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第一章

夜明け1 眠れる玉の林の乙女 〜 Quotidian Surprising events.

♪東方儚月抄 〜 Fugitives‘ Extract from a Fugitive Full Moon

 

 私、これから蓬莱山に行くんです。だから、後のことは頼みました。

藤木稟『陀吉尼(だきに)の紡ぐ糸』より

 

静かなだけではない。恐ろしく寒い。

雪が降り始めてからもう何日経つだろうか。降り止まないままにこの夜、小雪は吹雪に変わった。今しがたまで、視界が酵母のように朧な吹雪の中を私はフヨフヨと飛んでいたはずだった。その空に比べこの竹林の、そしてこの屋敷の静けさは別世界だ。邸宅の名に冠した「永遠」の二文字が厳然と保たれているのか。それだけでなく、この部屋は上空より明らかに寒い。文字通り時間まで凍りつくようだ。まだ酔いが醒めないのか猛烈な眠気を覚える。

その時、障子の向こう、静かな竹林から、突然ざあぁあと音が聞こえた。積もった雪で撓んだ竹が、撥ねてその雪を振り払ったのだろう。永遠の魔法を破るかのようなその音を聞き、ようやく私は口火を切った。

「ねえ、宇宙人のあんた達はこんな寒いのに平気なの? 私はそろそろ我慢の限界なんだけど……」

だだっ広い板の間のせいでなおさら寒く感じるのかもしれない。自分の住む神社の部屋の百倍はありそうな広さだ、と私、博麗霊夢(はくれいれいむ)は思った。その広い部屋のこれまた高い天井の下に繧繝縁(うんげんべり)の畳が離れて二畳敷かれており、その一つに座っているのだった。まだ畳の上なだけましかもしれない。木の床に直に座ったら足が凍り付いて床から離れなくなりそうだ。空中に浮いている方が暖かいかも、とつらつら思う。凍てつくような空気に触れ、私の声はすぐさま小さくなり、ぶつぶつ文句を言うだけになってしまう。

「あら、神社の巫女は冬なのにいつも寒そうな恰好をしているから、まるで平気なものだと思っていたわ」

答えたのは、ぬばたまの黒髪を纏(まと)う永遠亭の姫、蓬莱山輝夜(ほうらいさんかぐや)である。寒そうな恰好とは、腋の見える私の服のことを指しているのだろう。その通り、この服は寒い。でも、伝統だから仕方ない。伝統を保守する巫女だから仕方ないのだ、と心に言い聞かせる。言い聞かせてもう何年も経つが、やっぱり冬はすーすーして寒い。

陽の気が強い者は、腋から気が出るという。赤ん坊なんかが良い例だ。私は何気なく空を飛んでいるが、もしかすると、この腋が出ているのが関係しているのかもしれない。腋を出していない頃は空が飛べなかったような記憶がある。

でも、この寒さは服とは関係ない。そんなレベルの寒さじゃないのだ。両手を太股と脹脛(ふくらはぎ)の間に入れてもじもじしながら輝夜を睨み返す。室内の仄(ほの)かな明るさは暁が近いからだろうか、それとも雪明りだろうか。かろうじて対面して座る輝夜の表情が窺える。

「心配しなくても鈴仙(れいせん)に炭火を熾(おこ)して持ってくるよう命じました。私も永琳も寒さには慣れたから……この建物が凍えるようになったのは、あなたたちの御蔭よ。永遠の魔法を解いたからこんなにも冷えるようになったの。気温が一定で腐ることのない木の家でなくなったからだわ」

鈴仙とはこの永遠亭に住む、他の妖怪兎とはちょっと雰囲気の違う兎、鈴仙・優曇華院(うどんげいん)・イナバのことである。先ほど主人を迎え入れたり畳を敷いたりと忙しく動き回った後、輝夜の指示を受けて廊下を駆けて行った。

「それは悪いことをしたわね。それに炭火だけじゃ足りないわ。お菓子とかお茶とか色々持ってくるものがあるでしょ。この猛吹雪の中酔っ払いを運ばせといて、もてなしの一つもないのかしら」

「昨晩の例月祭で大量に残った、青色のお餅と藍色のお団子を後でたんと出すわ」

青い色は食欲を失わせる効果がある。だから料理用の皿に青い色は滅多に使われない。逆にダイエットに利用する者もいるという。なぜそんな色のお餅とお団子を作ったのか。そもそもお餅とお団子はどう違うのか。

