐る答えた紫に対し、私は「満足するまで酒が飲みたい」と言い直した。
私は、しこたま飲んで、酔っ払って、全てを忘れたい、という願望を生まれて初めて覚えたのだ。
咲夜に命じられて妖精メイド達が次々と運んでくる酒をしばらく飲み干していた私は、「こんな小さな杯ではとても酔うことなど出来やしない。もっと大きな杯を持ってきなさい」と紫へ命じることになる。人間用の酒器はやがて風呂桶になり、宝箱になったが私を満足させることは出来なかった。十六夜咲夜が「これ以上大きな容れ物はございません」と言って持ってきた人間ほどの大きさの杯――鉄の処女という吸血鬼好みの西方の酒器らしいが、この杯に満たされた赤ワインを飲み干すと、「お話にならない」と言い放った。その後、紫はレミリアと協議していたが、藍の機転により赤ワインのプールが提供されることになったのだった。しかし、プール一杯分の赤ワインでは到底足りない。こうして今、目の前に現れた二杯目の紅いプールを味わうところである。
やがて大量のアルコールが私の体に注ぎ込まれてゆき、プールに巨大な渦が発生したのがわかる。見る見るうちに水位が下がっていく。中で泳いでいた者は渦に飲まれまいと必死に踏ん張っているのだろう、紅魔館の住民、妖精メイドの集団も呆然と見ているようだ。が、まったく気にすることはない。ただ一人輝夜だけが、プールの上から静かに私を見つめている。それが問題だ。
ワインの奔流を吸い込みながらも私の頭脳は動き続けた。
「月から見て刹那的な快楽の渦巻く穢れた場所である地上が輝夜の眼には魅力的に映っていた」のではなかったか? だからこそ輝夜は蓬莱の薬を飲んだのではなかったのか?
私はまた、幾度となく自分の心の中で反芻してきた輝夜の言葉を思い起こした。
「過去は無限にやってくるわ。だから、今を楽しまなければ意味が無いじゃない。千年でも万年でも、今の一瞬に敵う物は無いの」
この言葉にこそ、私は救済されたというのに。あの夜、永夜異変の終わった後の宴会で、私は目の前の人間と妖怪を皆殺しにするか最後の最後まで迷っていた。その時にこの言葉があったからこそ私は「姫がそのおつもりでしたら、自分も」と密かに蓬莱の薬を飲んだのだ。蓬莱の薬は一度、二度、三度と服用することで効能を発揮する。そしてあの宴会の晩、私は完全な蓬莱人になったのだった。それなのに。
なぜ輝夜は、長生きしたい者は静かに暮らしたいと望む、などと言い出したのだろう。それを望むのなら、輝夜は蓬莱の薬を飲む理由など最初からなかったではないか。ましてや永遠亭の魔法を解く理由がないではないか。輝夜は私に嘘を吐いていたのだろうか。それも生まれてから今の今までずっと。考えれば考えるほど、私は絶望の黒い洞に墜ちて行くような気がした。
私は愚かだ、と常日頃思ってきたものである。蓬莱の薬をあろうことか自分の主人に飲ませてしまい罪人にしてしまったこと。月の使者のリーダーでありながら都を裏切り、私に対して心の底から忠誠を誓っていたあの部下達を皆殺しにして逃げたこと。ウドンゲの報告に脊髄反射的に対応し、あらゆる観点からまったく意味のなかった、地上を密室にする術を使って異変を引き起こしたこと。もっと根本的には、労力を注ぎ込んで作り上げた月の都、その、穢れを拒否する思想を全否定する存在にこの私自身がなってしまったこと。かつて月の賢者と呼ばれた私が、今や穢れに塗れた蓬莱人である。これほど月の思想を完膚なきまでに否定し、その誤りを実証する存在は無いはずであった。そしてそれこそは私自身の最大の誤りでもあるのだ。最初から、私の人生には、誤謬しかなかった。ここまでバカな者は宇宙に存在しまい、と私は常々思っていたのだ。だがその愚かな行動は全て、私の主である輝夜のためであったのだ。私の生はその一点のためだけにあった。それこそが私の存在理由でありまた慰めでもあった。
その輝夜が私を欺いていたとしたら?
考え事をしているうちに三度目の紅い滝が出現していた。樽を持つ妖精達もみな酔っ払っており、紅い滝はプールを外れ本棚の周りまで所構わず溢れた。
「お嬢様、パラソルが役に立ちましたわ」
「そ、その通り、こうなる運命だったんだ」
レミリアが強がったのも束の間、滝を避けようと集まってきた人間や妖怪がパラソルに集まり寿司詰めのようになった。
「こら、これは私のパラソルだ、出て行け」
堪らずレミリアがギャーギャーと喚く。
そんな喧騒の中、三度(みたび)プールが空になった。底まで口をつけて最後の一滴まで啜った私は、口で漉(こ)した大量の砂や弾幕をぷっ、と吐き捨てると、プールの底の中央ですっくと立った。あれほどの量のアルコールを飲んだにも関わらず、私はまったく酔うことができなかった。それどころかむしろさっきより頭が冴えているような気がした。プールの回りをぐるりと見渡した後、輝夜の方を見た。私は明確に疑念と殺意を持って輝夜を見たのだった。初めての経験だった。心が哀しさでいっぱいになったが、それでも輝夜を見続けた。驚くべきことに輝夜は私を睨み返して来た。赤ワインに替わって今度は緊張と殺意が図書館に充満した。
突然の緊張にほとんどの者が事態を見守って動けなくなった。その中、霊夢だけがいつ止めに入ろうかと準備し前傾姿勢で身構えているのがわかる。この巫女は本当にたいしたものだ、と一瞬思い、おそらく輝夜もそう思ったのだろう、輝夜と私の互いの表情が一瞬緩む。そして再び真摯な表情に戻った輝夜は、言葉を発した。
「ねえ永琳、一つ難題を出しましょうか。『人間の女にとって、子を生むことは、義務なのか、仕事なのか、はたまた嗜好なのか』。どう? 答えられる?」
そう言って、輝夜は自身が着ている服の袖からある器物を静かに取り出した。
それは、燕の子安貝だった。「あ」と思わず声に出た。
私はまたも誤りを犯したのだ。輝夜は私を欺いてはいなかった。
それだけではない。私は輝夜のことを、何一つ理解していなかったのだ。
恐るべき真実が見えてきた。もし私の推測通りだとすれば、この紫が計画した月面騒動を利用して、月の都の上層部もまた動いた、ということなのだ。おそらく地上側と月側の間に大きな取引があったに違いない。だがしかし、とも思う。その件はこの幻想郷と呼ばれる土地と深い関係があるのだが、あの夜以来現在まで幻想郷側に特別の変化が見られないということも確かだった。ならば、注連縄が破られたこと自体は活用されなかったということだ。このことはいずれ当事者に確かめねばならないことであったが、この問題が解決されたのならば、私と輝夜は月の使者から逃げる必要がなくなることを意味した。だがそれは、そもそも輝夜が地上に降りた本当の理由があった、ということだった。そして私はその理由に、今初めて気づいたのだった。輝夜の罪は全て仕組まれたものだったのだ。そして当時の月の都の上層部の中で私だけがそれに気づいていなかった……つまり、今度こそ、徹底して、私の生には誤謬しかなかった、それがはっきりした。
過去に、地上を支配する者が永遠の命と永遠の繁栄を得るよう、完璧な計画が組まれたことがあった。天下った月人に繁栄を司る神、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)と、不死を司る神、石長姫(いわながひめ)を娶らせ、その子孫が永遠に地上を支配していく計画だった。
しかし、予想外の事態に計画は瓦解する。不死を司る神、石長姫が突然逃亡したのだ。石長姫の逃亡によって天孫と呼ばれた支配者の一族には極端な短命化、エフェメラリティが発生した。この非常事態に月の都は総力を上げて石長姫を捜したが、その行方はわからなかった。その不始末を埋めるために、不死を失った天孫に幸運を与え、神霊を依り付かせるため一時地上に送り込まれたのが綿月姉妹だった。ここまでは私の理解していたことだ。だが、月の上層部はより根本的な解決方法を考え出していたのだ。木花咲耶姫と石長姫の完全な上位互換として人工的に生み出されたのが輝夜だったに違いない。最初から、月の都は輝夜が蓬莱の薬を飲むような性格に育つようプログラムしていたのだ。輝夜が地上に落とされた真の理由は、地上の帝との間に子を生ませるためだった。それも、一人ではない。神ではなく不老不死の人間として地上に降りた輝夜は、支配者が万世一系に渡って栄えるよう、永遠に子を生み続ける予定だったに違いないのだ。そのことにたった今、気づいた。