「うええ、流石にちょっと食べたくないなあ」

「それにお茶はすぐに出せないけれど、茶筅ならあるわ。窄(すぼ)まっていたり丸まっていたり正十二面体だったり、色々な形のものが。どれもみな光るのよ」

「茶筅ばかり沢山あってもしょうがないでしょ!」

「茶筅だけじゃないわ。茶杓だって沢山あるわよ」

「だから要らないって」

私はだんだんイライラしてきた。この永遠亭に住む宇宙人達の思考はどこか飛んでいて、いつも会話が噛み合わない。輝夜達は「おめでたい巫女はこれだから……」というが、だったら千歳万歳の輝夜達の方がよっぽどおめでたい人間ではないだろうか。

「この家は竹林に囲まれているから、竹を材料に色々なものが作れるのよ。昔私を育ててくれた人間が竹を扱っていたと思い出して、雪が降る間色々細工に挑戦してみたの。何かお土産にあげましょうか。尺八とか。音は出ないけれど」

「何で音が出ないのよ」

「節が抜けてないからだわ」

輝夜が作ったものを想像して私は溜息をついた。どうせ尺八という名の何か、なのだろう。茶筅も茶杓も実用に耐えるものではないに違いない。

「もうそれでもいいわ、火にくべて暖を取れるなら尺八でもなんでも」

「あらそれはだめ。茶筅や茶杓と一緒に新々難題という弾幕にして投げつけようと思ってたんだから」

「やっぱり。そんなことだと思ったわ」

「仕方ない、この部屋の一枚板の天井を落せば少しは暖かくなるかしら」

「ちょっ」

「あるいはサラマンダーシールドでこの部屋ごと燃してしまえばきっと暖かいわ」

「こらこら、そんな無茶なことしないの」

サラマンダーシールドとは、以前輝夜と戦った時に見せた四方八方に炎を撒き散らす至極迷惑な弾幕の名だ。もし室内で発動したら永遠亭の全焼は免れないだろう。

「私も永琳も不死だから無茶じゃないわ。お茶を啜(すす)りながら温まるでしょう」

平然とそう言って、輝夜は床に目を落とした。私と輝夜の間に布団が一つ敷いてあり、永遠亭に住む八意永琳(やごころえいりん)が伏せている。

「そうだ、火が来たらついでにこれも洗って干しておいてくれないかしら。放っておいて臭うのもなんだから」

私は脇に打ち捨てられた雑巾のような塊を指差した。

「わかったわ。ところで、どうして冬なのに水着なんて着て泳いでいたのかしら? 地上の人間と妖怪の考えることはおかしいわね」

輝夜の「おかしい」の「お」の発音はなんとなく「うぉ」のようにも聞こえる。古風な発音なのだろうか。他にも「ち」が「てぃ」に聞こえることもあるし、時々「は」が「ふぁ」に聞こえたり、ひょっとすると「ぱ」のように聞こえたりする時がある。光は「ぴかり」、旗は「ぱた」という具合だ。

「ちょっと待て、あれを考え出したのは吸血鬼で私じゃないわ。海に招待すると言っていたけど、どう見ても月で見た海には見えなかった。冷水プールのせいで寿命が縮まる思いをしたわ」

そう言いつつ私は傍らの水着を見やった。本来、夏に仕事で水精や河童らを退治するため、川や湖に潜る時に着るものだ。河童や魔理沙は私が水遊びをしているとしか思ってないだろうけど、博麗の巫女の仕事なのだ。多分。

「あら、それなら本望じゃない。『永遠の巫女』には寿命を減らす方法が必要なのだと、あの宴会で私に話してくれたじゃない」

「? よくわからないけど、多分そんなことは言ってない」

その時、布団の中で永琳が動いた。目を覚ましたのかとそちらを見たが、寝返りを打っただけらしい。どうやら魘(うな)されているようで、ずっと顔を顰(しか)めている。

「言っておくけど、寒中水泳も凍えるようだったけど、この部屋はもっと凍えるんだから。こいつが魘されているのも部屋の気温が低すぎるからじゃないの?」

寒村の辺境に住む私は、たいていの寒さに耐える自信があった。炭代を節約しなければならない台所事情もあるのだが。しかしこの部屋の寒さは、生き物が生きていけるような気温とはとても思えなかった。ブルブルと肩が震え始めた。

「永琳が魘されているのは寒さのせいじゃないわ。ましてやあの館でお酒をたくさん飲んだからでもないの。もっと別の、そう、私達の罪のことで苦しんでいるのよ」

「そうかなあ。私には飲みすぎだとしか思えないけど……だって、プール三杯分よ?」

「駆けつけ三杯というじゃない。そのくらいのお酒、月の民にはなんてことないの。それに永琳は、その気になれば、数十秒で素面(しらふ)に戻れる、とか言っていたわ。だから永琳が酔っ払うなんてことはないの」

「数十秒で素面にだって? 嘘くさいわね」

「永琳はこうも言っていたわ。そんな低レベルの技術はもうすぐ外の世界の人間も獲得するでしょう、と」

「ますます信じられないわ。たったの数十秒しか酔っ払えないのなら、お酒の楽しみなんてなくなっちゃうわ」

「あなたの予言通りなら、寿命を減らす技術のために必要なのじゃないかしら」

また始まった、と思った。ここの住人と話し始めると、いつの間にか会話が成立していない状況になるのだ。イライラするのを解消しようと私は修正を試みた。

「あんたさあ、意味不明なことばっかり言ってるけど、もしかしてあの馬鹿な妖怪達の真似をしているのかしら? だとしたらあんたには意味のないことだから止めた方がいいと思うけど」

「特に真似をしているつもりはないけれど、ここの妖怪達が意味不明な会話をすることに意味があるのなら是非聞かせて欲しいわ」

「いい? 妖怪ってのは肉体的な傷には滅法強いけど、精神的な傷にはとんでもなく弱いのよ。だからもし真面目に会話をしたら、すぐにどちらか、あるいは両方が傷ついて立ち直れなくなっちゃうわ。それだけで済むならまだましな方で、論理的に筋道立てて議論なんて始めちゃったら、うっかり論理的に自己否定せざるを得なくなってしまう可能性が高いの。そうしたらその妖怪はこの世から消えるしかないじゃない。ブロッケンの妖怪がいい例だわ。山彦だって消えそうになって慌てているという噂を聞くし。だから妖怪は意味不明な会話をすることでお互いの傷つきやすい心を守り合っているのよ」

「まあ、見た目と違って玻璃(はり)のように繊細な心の持ち主ばかりだったのね。どうりで紅色の光を出す者もいるわけだわ。無量寿経(むりょうじゅきょう)に書いてある通りね」

輝夜はにこりと笑った。やっぱりまったくわけがわからない。私のささやかな目論見(もくろみ)は無駄だったのだ。私は会話を成立させることを諦めた。そして、どうしてこんなことになったのだろうと眠気と戦いながら思い出そうとしていた。

 

つい先刻まで、私と輝夜、永琳は吸血鬼の棲む館、紅魔館の宴会に参加していたのだ。いや、宴会というには珍妙な催しだった。紅魔館の地下にある大図書館のプール開きに誘われたのである。とはいっても幻想郷で珍妙な催しが行われるのは、まったく珍しいことではない。いつものことでなかったのは途中から図書館に入ってきた永遠亭の二人組、輝夜と永琳が珍しく酔っ払ったことである。特に永琳の酔いは酷く、酩酊したあげく泥酔してぴくりとも動かなくなってしまったので、私が背中に負って永遠亭にまで運ぶことになったのだった。吹雪に変わった空に出るのは嫌だったので「こいつはどうせ不死なんだし春になるまで雪の中に埋めておけばいい」と提案したのだが、輝夜はどうしても私に頼みたいという。そこで仕方なく私は紅魔館のメイドから透明な合羽を借り永琳をおんぶして飛ぶはめになったのである。永琳の枕元には私が脱ぎ捨てた合羽と、永遠亭の主従が身に着けていた笠と蓑が無造作に置かれていた。そういえば不恰好な笠だと思ったが、これも輝夜の手になる細工物だろう。いつだったかの夜、竹林で出会った魔法使いの霧雨魔理沙(きりさめまりさ)は、お地蔵さんに傘をかぶせて廻った犯人は人形遣いのアリス・マーガトロイドだ、と言っていた。でも、笠地蔵事件の真犯人もやっぱり輝夜なんじゃないだろうか。