……そして次に、この思考を私がすることが、月の都に初めて許可されたのだ、ということにも気がついたのだった。
私は、どう、と大きな音を立てて倒れた。
吃驚(びっくり)した周囲がざわめき始める。
紫はちらりと図書館の隅の一点を見やると、意味ありげにレミリアの方を見る。
「あいつは関係ない」
素っ気なくレミリアは答えた。パチュリーと咲夜も目で同意する。
薄暗い図書館の隅に目を凝らすと、菱形のカラフルな羽が見えたはずだ。
「この前のパーティの時も何もしなかったし、これはもっと別のことでしょう。どこの主従にも外からは分からない秘密があり、大抵の場合は虐げられた従者が堪(た)え難(がた)きを堪え忍び難きを忍んでいるものなのよ」
パチュリーが補足する。そのセリフにうんうんとこれでもかと頷く咲夜、藍、妖夢ら。
「そんな秘密あったかなあ?」
レミリアがとぼけた。
「ないわね。うちの藍には忍ぶような苦労もないわ」
紫が微笑んだ。
「堪え忍んでいるのは私達の方」
幽々子が泣く真似をした。みな、従者達の冷ややかな視線を無視して勝手なことを言い始めている。
こうしてわけのわからない展開に周囲がざわついていると、突然意外な人物がプールの中空に進み出た。
「あら、せっかくやって来たのに、お目当ての人物に気を失われては困るなあ。起きなさいよ」
こう言ったのは、なんとアリス・マーガトロイド、魔法の森に住む人形使いである。
周囲のざわめきが一層激しくなる。ついさっきまで、ここにはいなかったはずの人物だ。
「あの娘は招待していないわよ」
紫がレミリアに言う。
「ふーん。しかし……あの夜に関わったメンバーはこれで全員揃った。そういうことなんだろう?」
レミリアがアリスに言った。
アリスはその言葉を無視して、ついーっ、と空中を進むと、くるり、と人形のように一回転し、倒れている私の上空にぴたりと止まった。
「何の用かしら」
半ば自棄になって私は答えた。この私にとって、この魔法使いの登場はまったく計算の中に入っていなかった。まるで観客に、劇のさなか舞台に上がられたような気分だ。
そんな私の気持ちを察したのか、アリスが冷たく言った。
「いま、私のことを観客のように思っているでしょう? 違うわよ」
私が今考えていることは自分には全てお見通し、といった口調だ。
「人形遣いが最後に出てきて悪いかしら。ペトルーシュカだって、劇の最後に人形遣い自身が出てくるわ」
意味がよくわからなかったが、その言葉はどこか自信に満ちているように感じられた。さらに続けてアリスはこう言った。
「もっとも、あなたにとっては劇の幕開けかもしれないけど」
「? 意味が分からないわ」
「あなたに頂いた薬、もう用が無くなったの。だから余った一粒を返しに来たのよ」
アリスがそう言うと、アリスの背後から一体の人形が飛び出した。その手には一粒の丸薬が乗っている。
ハッと気づいた。これは私が作りアリスに売った薬、胡蝶夢丸ナイトメアだ。……いや、違う。胡蝶夢丸ナイトメアに色も形も臭いもそっくりだが、どこかが違う。
「流石に気づいたわね。いや当然か。本当のことを言う。これは私からあなたへのお礼よ。素敵な悪夢を見せてくれたお礼。そして今のあなたに必要な薬だわ」
「なんていう名の薬かしら?」
「そうね……さしずめ……」
アリスの前で、一体の人形が紙を広げた。そこには「上海アリス幻樂丸」と書かれてあった。薬の名を他の者には聞かれたくなかったのだろう。
「……と命名したわ。幻想的で楽しい夢を見られるはず」
本当に幻想的な夢が見られるのだろうか、錯乱している私にはわからなかった。
しかし、この薬を飲まなければならない、ということだけは何故かわかった。またもや私の体は自動人形のように動き、薬を飲み込んだ。
視界がぐらり、と暗転した。最後に輝夜の澄んだ瞳が見えた。その時ようやくわかった、ああ、悪夢はとっくに始まっていたのだと。