「ふふふ、人間が永琳を運ぶ大役を荷うなんて滅多にないことだわ。光栄なことよ。……あら、冗談よ、冗談だって。怒らない怒らない。もうそんなことは思っていないわよ。本当なのよ? それより永琳を負ぶった感想はどう?」

私が投げつけた符をひょいと首を竦(すく)めて避けると、私が睨んでいるのを無視して輝夜は興味深そうに訊いてくる。

「……そうね、背負ってるとは思えないほど軽かったわね。あと酒臭くてしかも薬臭かった。……あ、あんたそれが嫌で私に押し付けたんでしょう」

「違うわ。あなたは以前、神社の近くで妖怪兎を助けたことはないかしら? 負ぶって神社に連れて行って介抱したとか。だから今夜もきっと永琳を助けてくれるだろうと」

「さあ……記憶にないなぁ。そういえば妖怪兎に化けた妖怪狸を運んだことはあったけど……」

もう半年近く前になるだろうか。私は博麗神社の境内で行倒れ、死にかけていた妖怪兎を助けたことがあった。どういう心境だったのかよく思い出せないが、いつもなら妖怪を助けようなどとは毫(ごう)も思わない私が、その時ばかりは助けてやろうという気になったのだ。結果は大失敗だった。まず、妖怪兎は大怪我をしているように見えたので、医者を呼びにここ永遠亭にまで飛んで来たのだが、永琳から狸に誑(たぶら)かされたのだと追い返されてしまった。次に、帰ってきたらその妖怪兎はほとんど治癒しており、従って永遠亭に行ったことはなんであれ無駄足だったとわかった。最後に、治癒した兎に安心して私が寝たところ、その隙を突かれて、手に入れた羽衣を盗まれてしまったのだ。骨折り損の草臥(くたび)れ儲けで、思い出しただけでも悔しい。その事件のあと、私は月に行くためロケットに乗ることになるのだが、あの羽衣があれば神を降ろさなくても月に行けたんじゃないかという気がする。ちなみにロケットとは紅魔館の吸血鬼、レミリア・スカーレットが月に行くために作った木造の小屋のことを指す。その小屋を飛ばすのに私が降ろした住吉三神――上筒男命・中筒男命・底筒男命の加護が必要だったのだ。神を降ろさなければ月で変な姉妹にいちゃもんを吹っかけられることもなかったんじゃないか。いや待てよ、それならそもそもロケットがなくても月に行けたはずだ。レミリアを放っといて私一人で月に行けたんじゃないかしら……。ここまで連想した後、ふと我に帰る。あれ? そういえばどうして月に行く必要があったんだっけ? ――でも確かにあの羽衣は本物のようだった。それに軽くて綺麗で私は一目で気に入ってしまい、次に異変が起きた時はこれを裁断して服を作ろうと皮算用までしていたのだった。

この幻想郷では、異変はまた、参加する女の子達のファッションショーでもある。起こす側も解決する側も、ここぞとばかりに新調した服――奇抜で非常識な衣服や帽子であることが多いが――を用意して来るのだ。どうせ私の符や針を受けてボロボロになってしまう癖に、といつも思うが女の子同士の口には出さない意地なのだろうか、昔と同じ服を着て来ることは滅多にない。これが家計の苦しい私には大負担で、服の仕立ては魔法の森の入り口で営んでいる道具屋にただで作ってもらっているものの、服の素材となる上質な反物はなかなかただでは手に入らないし道端にも落ちていない。こんな私の苦労を知ってか知らずか、あるいは嫌がらせなのか、どいつもこいつも異変のたびに次々と新しいおべべを着て来る。それだけではない。ファッション合戦のヒートアップは留まることを知らず、最近紅魔館で開かれたロケット完成記念パーティでもその話題で持ちきりになり、とんでもない新提案が続出した。

「次に異変が起きたら久しぶりに弾幕ごっこだけでなく挌闘もルールに加えるのはどうかなあ? そうしたら互いの衣服が破れるだろうし念のため色違いの服を何着も用意しておくと決めておこうじゃないか」こう、鬼が言い出したかと思えば、「それじゃあ新しく服を誂(あつら)えられない娘が可哀想よぉ。華美が過ぎないよう八着の色違いの服で我慢しなければならないと、そろそろルールに明記する時期じゃないかしらねぇ」と亡霊が余計なことを言い、最後に「なるほど奢侈(しゃし)禁止令だね、ゆくゆくは最高八着……最低八着の服が異変への参加には必要になる、ということだね」と蛙のような神(山の神様その二)が我が意を得たりといった顔でまとめると、その場にいた妖怪達がどっと沸いた。まったく冗談じゃない、新しい服が着たくて異変を起こしたいのか。どうせルナティック(気違いじみた)な色合わせになるくせに。よっぽどその場にいる妖怪を全員まとめて退治してやろうかと思ったが、紅魔館のメイド十六夜咲夜に「そんなことにならないよう私も尽力しますから、今は主催者の顔を立ててやってください」と宥(なだ)められ辛うじて踏みとどまった。今思えば、ファッションの話に目を輝かせていたレミリアを咲夜が止められるのか実に疑わしい。

あーあ、と思う。能力でどんな服でも用意できそうな鬼やいかにも財産を持っていそうな冥界の主、最近山の妖怪から信仰を集めて潤っている神社の神には衣服の準備など造作もないことだろう。でも、私が八つも服を新調したら、何日お八つを我慢しなければならなくなるのだろうか。考えただけでぞっとする。そんな私が幸運にも拾った羽衣だった。ああ、それなのに。私は再び悔しい思いでいっぱいになった。そういえばあの時、神社にいる妖怪兎(あるいは兎に化けた妖怪狸)を見て、何故か私は安心してしまい、眠ってしまったのだ。どうして眠ったりなどしたのだろう。思えば、あの時眠って以来、変な感覚がする。ふわふわとどこか現実の中にいないような感じが。もしかすると「昼間寝てると妖怪になる」という魔理沙の言うことは本当だったのだろうか。何にせよあの時眠ったのは不覚以外の何ものでも無い。

「なんだか腹が立って来たわ。あんたが余計なことを言うからよ」

「あらごめんなさい、私の思い違いだったかしら。まあいいわ、本当のことを言うわ。あなたは賭け事が恐ろしく強いんですって?」

「ん、まあ……ね」

「頼もしいわ。そこで永琳をここまで運んだついでに、永琳が目を覚ますまで起きていて欲しいの。そんなに時間はかからない、直に起きるわ」

「それが賭けなの? わけがわからないわね。それに幸運に恵まれたいのなら、私じゃなくてもここに住む妖怪兎だっているじゃん」

「てゐと呼ばれるイナバのことなら、今夜はいないわ。竹林に住むイナバ達は鈴仙以外誰もいないの」

確かに言われてみると、いつもならうじゃうじゃとそこら中にいる兎が今夜に限って見当たらない。道理で静かなはずだ。そういえば吹雪で視界が悪かったのに、永遠亭を見つけ出すのも苦労しなかった。いつもは勘を働かせてようやく着く場所だというのに。まさか、兎を皆追い出して幽霊でも飼い始めたのだろうか。

「いい霊夢、今晩、恐らく私と永琳は正式に幻想郷の『人間』になったの。人間になった以上、てゐの幸運は必要以上に私達に作用するでしょう。それでは困るのよ。私と永琳には、あなたの幸運が必要なの」

「どうでもいいけど、私に期待されても今は眠くてしょうがないわ。こいつが目を覚ます前に私が寝ちゃうかもしれない。あんたは眠くならないの?」

「歌にもあるわ。

 

なよ竹のよながきうへに、初霜のおきゐて物を思ふころかな。

 

霊夢も寝てはだめ。今夜は誰も寝てはならぬ。……もっとも霊夢は未だに目が覚めていないようだけど」

輝夜は意味深に言葉を付け足し、にっこりと笑った。私はあの夜を思い出した。あの夜――あの幾つもの永い夜を経て初めて輝夜と会ったときにも、輝夜はこんな笑顔を見せた気がする。喜んでいるのか楽しんでいるのか馬鹿にしているのか、何を考えているのか良くわからない顔だ。

「今夜初霜が降りたわけでもないし、誰も寝てはならぬってこいつは既に寝てるじゃない!」

私が永琳を見て怒鳴ると永琳が微かに呻(うめ)いた。悪夢でも見ているのだろうか。

「それに、こいつ私の背中で随分と唸(うな)っていたわよ。宇宙人もこんなに酔っ払うことってあるのね。それともあの館で変なものでも飲まされたのかしら」

「飲まされたわけじゃないわ。永琳は自分の意志で飲んだのよ」

「?」

私もさんざん酒を飲んでいたので記憶が定かではないが、永琳は確か大量の酒を飲んだあと、不思議なことに輝夜と一瞬、険悪なムードになった。やばいと思い止めに入ろうと身構えたことを覚えている。そういえばあの時、輝夜は服の中から何かを取り出したような気がした。その後、永琳がぶっ倒れたのだ。輝夜の言うとおり永琳が酒に酔わない体質(?)だというのなら、輝夜が見せた何かに秘密があるのか。

「あの時、何かを取り出していたわね」

「ああ、これのこと?」

輝夜が見せたのは縞模様の光る小さな貝だった。確か、以前これを見立てた弾幕を難題と言って吹っかけてきた。

「それ、贋物なんでしょ? あんたが五人の男に持って来させた宝は全て贋物だってね」

あの夜、初めて戦った時は気づかなかったが、やがてこの少女が「昔話」として誰もが知っている「かぐやひめ」その人なのだとわかった。昔話によればあの五つの品は全て贋物のはずだ。

「あらよく知ってるわね。でも全て贋物、ではないの。この蓬莱の玉の枝だけは本物よ」

輝夜は懐から今度は美しい玉が鈴生りになった枝を取り出した。

「おん? 本物だったのなら、どうしてそれを持ってきた男と結婚しなかったのよ」

その時、輝夜がさっと顔を曇らせた。まるで満月に黒雲がかかったかのようだ。

「……そう。そうね。本当はあの男と結婚しなければならなかった。でも、その男の手下にお金を渡して『その蓬莱の玉の枝は贋物です、私達が工房で作りました』って言わせて御破算にしちゃった。どう? 頭良いでしょう?」

そう言った輝夜だが、顔はちっとも得意そうではなかった。

「綺麗な顔をして酷いことをしたものねえ」

「……だから、あの男の娘が私を恨むのも本当は当然なのね」

「あの男の娘? 誰の話かしら」

「最近、穢れを受け入れて判り始めたわ。これはあり得ない話なのだけど、もしあの男と結婚していたら……あいつも私の娘として可愛がってやれていたかもしれない」

「話が見えないわね」

輝夜は何か考えているようだった。そして笑顔を取り戻し、満月が再び部屋を照らした。

「……ふふ、でもそうしたら、きっと私も蓬莱の玉の枝を振るって血腥(ちなまぐさ)い戦に加わっていたかもしれないわね」

そう言って輝夜が楽しげにぶんぶんと玉の枝を振りかざすと、小さな弾が飛び交い、部屋は幻想的な空間に一変した。輝夜が言うには、夢色という色なのだという。その時、私はふと昔のことを思い出した。

「ふん、蓬莱の玉の枝なんて珍しくないんじゃないかしら。以前、外の世界から八人の人間が迷い込んだことがあったけど、その八人がお互い殺しあったときにもその蓬莱の玉の枝が使われたようだし」

「あら初耳だわ」

もう何年前の話だろうか。ある夏の日、外の世界から幻想郷にやってきて森の中の廃洋館に住み着いた、一見仲の良さそうな八人組のことを思い出した。瑣末(さまつ)なことと詳しく記憶に留めていなかったが、思い起こせばあれも妙な事件だった。

「首をチョン切るのに使ったみたいよ? その枝で、スパッと」

「あり得るわね。確かにこれは地上に争乱をもたらすため使われてきたもの、既に幻想郷にあってもおかしくはないわ。でもその八人もよっぽど穢れていた者達だったのでしょうね」

その通りだ、と思った。なぜなら殺し合いを始めた八人のうち、生き残ったのは一人の少女だけだったからだ。遺体は全て妖怪に食べられて跡形もなく消えた。幻想郷にはよくある妙な話だ。

「あんたは不老不死なんでしょう? いずれあんたも穢れだらけになっちゃうわよ」

「ええ、そうね。楽しみだわ」

そう答えた輝夜に私は違和感を覚えた。ついさっき紅魔館で輝夜から聞いた話と違うような気がする。

「そういえば、あんたも意外なことを言ったものね」

「意外とは?」

「さっき、プールのそばであんたと話したじゃない。私はてっきり、あんたは静かな暮らしなんて望まないと思っていたんだけど。私には、あんたが『一定の仕事をして静かに将棋を指す』なんて暮らしをするとは到底思えない。それに、以前あんたは、過去は無限にやってくるから今を楽しまないと意味が無い、とかなんとか言ってなかったっけ?」

「へえ、意外なところで記憶力があるのね。そういえば永琳もずっと『輝夜から見た地上は、刹那(せつな)的な快楽の渦巻く穢れた場所として魅力的に映っていたに違いない、だから蓬莱の薬を飲んだのだろう』と思っていたようね」

「違うの?」

「確かに『刹那的な快楽』には興味があるわ。私は永遠と須臾(しゅゆ)を操ることが出来る。須臾とはフェムトとも呼ばれるの。でも刹那は、さらに小さい単位、つまりアト。永遠と刹那を操れたら、と私が考えるだろうと永琳が思うのも、当然といえば当然だわ。そして刹那的快楽とはどんなものか私が良く知りたがったがために蓬莱の薬を飲んで地上に向かったのだ、という結論に至るのでしょう」

まったく意味がわからない。多分、永琳が思っていた内容とは違うんじゃないかという気がする。それにしても宇宙人と言う奴は、唐突に難解なことを言い出すのだ。どこかの音楽団が輝夜のために書いた曲は副題にルナティック・プリンセスと付いていたが、まったくその通りだ。

「月に行った時会った姉妹は、あんた達を捕まえようなんて気はこれっぽっちもないみたいだったわよ? 『天網恢恢(てんもうかいかい)、疎にして失わず』というのは間違いだったのかしら」

「おそらく『天網恢恢、疎にして呑舟(どんしゅう)の魚(うお)を漏らす』と見せかけてやっぱり『天網恢恢、疎にして、もちろん呑舟の魚も失わず』ということなのでしょう」

故事の「網呑舟の魚を漏らす」とは網の目が大きすぎれば舟を飲み込むような巨大な魚さえも逃してしまうという意味だ。転じて、緩い法が犯罪者を逃してしまうことの例えに使われる。しかし、輝夜の言っている、と見せかけてやっぱり漏らさず、とはどういう意味なのだろう。罪人は、月の追手から逃れ、今も目の前でのうのうとしているではないか。だが……。

いい加減、宇宙人語を理解できないことにも慣れてきたが、なんとなく輝夜が言っていることが正解のような気がして私のイライラが増幅する。

「とにかく、あんたがどうして地上に降りて来たのかわからないわ。そんなに静かな暮らしを望むのなら、さっさと月に帰ればいいじゃない!」

「ふふ、あなたがそう思うのも無理はないわね。その通りよ。あの時の話も、あの時あなたの話に驚いて見せたのも、全ては……」

 

その時、とたとた、と縁側を歩む足音が聞こえ、襖越しに鈴仙の声が響いた。

「火を熾してお持ちいたしました」

鈴仙が襖(ふすま)を開けたとたん、庭から光と空気がさっと差し込んだ。外の空気の方がまだ暖かい気がする。日の出が近いのか、外は大分明るい。

「遅いじゃない! いつまでも待たせてさあ」

怒り心頭になった私はがなり立てた。

「え……それは……ごめんなさい」

自分の師を私に運んでもらったためか、鈴仙はいつもと違いしおらしい。

「霊夢も姫もお師匠様も、寒い部屋で十分(じっぷん)も我慢していただいてすみません。これでも最大限急いだんです。寒さのせいかなかなか炭に火が点かなくて」

「え、なんだって? 十分だって?」

そう言って私は輝夜を睨んだ。私の感覚では三時間は凍えていたはずなのだ。

「それと姫、竹林の外の方がざわついています。てゐ達が帰って来るようですよ」

「そう、でも間に合いそうね。そろそろ永琳が起きるわ」

それに呼応するかのように、永琳が「む……」と呻いた。

「雪降る寒い朝に急いで熾した炭。つきづきしい朝になりそうだわ」

そう言って輝夜は意味ありげに、伏せる永琳の方を見た。それから、また私に向かってにこりと笑った。

永琳が目を覚ますだろうと思った瞬間、私は、思わず「あ」と小さく呟いた。この世の深層、『記憶の層』が幽かに響(とよ)み、世界が何か重大な選択をしたような気がした。

 

 

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